基礎知識は大切です。
私たちは、太陽が真上に来るまで走りに走り続け、ついにシュルター城にたどり着いた。
シュルター城は、「お城」という響きで私がイメージしていた優雅さとは一切無縁の、石造りの要塞だった。
そして、かなり小さい。
城門近くにまで人があふれている。そのほとんどが小さい子供やお年寄りだった。彼らは汚れた服装をして、疲れ果てたように地面に座り込んでいる。所々で子供の泣き叫ぶ声がしていた。
「あの人たちは、どうしたの?」
ゲラニーを連れて、厩舎に向かいながらヴァクルに尋ねると、ものすごく深いため息をつかれた。
「お前、おかしくなってんの記憶だけじゃねえだろ」
し、しまった。なんか常識的なこと間違えているのね、私。
「あー、うん。なんか、頭がぼーっとしてるみたいで……」
「殿下も、お前に対して何かおかしいよな」
ヴァクルの言葉に私はびくっとした。
「そ、そう?」
「俺の記憶では、少なくとも2回はお前を『マーヤ』って呼んでた」
「……!」
確かにそうだ。しかも、バルスク兵を追い払った時は、もう地平線にも届かんばかりに叫んでたよね……。
戦以外は色々雑なんだな、あの王子。
「えーと、それはですね……」
「蘇った者だからです」
背後で涼しい声がした。
「サール! 様」
そこには、とても長時間馬で駆け通してきたとは思えない、土ぼこりの片りんも見えないような、司祭服の男が立っていた。槍はすでに持っていない。
私は助かった、と胸をなでおろした。
サールはヴァクルに、流れるような説明を始める。
「マーヤは古アナティック語で神の恩寵を受けた者を指す、マール=アル=アヤマを略した名前です。シャラナルは死から蘇ったので、殿下が新しく名前を与えたのです」
「殿下が、古アナティック語を?!」
「もちろん教えたのは私です」
ヴァクルは一瞬ぽかんとしていたが、いきなり顔を輝かせると、私の背を思いっきり叩いた。
「すげえな! 良かったじゃん」
慣れない馬での長時間移動で、かなりヘロヘロの私はいとも簡単によろめいた。
「あ、わりい」
ヴァクルが慌てて支えてくれる。
「でも、すげえよ。殿下から2つも名前もらったことになるんだぜ。頑張って出世して、家名にしろよ!」
「カ、カメイ?」
「ああ。騎司になれば、その名前を子供に孫にも名乗らせることができるだろ」
「バトヴェ……?」
首を傾げる私にサールが説明してくれた。
「騎司は一軍を預かる将軍のことです。サルドウ将軍やザンターク将軍は建国の昔より仕える名門騎司ですが、ヴォスタイン将軍のように、戦功により騎司に取り立てられることもあります。その際に、家名も与えられるのですよ」
うーん、大名に取り立てられる、とか、武家の棟梁になる、とかそういう感じだろうか……。
「おまえ……、まさか、そんな基本的なことまで――」
考え込んでいる私を見て、ヴァクルが呆れを通り越してげんなりしたように言った。それを見たサールが、慌てて割り込んでくる。
「ヴァクル。私はシャラナルに用事があるので、悪いけれど、今連れていきます。彼の馬を頼めますか?」
「え? まあ、いいですけど」
ヴァクルは私の方を向いた。
「その代わり、明日の馬番代われよ」
「あ、うん」
私はうなずいた。
ヴァクルが手綱を取ろうとしたので、慌ててゲラニーを振り返る。
あんなに走って疲れているはずなのに、穏やかで相変わらず綺麗な目をしている。
私は、そっと額を寄せると言った。
「ありがとう。全部ゲラニーのおかげだよ」
馬に乗ったこともない、戦場に立ったこともない私を乗せて、ここまで走り通してくれた。シャラナルじゃないと分かっているのに。
そう思うと、感謝してもしきれない。明日の馬番の時に何か御礼できないか、後でアレウズに聞こう。
「あなたは、動物と話せるんですか?」
使ったことのない筋肉を使ったせいか、がくがくする足で必死に石造りの階段を登っていると、さっさと先を歩いていたサールがいきなり立ち止まって振り向いた。
さっきゲラニーに話しかけていたから、頭おかしいと思われたのかもしれない。
「話せませんよ。でも、ゲラニーは賢いってアレウ……殿下も言ってたし、なんだか通じている気がするんです」
「殿下、と言い直しても敬語使わないなら意味ないですよ」
「あ、すみません」
なんか新人研修みたいだな。
「トルヴァ人は馬と話せます」
サールがさらりと言った。
「え?」
私は驚いてサールを見た。
「どうすると話せることになるのか、ホロムク人の私には分かりませんが、あなたもそうなのかと思いました」
そういえば、ヴァクルも最初に崖から馬を下ろす時に、何か話しかけていた。
アレウズが話してみろ、と言っていたのは、信じれば気持ちが通じる、みたいな精神論的なものではなく、純粋に技術だったのか。
じゃあ、ゲラニーは本当に人間の言葉がわかるんだ!
