授業はまじめに受けましょう。
「ここは、ヴォスキーの林を抜けるべきです!」
「いいや、アルザート河に向かうべきだ!」
天幕の中はものすごい熱気だった。
むくつけき大男たちが、口角泡飛ばして机をバンバン叩いている。
私はヴァクルの真似をして、背筋をピンと伸ばし、壁の一部のように突っ立ったまま、ちらりと上座に座るアレウズを見た。
言い争う部下たちとは対照的に、まったく微動だにしない。
「ヴォスキーなどあんな見通しの悪い場所、罠にかかりに行くようなものです!」
「アルザート河は昨晩の雨で増水しているだろうが! 馬をおぼれさせる気か?!」
「では、林は迂回してイージェ街道の方へ――」
「それはこの前失敗しただろうが!」
ザンターク将軍が吠えた。
「何人が犠牲になったと思ってる!」
そこまで言って、はっと一同が硬直した。おそるおそる私の方へ視線が走る。
うん、ちょっと慣れてきた。私はそこで死んだことになっているのね。
一瞬静かになったところで、ヴァクルが目で合図してくる。
私は慌てて葡萄酒とおぼしき液体の入った入れ物を持って、諸将の盃に注いで回る。
「ワインなんか水よ~」とか言ってた先輩が会社にいたけど、(半年後にはアルコール依存、とかの診断書を出して出社しなくなった。)この人たちは本当に水代わりに葡萄酒を飲んでいる。
別に好きでそうしているわけではなく、そもそも水がそんなに豊富ではない土地らしい。そして、貴重な水は馬に優先的に与えている。
でも、これじゃ会議がへべれけの乱闘になるんじゃないか? と、思ったところで、おじさんたちがちょっと不気味そうに私を見ていることに気が付いた。
奇跡の恩寵に預かったと言えば聞こえはいいが、普通にゾンビだもんね。
やっぱりサールのところにいるほうが自然かもしれない。私は軍議の席から少し離れた場所に座っている銀髪の男を見た。
どうやら司祭は作戦の協議には参加資格がないようだ。
私はお酒を注ぎながら、机に広げられた羊皮紙の地図を見た。
うん、文字もちゃんと読める。
先ほどからもめているヴォスキーは北。アルザート河は西から南にかけて流れている。南東には前回突破しようとしたらしいイージェ街道が描かれている。
目指すシュルター城は、イージェ街道の北側にあるようだ。
それにしても、この東に広がる空間は何だろう。
「そこはラバナート平原だ」
「え?」
私は間抜けな声を出して顔をあげた。
雄々しいスキンヘッドのおじさんが、岩石みたいな顔に心配そうな表情を浮かべて私の方を見ている。
声に出ていたらしい。
「バルスクの大軍が駐屯している」
「あ、はい。それじゃあ、通れませんね」
私は慌ててお酒をついだ。
「いや、通れる」
低い声が響いた。全員が驚いて声のした方を見た。
先ほどまで石像のようだったアレウズが立ち上がっている。
「殿下、今なんと……」
ザンターク将軍がおそるおそる聞き返す。
アレウズは地図に覆いかぶさるように身を屈めると、ラバナート平原とガーフの丘の間にある一点をびしりと指した。
「アセラーンの崖から下りる」
その言葉を聞いて、一同がどよめいた。
「殿下、それは不可能です。あの崖には馬の通れる道などありません」
「立ち往生して矢の的になるだけですぞ」
「仮に下りることができた馬がいたとして、敵の陣中を突っ切るなど自殺行為です」
次々にあがる非難の声を、アレウズは片手を上げて制した。
「ヴォスキーの林もアルザート河もイージェ街道も危険である事に変わりはない。敵も万全に備えているだろう。しかし、アセラーンの崖を通るなどと予想する者がいると思うか。実際、諸将ですら私の正気を疑っている。ならば、そこにこそ活路はある」
凛々しい声で堂々と言い放つアレウズに、全員が気を呑まれて唖然としている。
確かに奇計とは思うけど、崖を下りるとか重力無視しすぎじゃないか、この人?
