私の知っている乗馬ではありません。(注:乗馬は未経験です。)
大量の篝火が、天を焦がしそうだ。
夜になって気温は一気に下がったが、それにも負けず、兵士たちの士気は高い。
篝火にきらめく甲冑を身に着け、弓矢を背負った兵士たちが整列する姿は、鳥肌が立つほどの威容を誇っている。
天には星が振り撒かれたように広がっているが、それと同じくらい、地上の篝火も数が多い。
「包囲していることを示すのに、連中は篝火を余計に焚くのですよ」
サールが言った。
この人だけは、甲冑も身に着けず、武器も長い細身の槍一本だ。
「サール様、弓矢はいいのですか?」
サールは、身軽そうに槍をかつぐと微笑んだ。
「私はサラヴァルト王国の者ですが、もともとはホロムク人です。弓矢は習わなかったので、使えば味方を射ってしまいます」
そんなこと言われたら、私なんて弓に触ったこともないんですけど?
シャラナルもちゃんと少年用の弓を持っていたので、私はそれを見よう見まねで肩にかけている。
おまけに従士として、矢は自分の分と、アレウズの補給分を持っているので、ものすごく重い。それにプラスして鎖帷子に銀の胸当てと、小ぶりだがずっしりとした剣も装備している。
鞍によじ登れるかものすごく不安だ。
昼間、アレウズにシャラナルの馬を見せられた。
「どうだ、美人だろう! 名前はゲラニーだ。美人だからな」
なぜ二回言う?
私はげっそりとして、その大きな生物を見上げた。
「私、馬の乗り方知らないんだけど」
そう言うと、アレウズは大笑いして、私をひょいと担ぎ上げ、どさりと馬の背に乗せた。
本っ当にひどい。途端にゲラニーは前足を振り上げ、私は見事に落とされた。
怪我をしなかったのは、アレウズが下敷きになってくれたおかげだ。
次期国王をクッションに使ってしまったのは申し訳ないが、まあ、自業自得だ。
「何するんですか!? 乗れないって言ったでしょ!」
「やっぱりゲラニーは賢いな」
「は?」
「シャラナルじゃないと分かってる」
「当たり前でしょ!」
私は怒鳴った。
見かけだけでだまされるのなんて、人間だけだ。
アレウズは立ち上がると、優しくゲラニーの鼻をなでた。そして、静かに言った。
「すまなかった。お前の主人は、もういないんだ」
私は胸を突かれたような気がした。
こうしてふいに、彼の中のシャラナルの不在を見るたびに、なんだか悲しいような後ろめいたような気持になる。
私が、本当にシャラナルならいいのに……。
「マーヤ」
名前を呼ばれて、私ははっと顔を上げた。
ゲラニーの栗毛の鬣をなでながら、アレウズが言った。
「ゲラニーに話してやってくれないか」
「え、何をですか?」
「何でもいい。天気の話とか、前いた場所の話でもいいぞ。マーヤがどんな人間かわかれば、好きになるさ」
私はふい、と横を向いた。
「なんでそう言い切れるんですか? 殿下だって、私のこと、どんな人間か知らないじゃないですか」
「アレウズだ」
低い声がきっぱりと言った。
「二人の時は名前でいい。俺もマーヤと呼んでいるだろう。それに――」
突然、頬に彼の手のぬくもりを感じた。私は驚いて顔を上げる。
「マーヤがどんな人間かは分かってる」
私は頬が熱くなってきて、それを見られないように背を向けた。
「まだ会って、一日じゃないですか!」
「それがどうした。一日でも分かることはある」
私は疑わし気な視線を送った。
「例えば?」
「騒がしい」
「それ、悪口じゃないですか!」
「泣き虫だ」
「さっきのは事故です!」
「すぐにむきになる。それから――」
「もういいです!」
思わず振り返ると、アレウズが優しい瞳で私を見ていた。
「同情しやすい」
「それも……悪口ですよね」
「そんなわけないだろ。俺は、あんまり口がうまくないんだ。言いたいのは、マーヤ、お前がシャラナルのために残ってくれたということだ。まったく見ず知らずの俺の役に立ちたいと言ってくれた」
「違います。自己犠牲みたいに言わないでください。私はただ、帰っても仕方ないと思ったんです。待っている人がいるわけでもないし、それに、ここならシャラナルみたいに、私にも価値をみつけてもらえるかもしれない、という下心です」
「もう一つ分かったぞ。自分の気持ちに全然素直じゃない」
「正直に話してるんです」
「嘘だとは言ってない。素直じゃない、と言ってるんだ。それに、分かっていないというなら、俺はもっとマーヤのことを知りたい」
もう、なんなのこの人!