そう思うとますます嬉しくなった。
明日も、助けてくれてありがとう、って言おう。
そう考えていた時、はた、と大事なことを思い出した。
「サール様。昨晩は助けていただき、ありがとうございました」
下げた頭をあげると、サールが意外そうな顔つきで私を見ていた。
「よく私だと分かりましたね。馬上に突っ伏しているから何も見えていないと思っていました」
「いえ、ちゃんと見てました。ある程度は」
見たものすべてを思い出すのは正直避けたい。冷静に考え始めたら、吐くか倒れるかしそうだ。
「あなたはもう蘇りし者・マーヤですからね。殿下のために重要な存在です。守るのは当然ですよ」
サールはにやりと笑って言った。なんか悪い顔になってない?
「それで、私に用事って何でしょうか」
私が不安げに尋ねると、サールは思い出したように階段を登って、木の扉を押し開いた。
「ここです。どうぞ、入ってください」
勧められるままに扉をくぐって、私は呆然と立ち尽くした。
入れってどうやって??
中は、嵐が過ぎ去った後なのかと思うほど散らかっていた。
床は足の踏み場が無いほど一面に紙が散らばり、羊皮紙の巻物は一つも満足に巻かれないまま、壁付近の木箱に積まれている。
家具といえば、木製の大きい机と背もたれのない椅子らしき物だけだ。その机も、もとはテーブルクロスの役目を果たしていたのであろう、豪華な織布はほとんど床にずれ落ち、人間が読む物とは思えない巨大な本によってかろうじて端が机上にとどまっている。
机の上には同じように辞書みたいな本が数冊と、銀製の皿と倒れた盃……。
「あの……、まさかこれ掃除しろ、とか……」
「は? 掃除?」
サールが意味が分からない、という顔をして、器用に紙を避けつつずんずんと木箱に向かって歩いて行った。
私は仕方なく、その足跡を踏んで中に入った。
「うーん、これでもないし、こっちかな」
サールはぶつぶつ言いながら、木箱に積まれた羊皮紙をぽいぽい後ろに放り投げている。
こんな猫型ロボットみたいなことする人、本当にいるんだ……。
私は慌てて放り投げられた羊皮紙を拾い集めた。すごく重い。
「ああ、これこれ」
サールはそう言いながら、一枚の縦の長さが1メートル以上はあると思われる羊皮紙を、机の上に置いて一気に広げた。
紙の束や銀コップが床に落ちる。
私は慌ててそれらも拾った。
「ああ、そこに置いといてください」
サールは、興味なさげに私の手にあるものを、ちらりと見て言った。
いや、置く場所なんてないし!
私はしかたなく、窓の下に辛うじて見える床に、それらを置いた。
「とりあえず、これを覚えてください」
サールが、机の上に広げた羊皮紙をさした。
覗き込むと、それは大きな地図だった。
『アルイール大陸』と書いてある。
「記憶が無い、でなんとかなる範囲にも限度があります。なんといっても、あなたは殿下の従士なのですからね。我が国の現状は、しっかり把握してもらいます」
なるほど。さっきヴァクルに言われたみたいに、記憶どころか根本から頭おかしくなったと思われるのは避けたいわけだ。
この世界で生活することに決めた以上、常識的なことは知っておきたいし、ありがたい話だ。
南北がどうなっているのか分からないが、とりあえず中央がサラヴァルト王国。その左にバルスク……は帝国なんだ。右はキリタリア連合国。そして、下に小さくビサンテ王国と書かれている。
キリタリアとビサンテは海に接しているが、バルスクの領地は地図の外へ続いているので、その方向に海があるのかはわからない。
そして、サラヴァルトの上には、シャラナルが倒れていた、と言っていたアマルナ山脈が広がっている。その他は小さく山や川、そして主要都市や城塞とおぼしき名前が細かく書かれている。
「この名前、全部覚えるんですか」
私はげんなりして言った。
「主要な都市と城塞は、すべて覚えてください」
さらりと言って、サールは地図の左を指さした。
「我々はここにいます」
指の先にはシュルター城の記載があり、その左にもう少し大きい文字で、『セノンテス辺境伯領』と書いてある。
「セノンテスって、殿下が、ぶっ殺す、って言ってた大砲の人ですよね」
「……。首をはねる、と言っておられましたね。お怒りはごもっともです」
「裏切ったからですか?」
地図上で見ると、国境線はセノンテス辺境伯領の左に書かれている。
サラヴァルト王国の地図上で辺境伯、という表記がなされている以上、その称号はサラヴァルト国王から与えられたものだと推測して、私は尋ねた。
サールはすこし浮かない表情で言った。
「セノンテス伯の立場は、代々非常に微妙なものです。長らく争っている我が国と、バルスク帝国に挟まれ、ある時は我が方へ、そしてまたバルスク側へ、と翻弄される歴史を持っています」
ん? わりと同情的だ。
「特に現在の領主であるギーレク・セノンテス伯は、非常にしたたかな外交能力を持っておられる。今回の大砲も、そもそもセノンテス伯が大砲を購入、または鋳造したという情報は当方にもたらされていませんので、違う、と言い張られれば、こちらもその言葉を信じるしかありません」
「でも、サール様はセノンテス伯が大砲をバルスクに渡した、と思っておられるのですよね?」
「バルスクの動きから、そう推測します」
サールは、セノンテス伯領の都市アカルナニアをさした。
「本来、バルスク軍が我々を攻める場合、このアカルナニアを落とし、辺境伯領を手に入れることが定石です。しかし、今回はこちら」
と、指を下に滑らせる。
「ミレトスの村々を襲い、そこからシュルターに進軍しようとしています。アカルナニアに被害を与えず、サラヴァルトを攻めようとしている。何かの密約があるはずだと思っていましたが、バルスクへの協力がそれだったのでしょう」
「大砲の供与と引き換え、という事ですか?」
「それだけではありません。このミレトス地域の村はすべて軍事植民市です」
軍事植民??
