奥方様が女神です。
『真矢』
誰かが、私を呼んでいる。
風が通り過ぎ、緑の葉がざわめく。
『真矢』
もう一度、その声に呼ばれて、私は顔を上げた。
『母さん?』
背の高い女の人が、泉のほとりに立っている。
風が吹き、ほどけた長い髪がなびいた。
金色の、髪……。
私は、はっとした。
あれは母ではない、祖母だ。
「おばあちゃん!」
私は叫んだ。
祖母は、いつかの幻で見たように若く、美しかった。
白い手が、ゆっくりと伸び、私の手をつかんだ。
何かが掌に置かれる。
もう一度見上げた時、その姿は光の中に溶けるように、消えてしまった。
「シャラナル兄ちゃん?」
目を開けると、目の前に大きな緑色の瞳があった。
「イエルク?!」
驚いて飛び起きる。
あたりを見回すと、そこは塔の一室だった。謹慎処分を受けて、もう3日になる。
「兄ちゃん、大丈夫? ご飯、持ってきたよ」
イエルクはそう言うと、粗末な木の机に慎重にスープ皿を置いた。
「ありがとう。イエルク~」
後ろから抱き着いて、ふわふわの髪をなでる。
「や、やめてよ。子供じゃないんだから」
イエルクはされるがままになりながらも、不満そうに言った。
めっちゃ、可愛い。
「うんうん、ごめんね」
私は全然反省していない笑顔で、もう一度イエルクの頭をなでた。
「みんなは元気?」
「うん。でもヴァクルの機嫌が悪い」
そっか、出立の準備でただでさえ忙しいところに、私が従士チームから抜けちゃってるんだもんね。
しかも謹慎処分、と言っても、何もすることはないし、アレウズからイエルクを通して、従士にはちょっと贅沢な柔らかい枕ももらったし(多分、アレウズの寝室にあったやつだ)、丁度いいごろ寝休暇になってしまっている。
他の子たちに悪いくらいだ。
謹慎解けたら、その分頑張ろう。
「兄ちゃん、それ、何持ってるの?」
ふと、イエルクが私の右手を見て言った。
「え?」
見ると、意識していなかったが、右手がしっかりと握られている。
そういえば、さっき、夢の中で何かを渡されたような……。
金髪の綺麗な女の人。私はその人を、祖母だと思った。でも、おばあちゃんが金髪なわけがない。
私は恐る恐る手を開いた。
白い石に彫られた、半分欠けた女神像。
大砲を奪うためにシュルター城を出た時、アレウズに渡された物だ。
返そうと思っていたのに、アレウズの怪我やら、講和の話やらに気を取られて、まだ返せないでいたのだ。
「それ、殿下のだ」
イエルクが、私の横にしゃがんでのぞき込む。
「うん。ヴォスタイン将軍の隊に参加したときに、殿下に渡されたんだ。お守りだ、って」
「良かった!」
イエルクがにっこり笑った。
私は首を傾げる。
「どうして?」
「それ、殿下が大切にされていた物だから。最近着けてないのは、失くされたからかと思って、ちょっと心配だったんだ。でも、兄ちゃんが持ってたなら、良かった」
うんうん、いい子だね。
私は、イエルクの頭をぽんぽん叩く。
しかし、そんなに大切なお守りなら、早く返さないと……。
私はその白い石を眺めた。半分欠けてはいるが、石本来の形を利用して彫られた、素朴で優しい女神の表情が見て取れる。
「これが戦女神ネインなの?」
何気なく聞くと、元から大きいイエルクの瞳が、さらに大きくなった。
「兄ちゃん……。それ、異教徒の女神様だよ」
「え? そうなの?」
意外な言葉に驚いて、もう一度手の上の石像を凝視する。
確かに、祈るような穏やかな表情は、戦とは無縁そうだし、むしろ女神というより普通の女性に見える。
「殿下も、何の神様か知らない、って言ってた。でも、誰にも言っちゃダメだ、って言われたよ。だから、兄ちゃんも、人に見られないようにした方がいいよ。特に、サール様以外の、聖庁の人には気を付けてね」
聖庁は、王都の宗教を司る機関だ。サールは司祭なので、そこに所属している。
「うん。分かった」
名目上仏教徒の人でも、おしゃれで十字架着けたりする国からきているので、イマイチぴんと来ないが、異教の神を信奉している、と思われるのがまずい事だ、くらいは分かる。
しかし、いつの間にこれを取り出していたんだろう?
「じゃあ、戻るね」
イエルクが立ち上がった。
「うん。ありがと」
イエルクは部屋から出かけて、思い出したように振り返った。
「そうだ! 殿下が、『後で窓から中庭見てみろ』って言ってたよ」
「え? うん。分かった」
イエルクは、じゃあね、と手を振って部屋を出て行った。
なんだろう? と思いつつ、イエルクの持ってきてくれたスープをすする。
本来なら罰を受けているので、固いパン一個とかが妥当なんだろうけど、多分アレウズの配慮で野菜や肉まで入っている。
ほとんど食べ終えたところで、城門の方から、人々のざわめきが風に乗って聞こえてきた。
なんだろう?
