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幕間 サールとアルキルと辛いお茶


 手を伸ばした先で、銀製の茶碗が倒れた。

 しまったと思ったが、幸い中身はすでに空だった。

 無いと分かると飲みたくなる。サールは椅子から立ち上がった。床に積み上げられていた本や羊皮紙が雪崩をうって崩れ落ちる。

 そんなことはお構いなしに、部屋の石壁をくりぬいて作られた棚から、陶器の茶入れを出して蓋を取った。空である。


「チッ」


 およそ聖職者とは思えない、鋭い舌打ちが漏れる。

 茶入れを元に戻したところで、突然、目の前に蝋引きの包みが現れた。


「こちらをお探しですか? お客さん」


 そう言って楽し気にぱちんと片目をつむって見せたのは、スカヴィアの海賊、漂浪の吟遊詩人、そしてサールの密偵であるアルキルだった。


「一体どこから入ったんです?」

「いや、そろそろ切らしてる頃かと思ってさ」

「白々しい。注文してから、もう半年ですよ。10ギナ以上は払いませんからね」

「な! そりゃ、ねえだろ。30ギナで買う約束だぞ!」

「3カ月も待たせといて何言ってるんですか」

「仕方ねえだろ。ランゴルの連中がイルティスアの沿岸を荒らすから、船が遅れてんだよ」

「ランゴル船団が?」


 サールは眉をひそめた。


「どうも、連中は最近、動きが派手ですね。スノール船団は押され気味なんじゃないですか?」

「大丈夫、大丈夫。このスカヴィアの黒豹様が戻れば、あんな連中、あっという間にけちらして――」

「お茶、淹れますね」

「聞けよ、こら!」


 怒るアルキルから包みを取り上げると、サールはさっさと茶葉を容器に移した。

 それを見て、アルキルはため息をつく。


「まあ、まけて25ギナにしてやるよ。お得意様価格ってやつだ」

「仕方ないですね。じゃあ、殿下に免じて、20ギナ払いますよ」

「アレウズ関係ないだろ!つか、値段下がってるし!」


 抗議するアルキルの前に、サールが淹れたてのお茶をドンと置く。


「先ほどの質問に答えていませんよ。どこから入ってきたんです?」


 この部屋に隠し通路など無いのは確認済みだし、窓は内側からしか開かない。アルキルは平気な顔で、入り口の扉を指した。


「あそこ」


 窓に細工でもして入ったのだろうと思っていたサールは少し驚いた。


「この建物には?」

「もちろん、正面扉から入った」

「守護騎士は?」

「もちろん、通してくれた」

「嘘ですね」

「はあ? 何でそうなるんだ?」

「だって、あなたのように、あからさまに怪しい人間を、聖堂守護騎士がみすみす見逃すわけがないでしょう」

「あいっかわらず失礼千万な奴だな、おまえは」


 アルキルはそういうなり、懐からバッと一枚の紙を取り出した。


「ここにあるとおり、俺はもう立派な宮廷詩人だからな」


 サールはうろんげに、その紙に目を通した。


「これは宮廷詩人の許可書じゃなくて、テオドラ姫の推薦状じゃないですか」

「十分だろ?」

「ここにあなたがいる十分な理由にはなりませんね。しかも、これ、裏に落書きしてあるじゃないですか」

「落書きじゃねえし!!」


 アルキルはサールの手から推薦状を奪い返すと、裏面の皺をぐいっと伸ばした。


「よく見ろ!」

「これは……、銀行手形、ですか?」

「ご名答!」


 アルキルはにやりと笑う。


「柘榴石の塔の台所にいるアイダちゃんに描いてもらったんだ」

「誰です、それ?」

「だから、台所で働いてる()だって。絵がうまくってさ、文字は読めなくても、一回見たものは描けるっていうから、ここに描いてもらった」

「なんでまた手形なんかを」

「まあまあ、よく見ろよ」


 いい加減なようでも、アルキルが意味のない物を持ってきたことはない。サールは灯火の近くにその紙を持っていくと、じっと見入った。

 やがて、顔を上げたサールに全く感情が現れていないのを見て、アルキルはちょっと後悔した。


(こいつ、常に不機嫌そうにしてるけど、マジでキレると無表情になるんだよな)


 そしてキレたサールは元凶の滅殺にしか考えが及ばなくなるので、今日はもう、茶葉の代金は受け取れないだろう。


「これ、柘榴石の塔の書記官が書いた、ビサンテへの送金手形ですね?」


 至って普通の調子で話しているようだが、アルキルには分かる。声が氷のようだ。


「そうだ」

「このイルノク数字への変換は、わざとでしょうね?」

「ええ。そうでしょうね」


 茶化してみたが、黙殺された。


「なるほど。姑息な手ですね。イルノク数字では桁数をゼロの数ではなく、規則性の分かりにくい記号で表しますが、ビサンテではまだ、そんな不便極まりない数字記号を使用しているわけですか。そうですか」