意味の分からない感情に押し流されそうだ。
私は思わず走り出すと、ゲラニーに飛びついた。
ゲラニーは嫌がらなかった。
「話しますから、二人にしてください!」
アレウズはあっけにとられたようだが、すぐに「わかった」というと厩を出て行った。
殿下に対して不敬だとは思うが、もう心に余裕がない。
「あーも―ナニコレ、なんなの?なんで私パニックなの?」
遠慮なくゲラニーのベルベットのような首に、顔をぐりぐりと押し付ける。
あの顔面がいけないのよ。顔面が!
すると、ゲラニーが顔をこちらに向けた。見上げると、黒い瞳がじっと私を見ている。
「ゲラニー!!」
心配してくれているような気がして、もう一度その首に抱き着いた。
温かさが伝わってくる。
私は深く息をついて気持ちを落ち着けると、改めてゲラニーの瞳を見上げた。
「ごめんね、シャラナルじゃなくて」
アレウズの真似をして、そっと鼻をなでる。
長いまつげがばさばさと上下し、優し気な瞳が私を見た。
アレウズの琥珀色の瞳がふと、蘇ってくる。
そっとゲラニーの鼻に額を当てた。
「シャラナルみたいには、できないと思う。でも、私、あの人と一緒に行きたいの。どうしてだか、自分でもよく分からないけど、傍で役に立ちたい、と思う」
言いながら、なんだか恥ずかしくなってきた。赤くなってうつむくと、ゲラニーが突然動いて私の頭を鼻でつついた。
私は顔を上げた。
「乗せてくれるの?」
ゲラニーはただ、私を見つめている。それだけなのに、なんだか気持ちが通じたように思った。
私は鞍に手をかけると、鐙に足を乗せてみた。
思い切って地面を蹴る。
視界が突然高くなった。
「乗れた……」
私は呆然として呟いた。
「お! ゲラニー、大丈夫なのか?」
ヴァクルが厩舎に入ってきて、驚いたような声を上げた。
「え? 大丈夫、って?」
「お前が刺されてから、元気なかったんだ。飯も食わないし」
そう言うと、飼い葉桶をどん、と置いた。
「食わせてやれよ」
「あ、うん」
私はそう言ってから、はっとして硬直した。
「あ、あのー」
他の馬の方へ歩いて行こうとするヴァクルの背に、おそるおそる馬上から声をかけた。
「なんだよ、足りねえか?」
「いや、そうじゃなくてですね、降りたいので手を貸してほしいなー、と」
「はあ?」
露骨に厭そうな顔をされた。
結局ヴァクルは手を貸してくれたが、「怪我してるからって甘えんな」と叱られた。怪我っていうか、槍で貫かれたことになってるんだけど?