サールは私がきょとんとしているのを見て、根気よく説明してくれた。
「つまり、辺境伯がお金を払って……といっても実際は王国の国庫から出ますが、ここに住んでもらっているのです。バルスクへの守りとして。つまり、この村の農民は通常は畑を耕して暮らしていますが、バルスクが現れた時には、兵士となって国境を守ります」
なるほど。アレウズが率いている兵士たちは職業軍人。ミレトスの住民は半士半農というわけだ。
「しかし、今回この地域が攻撃を受けた時、兵士たちはセノンテス伯の命で、アカルナニア近くのシノペ城塞を守っていました。それを知らなかった我々は、ミレトスにすでに軍が展開しているものと思い、機動力を活かせる騎司を中心とした編成で、駆け付けたのです」
それでこの少人数だったのか。私は納得しつつ言った。
「つまり、兵士たちを常時駐屯させておいて、いざ敵が来たら将官が駆けつけて指揮をとる、というシステムなわけですね。で、今回は、まんまとそれを逆手に取られたと」
「そ、その通り」
サールの頬がちょっと引き攣る。
いかん、ずけずけと言いすぎた。しかし、サールはすぐに気を取り直して続ける。
「我々が到着した時には、すでにミレトスの村はすべて焼かれ、敵軍は網を張るように待ち構えていました。殿下の機転で、罠に飛び込むことにはなりませんでしたが、あとはご存知の通り、ガーフの丘で包囲される羽目に陥ったわけです。セノンテス伯は、ミレトスから兵を移動させることで、バルスク側に加担したと私は見ています」
そんな……。つまりそれはアカルナニアの代わりにミレトスの村々を犠牲にした、という事?
アレウズが怒るのは当たり前だ。
「じゃあ、あの城門にいた人たちは……」
「ミレトスの村から避難してきた者たちです。年寄りと赤ん坊しかいないのは、若者が皆兵士としてシノペに行っていたからです」
「女の人も?」
私は驚いて尋ねた。サールは私を見て、それこそ驚いたような顔をした。
「兵士は男と決まっています。若い女は、バルスク兵にさらわれたのでしょう」
サールは、当たり前のようにそう言った。
私は息が詰まるような気がした。
本当に、ここはそうした暴力があふれている世界なんだ。
なんだかまた吐き気がしてきた。
「マーヤ?」
下を向いてしまった私の背を支えるように、サールの手が当てられた。
「座ってください」
何かが払い落される音がして、私は固い木の椅子に座らされた。
「その女の人たち、助けられないんですか?」
私は小さい声で言った。
「助ける?」
サールが眉をひそめた。
「バルスクは王都を攻めるため、大軍を率いてきているのですよ。そして今、このシュルター城が王国の防衛の最前線です。我々とて、無事にこの苦境を生き延びることができるかの瀬戸際です。他に割く余裕などないのです」
私は黙り込んだ。サールの言う事は最もで、私は戦争のことを何もわかっていない、甘い思考の持ち主だ。
でも、それならそれでもいい。兵士は死んで当たり前、女はさらわれて当たり前、なんて現実には慣れたくない。
私なんかにできることは、何もないかもしれない。でも、何かあるかもしれない、と考えるのは私の自由だ。
私はぐっと唇を噛んだ。
「サール様。失礼いたしました。もう大丈夫です」
私は立ち上がった。
「続きをお願いします」
サールは、おや、という顔をしたが、軽く微笑んで頷くと、地図を指してまた説明を始めた。