でも、この展開なんかに似ている気が……。
「殿下、お考え直しください」
ザンターク将軍が重々しく言った。
「御身を危険にさらすだけです」
おじさんたちがうんうん、と一斉に同意する。
「しかし、奇跡もまた殿下のものです」
突然涼やかな声がして、サールが立ち上がった。
私はちょっと嫌な予感がした。
「司祭殿。貴殿が軍議に口を出す権利はない」
ザンターク将軍が苦々し気に言った。この二人はいまいちウマが合わないようだ。
サールは声同様の涼しい顔で歩いてくると、将軍を無視して白い指を地図上に置いた。
「殿下の仰っていることは道理にかなっています。このアセラーンの崖はバルスク陣の直上。頭の上から敵兵が降ってきたとなれば、相当の混乱を引き起こすでしょう。加えて、ここは陣と言っても糧食の貯蔵テントです。兵の数も少ない。敵陣を針のように細く貫き、押し包まれる前に脱出することは、不可能ではありません」
「しかし、問題は崖だ!」
ザンターク将軍の横にいる老将軍が言った。確かヴァクルが、サルドウ将軍という名前の最古参の武人だと言っていた。
「あの崖を馬で下りた者など、わしは見たことがない」
「見たことがないからできない、というわけではありません」
「あんたのような若造の根拠もない奇跡に、大事な兵の命がかけられるか!」
吐き捨てるようにサルドウ将軍が言う。それは最もだ。
私は納得しつつ、持ち場に戻ろうとした。
「シャラナル!」
サールが鋭く叫んだ。
私は驚いてその場に固まった。将軍たちが一斉に私に目を向ける。
「奇跡にそもそも根拠などありません。しかし、ここに、サルドウ将軍もおそらくはかつてご覧になったことのない、奇跡を体現した者がいる」
あ、いやな予感。
「シャラナル。この崖を我々は下りることができると思うか」
やっぱり! わかるわけないでしょ、そんなこと! その崖を見たこともないけど、崖っていうくらいなんだから垂直なんでしょ!? 普通に考えて無理!
しかし、サールは「役に立ってもらいますよ」と言った時と同じ目で私を見ている。ほんと理不尽……。
助けを求めてアレウズを見ると、ものすごい信頼を宿した目とぶつかった。
いかん。
ヴァクルの方を見ると、こちらは期待を込めたまなざしをしている。
なんで!?
そして諸将の方をもう一度見ると、全員が固唾をのんで私を見ていた。
ちょっとこの人たち、だまされやすいよね?
私は必死に考えた。
崖を馬で下りる……。なんか、私、この話、知ってる気が……。
ふと、高校生の時の教科書を思い出した。それから、眠気を誘う古文の先生の声……。
『……これより平家の城郭一の谷へ、落さんと思ふはいかに……』
「鵯越……?」
私は小さくつぶやいた。
「何だ?」
「はっきり言え!」
おじさんたちのむわっとした体臭が迫ってきて、私はぎゅっと目を閉じて大声で叫んだ。
「鹿が通うのであれば、馬の通えぬわけがありません!」
おそるおそる顔を上げると、目の前には、おじさんたちのぽかんとした顔があった。
あ、駄目だった?
「鹿……? ガゼルのことか? 確かに、ガゼルが下りる場所であれば、さらに脚力のある馬も下りることができる、というのは道理かもしれんが」
先ほど私に地図を教えてくれたおじさんが、納得したようにうなずいた。ナイス、スキンヘッド。後でお酒をたくさん注いであげよう。
ほっとしたのも束の間、ザンターク将軍が言った。
「ではおまえは、ガゼルが崖を下りるのを見たのか?」
私はぐっとつまった。
それは通りがかりの狩人とかに聞いてほしいんだけど。
サールが素早くヴァクルを振り返った。
「アセラーンに出した斥候をここへ」
私はサールを見上げた。いくらなんでもそんな都合よく目撃しているわけ――。
「見ました!」
ええええ~!?
まだ少年を出たばかり、といった感じの斥候がはきはきと報告する。
「ガゼルではありませんが、バラシンガが下りていくのを見ました」
ばらしんが、って何だろう?