サールによると、サラヴァルトのトルヴァ人と呼ばれるこの人たちは元々騎馬民族で、馬の扱いに関してはかなり厳しいようだ。
今、目の前に整列している兵士たちも、全員が騎馬で弓を肩に掛けている。
甘えるな、と言われても、馬から降りるのはかなりの高さからなので怖い。しかし現状は、乗るところからして問題ともいえる。
「こんな重くて大丈夫?」
ゲラニーにそっと言うと、黒い瞳がバシバシと瞬きをした。夜の闇を背景にして、その目がきらきらと輝いている。
大丈夫、ってことなのかな。
とにかく、ここを出ればもう、人と人の殺し合う戦場だ。
私はとにかく走る事だけをイメージした。
運があればなんとかなる。そう思い込まなければ怖くて立っていることもできない。
「おい、シャラナル。早く乗れよ」
頭上から声がした。見上げると、ヴァクルが馬上から見下ろしている。
ヴァクルの馬は白い毛に、乗り手と同じ金の鬣を持っている。服をもっとルネサンス風に変えれば、一気におとぎ話の王子様になれそうだ。
「ぐずぐずすんな。殿下が来ちまうだろ」
どういうわけか、言葉使いは酷い。
「う、うん」
また手を貸して、って言ったら怒られるかな。
そう思いながら、もたもたしていると、突然背後から大きい手に腰をつかまれた。驚く間もなく、体がふわっと浮き上がる。
私は慌てて鞍をつかみ、ゲラニーの背に着地した。
見ると、アレウズが私を見上げていた。もう、声も出ない。
「俺の右から離れるな」
夜の中で、琥珀色の瞳は金色に燃えているように見える。
アレウズは黒毛のひときわ立派な馬に飛び乗ると、すらりと剣を抜いた。
「天を駆ける者、伝説の王アライアスの子らよ!」
兵士たちの間から歓声が沸き上がる。
「今こそ、我らの誇りが試される時だ。いかなる難所があろうとも、我々を阻むことはできない。女神ネインの加護を持って、敵を貫け!」
さらなる歓声が響いた。
そんなに騒いだら敵が起きちゃうよ! と、思ったが、振り向いて私にだけわかるように、不敵な笑みを見せるアレウズを見たら、もうやるしかない、という気持ちになった。
どうせ行かなくちゃいけないんだ。心配したり、怖がったりしても仕方ない。
「出陣!」
アレウズの剣が、夜の闇を裂いて振り下ろされる。
今度は私もみんなと同じ歓声を上げて、走り出したゲラニーの手綱を強く握った。
これ……、結構、絶壁だよね……。
私は眼下に広がる闇と、その先に点々と広がる敵陣の篝火を呆然と見つめた。
敵に気づかれないように、こちらは明かりを持っていないので、辺りは漆黒の闇である。
それでも、暗さに目が慣れると、それなりに見えるようにはなるのだが、問題のアセラーンの崖は、はっきり言って奈落だった。
元々草木の育たない乾燥地帯のようなのだが、それにしても何の輪郭もない。という事は、この足元からその先に見える篝火までは、何も無いってことなんじゃないの?
「ゲラニー、これ大丈夫?」
私が耳元で不安げにささやくと、ゲラニーはちょっと鼻を鳴らして首を振った。鬣がびしり、と顔に当たる。
あ、はい、弱気はダメですね。
今は、ゲラニーの脚力を何よりも信じなくては。あと、アレウズの強運とやらを。
私は、横のアレウズをちらりを見た。
総大将である王太子は、先ほどから腕を組んで何事か考えている。
「殿下。替え馬を一頭下らせましょう」
白髭のサルドウ将軍が進言した。
「荷が無ければおそらくは無事に下りるでしょう。それを見れば、他の馬たちも怯えずに続きます」
そうか、確か平家物語でも二頭先に下ろしてたっけ。でも、そのうち一頭は足を折ったような……。どうしよう、言うべきかな。
しかし、アレウズは大きくうなずくと、ヴァクルに命じた。
「一頭下ろせ」
ヴァクルが馬を曳いてきた。首を撫でながら馬に何か話しかけているようだ。やがて崖の前に立つと、その背を叩いて叫んだ。
「行け!」
その馬は、一気に駆け出し、あっという間に闇に吸い込まれた。全員が、緊張した面持ちで、耳を澄ましている。
私の耳にはもう何も聞こえなくなった時、アレウズが言った。
「下りた」
「下りましたな」
サルドウ将軍も、大きくうなずくと言った。
「それでは、この老骨に先陣の栄を頂けますかな、殿下」
暗闇の中でも、アレウズが笑ったのが分かった。
「よし。頼むぞ爺!」
「承知」
サルドウ将軍が、自分の部下たちを振り返った。
「者ども! 我が家の紋章、黄金の矢に恥じぬ働きを見せよ! 続け!」
サルドウ将軍の鹿毛が宙を飛んだ。
それに続き、鬨の声を上げながら騎馬の兵士たちが続く。
「行くぞ、マーヤ。上体を起こせよ」
アレウズの声がした。
え? と思う間もなく、アレウズの馬を追って、ゲラニーも駆け出した。
うそおおおお!!!