「まあ、一応、神聖文字の類だからな」

「それは、もう、読み違いも多発していることでしょう」

「そりゃあ、もう、こっちが100スィクルで送ったつもりが、手形作成時の数字変換とその読み間違いにより、ビサンテの銀行で換金する時には1000スィクルとかになっているわけさ」


 サールの無表情は今や仮面のようになり、瞳に奈落のような闇が広がっていく。


「なるほど。それではまず、書記官を吊るして、その首をビサンテに送って、銀行は踏みつぶして――」

「待て待て待て」


 呪いのように言葉を吐き出すサールを、アルキルが慌てて止める。


「これは、ビサンテ王家の指示じゃない」

「は?」

「ビサンテ王家は、ほとんど金を受け取ってない。枢密院の書記官に確認してみろ。黙殺されたビサンテ王家からの督促状が2、3通は見つかるはずだ」

「では、これは?」

「つまり、こういうことだ。黒幕はもちろんバトハーン卿。ビサンテの書記官を味方に引き入れて、国庫からビサンテへの送金を、イノルク数字を使った手形で行う。受け取り側の書記官は意図的に読み違えをした額で、銀行から、さらに他の場所へと送金を行う」

「……バルスクですか?」

「ご名答。大砲の資金はあたかもビサンテ王家から提供されたかのように見えるが、実は、サラヴァルトの国庫から流れていたわけさ!」


 サールは無表情のまま、もう一度、銀行手形をちらりと見た。


「なるほど、さすがはバトハーン卿。やり口の汚さには私も脱帽ですよ。しかし、ビサンテもビサンテだ。書記官の管理もできないのか、能無しどもめ……」


 どんどんダークオーラに飲まれていくサールを、アルキルが慌てて引き戻す。


「まあまあ、ビサンテが騒がなかったのは、あの可愛い姫さんの涙ぐましい努力のおかげなんだぜ」

「テオドラ姫のことですか?」

「ああ。サラヴァルトから実家に約束の金額が送られてないことを知って、自分の金で埋め合わせてたんだ。おかげで、柘榴石の塔の台所は火の車。侍女さんたちはシャミラの花の蜜を集めてお菓子を手作りする始末だ」

「まさか……」


 サールは少なからず驚いた。

 先日、アレウズとマーヤと共に柘榴石の塔に行った時、テオドラ姫も侍女頭の娘も、そんな素振りは微塵も見せなかった。


「本当さ。大したもんだよ、ビサンテのお嬢さん方は。まあ、残念ながら、それくらいじゃ、この莫大な額を何とかできるわけはないんだが」


 確かに、テオドラ姫が自由にできる金額など、どんなに多く見積もっても300スィクルが限界だろう。


「つまり、約束が守られていないと思っているビサンテ王家の堪忍袋の緒が、そろそろ切れるということですね」

「ああ。そうなったら、この聖庁も黙ってないだろうな」

「少なくとも、聖堂守護騎士団にはビサンテへの帰還命令が出るでしょうね」

「でも、聖庁のお偉いさんたちは、“野蛮な”騎司たちに聖堂を守る名誉を与えたくはない。この王都で、ビサンテ、トルヴァ以外の兵力といえば?」

「くそ……」


 上品な顔に似合わない悪態が、サールの口から漏れる。


「バトハーン卿の傭兵ですね」

「ああ。キリタリア、特にティスキアの傭兵は強くはないが、洗練されている上に、サラヴァラーブ教への信仰心も持ち合わせている。新守護騎士団にはぴったりだぜ」


(迂闊だった……)


 サールは唇を噛んだ。自分の足元にまで手を伸ばされていた事態に気が付かなかった事に腹が立つ。


(泳がせ過ぎたな。だが、証拠は手に入れた)