でもその話が本当なら、アセラーンの崖は私が考えているよりはもっと坂に近いのかもしれない。でも、崖って呼んでるし……。
アレウズがにやりと笑った。
「バラシンガならガゼルよりも大きい。身軽でなくとも下りることができる、ということだ」
なんかものすごく、殿下に都合良く話が転がりだした。
「ふむ、バラシンガ……」
先ほど反対していたサルドウ将軍もつぶやく。回りの将軍たちの空気も変わってきているように見える。
しかし、ザンターク将軍はまだ反対のようだ。
「仮に下りられたとしても、敵に追いすがられれば乱闘になります。足が止まれば全滅ですぞ」
尚も不満そうに主張する将軍に向かって、アレウズはあっさりと言った。
「では、止めなければ良いのだ」
「そのようなことは――」
「やってみなければ、分からん。違うか、ザンターク将軍?」
アレウズはきっぱりと言った。その態度には有無を言わさない自信があふれている。さすがのザンターク将軍も、それ以上を言うことは我慢したようだ。
他の将軍たちも、今や信頼に満ちた目で王太子を見ている。
アレウズは諸将に向かって宣言した。
「夜明け前にアセラーンの崖より敵陣を突く! ザンターク将軍がいうとおり、立ち止まれば全滅だ。諸将、心してかかられよ!」
将軍たちは、おう! と応える。
軍議は終わった。
「ああいうこと、二度としないでください!」
将軍たちが去った後、ヴァクルがアレウズの馬の世話に行った隙を見計らって、私はサールにかみついた。
「なんですか、いきなり?」
サールのきょとんとした顔を見て、私は怒りを爆発させた。
「確かに、皆さんの士気を上げるために、生き返った振りとかしましたけど、それはちょっと協力しただけで、本当に奇跡を起こせるわけじゃありません! 私はただの事務員で、何のとりえもない、平凡な会社員なんです! おじさんたちに対して詐欺です!」
「ジムインとカイシャインがどんな武器を使うのか知りませんが、先ほどのガゼルの話は、見事な着想だったではないですか」
サールの横でアレウズも上機嫌でうなずく。ほめて遣わされても全然嬉しくない。
「あれは、『平家物語』に書いてあった話で、私の知識じゃありません!」
「まあ、誰の知恵でも私は構いません。おかげで話の流れが変わりました」
「それが問題なんです!」
私は大声で叫んだ。
「人の命がかかってるんですよ! そんな重要な決定で私の意見を聞いたりしないでください! もし、崖を下りられなかったらどうするんですか!」
気が付いたら、なぜか涙が出ていた。
「そんな責任、私、負えません!」
もうやだ。重要なことなのに、駄々っ子みたいになってしまった。
私はヴァクルのように袖で涙をぬぐった。ハンカチもティッシュもないし、ポケットもない。すごく不便だ。
腕をどけると、目の前にアレウズの顔があった。
それこそ子供にするように、上体をかがめている。
「な、なんですか」
馬鹿にされまいとして精一杯にらみつけると、なんと、頭をぽんぽんされた。
「安心しろ。責任は俺が負うものだ」
私はばしっと、その手を払った。
「死んで責任をとるんじゃ意味ありません!」
サールがそれを見て、あきれたように言った。
「確かに、場の空気の流れを変えるのにあなたを使いましたが、我々が賭けているのはあなたの奇跡ではなく、殿下の作戦です」
え、そうなの?
私はサールを見た。確かに、作戦のすべてはアレウズが提案したものだけど……。
サールは、エルフみたいな人間離れした微笑みを見せて言った。
「敵軍の布陣、兵士の士気、そして地理。どれをとっても、殿下の作戦こそ、もっとも成功率が高いのです。それに、殿下は強運の持ち主ですからね。ともに戦ってきた兵士たちも殿下の賭けになら乗るでしょう」
「おい、褒めすぎだ」
アレウズが言う。でも、顔にはまんざらでもなさそうな笑みを浮かべている。
「それに、ああいう頭の固い老人たちこそ、論理的なようでいて、奇跡とかそういうあやふやな希望に弱いんです。あなたは勝利のために置かれた、対オジサンたちの駒にすぎません。役に立って嬉しいでしょう?」
サールが、ものすごくいい笑顔でにっこり微笑んだ。
黒エルフ! 黒エルフだよ、この人!
でもただの駒と言っても、この作戦の要となる部分に影響を与えたのは事実だ。犠牲は必ず出るだろう。それを思うと、私のせいじゃない、と思い込むことはできない。
「ようは、勝てばいい。そうだろう?」
またうつむいた私の頭の上で、アレウズのすっきりとした声が言った。
「俺は必ず勝つ。確信がある」
そう言うと、アレウズは突然私の顎をつかんで上を向かせた。勢いで、たまっていた涙がまたこぼれる。
アレウズはたっぷりとした袖で、私の顔をごしごし拭いた。
「い、痛い」
文句を言いながら目を開けると、明瞭になった視界に、アレウズの自信に満ちた顔があった。
「俺に任せておけ」
何だろう、これ。
たったそれだけの言葉に、驚くほど私は感動していた。
任せても大丈夫。
そう思えるほどの安心感と少し高揚感もある。
存在が大きいんだ。
やっぱり、この人の傍にいよう。シャラナルの願いとか、必要とされてちょっと嬉しかったとか、いろんな気持ちもあるけれど、何より、この人に仕えることは、なんというか、そう、名誉だ。
私はその琥珀色の目を見てうなずいた。
彼は、力強くうなずき返すと、戸口の方を振り向いた。
「よし。お前の馬を見に行くぞ!」