馬上で体が跳ね、放り投げられるような感覚がする。私は慌てて言われたとおり、精一杯体を後ろに倒したが、もう、これはジェットコースターだ。安全ベルトなしの。
男たちの叫び声と馬の蹄の音が辺りを埋め尽くす。
がくっと、前のめったところで目を開けた。
そこはもう阿鼻叫喚地獄だった。
天幕に移った火が燃え上がり、逃げ惑う兵士たちが見える。
あれがバルスク人?
アレウズたちより、重そうな甲冑を着ている。
そのうちの一人が、私に向かって槍を構えた。
刺される!
そう思った瞬間、視界の横から煌めく一閃の光が垂直にその体を貫いた。
次の瞬間、私はもうその兵士の身体を飛び越えて走り続けていた。
「手綱を離してはいけません」
冷静な声がした。
右を見ると、サールが槍を構えていた。
また一人、すさまじい速度で走る馬の上から、サールは敵兵を薙ぎ払った。
私は思わず目を閉じた。
ゲラニーは走り続けている。
トルヴァの男たちは、一瞬も止まることなく、風のように敵を蹴散らしながら駆けに駆けた。
炎の暑さと悲鳴、焼け焦げる匂いが背後に遠ざかった。
敵陣を抜けた?
私は目を開けた。
ゲラニーは今、草原を駆けていた。視界の向こうに、藍色の地平線が見える。
「飛翔陣!」
アレウズが剣を振り上げて叫ぶ。
たちまち、その命令は各騎兵たちに呼応とともに伝わっていった。
ゲラニーがアレウズの馬に合わせて、わずかに速力を緩めた。
途端に、兵士たちは羽を広げた鳥の形のように、整然と横に並んで走り始めた。
私はなんとか首を曲げて背後を見た。
赤黒い煙の上がる陣地から、黒い波のようなものが押し寄せてくるのが見える。
「敵だ。追ってきているな」
アレウズが私の視線の先を見て、冷静に言った。
「心配するな」
ひどい揺れのせいで口も開けないが、私はうなずいて、しっかりと手綱を持った。
前方では、空の色が徐々に藍色から、南国の果実のようなオレンジ色に変わりつつある。
夜が明ける……。
やがて、一筋の光が地平線を照らしだした。
「弓! 構え!」
アレウズが叫んだ。
次に見たときには、兵士たちは皆手綱を放し、馬上で上体を反転させ、弓に矢をつがえていた。
地平から光が差し込む。
「放て!」
アレウズが叫んだ瞬間、目を射るような光が地平線上からあふれ出た。
眩しい!
矢が空気を切り裂いて飛んで行く。
アレウズの勝算はこれだったんだ。
私は光に幻惑されながらそう思った。
敵兵は今、私と同じように地平線上の太陽に目を眩まされた事だろう。そこに、トルヴァの矢が降り注ぐ。アレウズは時を逃さず、逃走しつつも、一気に攻勢をかけたのだ。
「次!」
アレウズの鋭い叫びが聞こえる。
「放て!」
弦の弾かれる音が、朝焼けの地平線に響く。
黒い波はやがて遠くなり、地平の向こうへ消えた。
助かった!
私はこの時ほど、生きていることに感謝した瞬間はない。
神様! と叫ぶ人の気持ちが分かる。
ひどい揺れでとても声は出せないので、ゲラニーへの感謝の気持ちを込めて、手綱をぎゅっとつかんだ。
涙が出そうだ。
「マーヤ!」
アレウズが叫んだ。
「勝ったぞ!」
馬を駆るアレウズの姿が、蘇る光の中で輝く。涙でにじんで、まるで神話の英雄みたいだ。