 サールは、手形の写しに目をやってから、アルキルを見た。


「茶葉には25ギナ。この情報には、その1000倍払いますよ、アルキル」

「いや、茶葉の金だけでいい」


 アルキルが、お茶をすすりながら、さらりと言う。


「は??! 今、何て――」

「おい、さっきより驚いてないか?」

「あなたの頭が丈夫でないことは知っていますが、一体、どうしてしまったんです? お金を払うと言っているのですよ??」

「てめーの中の俺は一体何なんだ?」


 アルキルは気分を害したようにそう言うと、サールの手から銀行手形の写し、もといテオドラ姫の推薦状を取り上げた。


「俺の仕事は、あくまでも大砲のルートを追うことだ。これは、仕事じゃなくて、スカヴィアの男の義侠心ってやつだ」

「義侠心?」

「そ。孤独な姫君を救う、流浪の戦士。最高にかっこいいだろ?!」

「やっぱり頭がーー」


 サールが心底、気の毒そうな表情をして見せる。


「なんでそうなるんだ! てめーの詩情が死滅してる頭のほうが、よっぽど問題だろうが!!」


 アルキルはそう言うなり、すっかり冷めてしまったお茶を飲みほすと、カップをドンと机に置いた。


「そんなんだから、アレウズと嬢ちゃんの仲がこじれるんだよ! ごちそうさん!!」

「待ちなさい!」


 出て行こうとするアルキルを、サールの鋭い声が止めた。


「今、殿下とシャラナルが何だと言いました?」


 アルキルは足を止めると、不機嫌に振り返る。


「おまえが、シャラナルをテオドラ姫のところに行かせたんだろ?」

「ええ、仕事ですから。そんな事より、私の質問に答えてください」

()()()()じゃないだろうが。本当におまえって腹黒だよな」


 あきれたようなアルキルの言葉にも頓着せず、サールは組んだ腕の上でイライラと指を動かす。


「バトハーン卿には負けますよ、悔しいことにね。いいから、質問に答えてください」

「あんな健気なお姫様がアレウズの婚約者だと知ったら、あの真面目な嬢ちゃんのことだ、自分の気持ちなんか簡単に殺しちまうよ」


 サールの動きが、ぴたりと止まった。


「それに、相手は女とスイカの区別もつかない、あのアレウズなんだぜ」

「いえ、さすがに、それくらいの区別は……」

「ああ。この世には男と女と馬がいるくらいのことは、いくらアレウズでも分かってるだろうさ。でも、あんなに自分を動揺させるものが何かってことには気付いてない」


 そこまで聞くと、サールは少しの間黙っていたが、さっと身を翻してアルキルに背を向けた。


「それでいいのですよ。殿下は次期国王として、シャラナルは聖騎士として、果たすべき役割があります。あなたの言う詩情とやらは、その妨げにしかならない」

「おまえさあ……」


 アルキルが突然サールの肩を掴んで、無理矢理自分のほうを向かせた。


「俺のこと、しょっちゅうバカにするけど、おまえのほうがバカだからな」


 ふいをつかれたサールの青い目が一瞬、驚いたように見開かれたが、すぐにその表情はいつもの澄ました顔に戻った。


「言ってくれますね。どうしたら、そういう事になるんです?」

「だって、あの2人がくっついた方が、全部うまく行くに決まってんだろ!」

「は? 何を言っているんですか。殿下はテオドラ姫と婚約していますし、シャラナルは聖騎士なんですよ?」

「いいじゃん、別に」

「よくない!!」


 思わず叫んでから、取り繕うように小さく咳をする。


「アルキル、あなたは吟遊詩人ですから、詩情とやらがこの世で一番大切だとでも思っているのでしょうが、そんなもので国は守れません」

「いつから、国の話になったんだよ? 俺はアレウズとお嬢ちゃんの話をしてるんだ」

「だから、その2人がこの国を背負う重要な役目を担う……」


 最後まで言わずに、サールはおもむろにため息をつくと、肩をつかんでいるアルキルの手を軽く払いのけた。


「これ以上、あなたとこの事を議論しても時間の無駄です」

「俺としては、まさにその役目とやらは、あの2人がくっつくことで上手くいくと思うんだがな」


 アルキルは気楽そうに言うと、乱雑な机の上から目ざとく銀貨を見つけて懐に収めた。


「まあ嬢ちゃんはともかく、アレウズはこの方面では完全にポンコツだからな。やけにならないように、見張っとけよ」

「? やけ、とは?」


 不思議そうに言うサールの言葉に、アルキルはぎょっとして振り返った。


「おまえ、気が付いてないのかよ?」

「何にですか?」


(しまった。こいつも、こっち方面ではポンコツだった)


 アルキルは一瞬頭を抱えたが、やがて低い声で言った。


「アレウズもトルヴァの男だからな」

「殿下こそ、本物のトルヴァ戦士ですよ」

「いや、戦の腕の話じゃねえよ」

「じゃあ何なんですか? さっさと言ってください」


 イライラとした口調に押されて、アルキルはため息をついた。


「トルヴァの連中はバルスクの奴らと違って、見境なく女を襲ったりしないが、惚れた女に対しては話は別だ」

「それは、トルヴァの男に限ったことではないでしょう」

「いや、あいつらは一度女に惚れたが最後、獲物を追う獣も同然になる」

「はあ……」

「電光石火の短期決戦。ビサンテの奴らみたいに優雅にお手紙なんて真似は間違ってもしない」

「…………」

「お預けなんか食らわせた日には、飢えた狼と化す。やけになるってのは、そういうことさ」


 話を聞いているサールの顔色が明らかに悪くなっているのを見て、アルキルは慌ててフォローした。


「いや、アレウズなら、いきなりお嬢ちゃんに襲いかかるような事はないと思うが……って、なんで黙ってんだよ」


 ほとんど蒼白になったサールが、重い口を開いた。


「今朝、殿下には、鷹狩の間、シャラナルのことは忘れるようにと言いました」

「あー……」


 アルキルが視線を泳がせる。


「ある意味、効き目は抜群……かな」

「シャラナルの部屋を見てきます!」


 サールが早足で廊下に向かおうとしたその時、扉が乱暴に開かれた。


「アレ……殿下……」


 そこにいたのは、頭から水をかぶってずぶ濡れになったアレウズだった。





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