イエルクに言われたとおり、窓から中庭を見る。
あれは……。
私は目を見張った。
高い塔の上からでも、たくさんの女性たちが、粗末な荷馬車から降りて来るのが見える。
もしかして……。
「ミレトスの女たちです」
突然、背後で凛とした声がした。
驚いて振り返ると、いつの間にかフイース様が一人でそこに立っていた。光に透けるような、優雅な薄紫のヴェールをかけている。
「奥方様」
私が跪こうとすると、奥方は手をのばしてそれを止め、私と一緒に窓から中庭を見下ろした。
ミレトスの兵士たちが建物から駆け出してくると、馬車から降ろされた女性たちと抱き合って喜ぶ。
私たちはそれを、塔の上から見つめた。
帰してもらえたんだ……。
それでも、村が焼かれた時に殺された者、つかまってから死んでしまった者、他にも様々な悲劇により、全員が戻ってくることはできなかっただろう。
そして、帰ってきた人たちも、さらわれたことによってできた傷は、一生消えることのない暗い影になるだろう。
それでも、再会した人たちの中に、確かに希望と喜びをを見ることができるのも事実だ。
そう信じることで、私は心がすこし軽くなるように感じた。ただの自己満足だとしても、何もできなかった、と思うよりは幾分かましだ。
人間は生きていくものだ。
サールの言葉は正しい。でも、絶望の中でただ息をすることと、わずかでも希望のかけらを手に入れて生きていくことは全然違う。
「誰が何と言おうと、あなたのした事は立派です」
奥方の青い瞳が私を見た。
「奥方様……」
私は胸が熱くなった。その言葉だけで、本当に報いられた気がした。
「ありがとうございます」
私はにじんだ涙を拭った。
「でも、そのせいでこのシュルター城への補償は――」
「問題ありません」
奥方は、きっぱりと言った。
「わたくしの実家はお金持ちです」
おお、カッコいい!
なんか、後光が差して見える。
その輝きの中で、奥方はにっこりと微笑む。
「もちろん、このシュルター城を守ってくださった騎司の皆様にも、御礼をさせていただきます。そして、あなたにも」
「私?」
驚く私の手に、フイース様の柔らかい手が触れた。そのまま、何かを渡される。
「これを差し上げます」
私は渡されたものを見た。白い絹布で何かを包んである。そっと開くと、中から葡萄の細工が繊細に施された、銀の櫛が出てきた。
私はあまりの美しさに見とれてしまったが、すぐに我に返った。これは、どう見ても女性が使う物だ。
「奥方――」
フイース様は私の言葉をそっと手で制し、その指で私の髪に触れた。
「殿方は本当に愚かですね。あなたは、こんなに美しいのに」
その言葉に、私ははっとした。フイース様はやっぱり私が女だと気が付いていたんだ。でも、何も言わないでいてくれた。女だから、と侮ることも止めることもなく、黙って協力してくれた。
胸がいっぱいになって、銀の櫛をぎゅっと抱きしめた。
フイース様は微笑むと言った。
「今のあなたには、そう、魔法がかけられています」
「魔法?」
何かの比喩だろうか?
フイース様は静かに続けた。
「私たち、微睡の種族にはそれが分かります。でも、本来の姿に戻りたいときは、その櫛をお使いなさい。いいですね?」
言葉の意味は、はっきりとは分からなかったけれど、私はうなずいた。
アレウズの従士として、男として生きると決めたけど、この櫛を見る時だけは、女の子らしい気持ちを取り戻せる気がした。
「ありがとうございます。フイース様」
「それは、私が言わなけれないけないことですよ」
フイース様の青い瞳が揺らめき、その唇が、何かを言った。
『レイラ』と、私の耳には、そう聞こえた。
その翌日、私たちはシュルター城を発った。
ヴァクルには、殿下の前での不敬な行動について、改めてガミガミ怒られたけど、意外にも将軍たちの間の私の評価が高まっていることも、教えられた。
「トルヴァの戦士は義を重んじる。おまえが、金よりも領民を救うように主張したことで、骨のある奴、と思われたんだな」
はあ、ホネ、ですか。
なんだかよく分からないけど、取り合えず反感は買わなかったみたいで、本当に良かった。
「ノールト伯とそのご家来衆にしてみれば、割に合わない取引だろうけどな。まあ、奥方が上手になだめたみたいだし、運が良かったな」
「そうだね」
私はフイース様を思い出して、シュルター城を振り返った。
どこかの塔の上から、私たちを見送ってくれているはずだ。
私は、感謝の気持ちを込めて、銀の櫛に触れた。
アレウズ率いる王都の戦士たちは、ミレトスの住民の歓声に見送られて、シュルター城を後にした。




