第2話 -帝国は一日にして成らない- (05)
地下スラム街区、アンダーゲイト。首都が整備される前から存在する大地下墓地を前身としているこの街区は、首都の中でも最も人口密度が高い地域でもあった。ここ数年続く戦争の難民が流入する事により、更に人口密度は増し、減ることは無い。
かつては静寂に満ちていた死者の都は、今は生者の行き交う眠らない街となり、行き交う人々が決して絶えない街となった。
大地下墓地の盗掘者の寄り合いをルーツとするこのアンダーゲイトには、地上とは異なる統治組織が今もなお形を変えて存在している。
奪い合いや殺し合いが平然と行われるこの街区が共同体として最後の一線を保っているのは、その統治組織が重要な役割を果たしていた。
だが、王宮を始めとした地上の統治機関は決してその存在を認めはしない。皇帝こそが最高権力者であり、それ以外の権力を決して認めはしない彼らにとっては当たり前の事ではあるのだが、理由はそれ以外にもあった。
それは、彼らが信ずる神が地上のソレとは異なっていた事である。教会がかつて棄却した筈の土着信仰、それを彼らは未だ保っていた。
その象徴とも言えるのが、アンダーゲイトの入り口に存在する石造の巨大な門であり、その装飾であり、門の中央から突き出た胸像である。
「あれがクトゥス神の胸像、ですか。話には聞いていましたけれど、まさかこの目で見ることになろうとは……」
オーシェは驚嘆した様子で、クトゥス神、山羊のように長く丸みを帯びた角を持ち、女性でありながらも力強く刻みだされた肉体を持つ異教の神を見つめる。
「この門は、地下へと続く階段の入り口であり、この先に二百段に及ぶ階段が続いています。一説ではその階段も含めて冥界への門を表現しているとか。善様、見てください。胸像以外の彫刻の緻密な事! 既に絶滅したと呼ばれているライヴァールの姿も描かれています!」
オーシェはこれまで見たことが無い程に目を輝かせ、熱く語る。どうやらこういった美術品が好きなようだ。善は好きに語らせ、そして黙って頷いていた。芸術にあまり関心の無い彼だったが、確かに言われてみると門に刻み込まれた独特の造形は凄まじい臨場感がある。
門の左側が現世、右側があの世を表しているのか、左側には泣き崩れる人々、右側には獣の様な身体をした化け物(その中の一体がオーシェの言っていたライヴァールであろう)とそれに責め立てられる人々が描かれ、クトゥス神は門の中央上で無表情とも、悲しみに満ちた表情とも取れる顔色で門に向かい合う人間、つまりは今の善達を見下ろしている。
しばらく善が門に見とれていると、オーシェが彼の袖を引く。
「善様、セリアさん、私がこのような反応を示した事は秘密ですよ。教会の方から怒られてしまいます」そう言ってオーシェは恥ずかしそうに笑う。
「芸術鑑賞も良いけど、さっさと行くよ、あんま目立ちたくないし」
セリアの言葉もあり、善とオーシェは渋々階段を下っていく。
広大で、底が見えないほどに長い階段だった。両脇にはランプが灯されているが、闇に対して光量が全く足りていない為、底を見通す事はできない。
しかし、喧騒は聞こえてくる。そして彼らはついに階下へと降りきった。
そこに広がっていたのは、彼らがこれまでに見たことのない世界だった。
広大なドーム状の天井が広がり、そこには奇妙な紋様が刻まれ、その紋様から発せられた球体が太陽のように光をドームの中に投げかけている。だが、本物と比べるとやはり弱々しく、アンダーゲイトは常に夕暮れ時のように薄暗い。
また、ドームはすり鉢状に窪み、その中央へ向けて人口の川すら流れていた。
善達の居るアンダーゲイトの入り口はすり鉢の縁部分に当たるが、そこからちょうどすり鉢の中央が見渡せる。そこにはどんな原理かは分からないが地上の光が差し込まない地下世界に、人口の湖と緑の生い茂った小島が存在しているのだ。彼らが驚嘆するのも当たり前であろう。
この元大地下墓地自体が一つの芸術品であり、これに比べれば入り口であった門も児戯に等しい。この大地下墓地を建造した過去の文明の壮大さが伺える。
「すごい……」
オーシェは息をするのも忘れるように、辺りを見渡す。
「善様、私は信じられない物を見ています。ずっとこの上で暮らしていたのに、これだけの物を見たことが無かったなんて」
「凄いな、驚きだ」
「古代ウルス文明、それがこの大地下墓地を作り出した文明と言われています。かの文明はかつて大陸全土を――」
オーシェがまた講釈を行う気配を察した善は、先を急ぐように促した。実際のところ彼は彼女の心行くまま喋らせて上げたかったのだが、同行しているセリアが心底嫌そうな顔をしていた為、そうせざるを得ない。
「セリア、取り敢えず今はそこら辺にして先を急ごう。また来た時にたっぷりと聞かせてくれ」
「もう! ここからが面白い部分だというのに! ですが約束ですよ。また来ましょう。ここで無くても、善様と一緒に行きたい場所は沢山あります」
「お熱い所失礼」
セリアが二人の間に割って入る。口調はとぼけた物ではあるが、その顔は既に真剣そのもの、完全に仕事を行う際のそれとなっている。
「あまりここで留まっていると警戒される。アンダーゲイトにはどこにも"眼"が存在しているって話だから、目立つ行動は取りたくない」
「そうだな、それには同感なんだが、"眼"ってなんだ?」
「"眼"ってのはアンダーゲイト中に張り巡らされている監視網の事。アンダーゲイトに立ち入ったからには、彼らの存在を意識しなければ、いつ寝首を掻かれてもおかしくないって話さ」
見れば、既に善達の近くに数人の住人と思わしき人々の影が見える。善達は足早に移動を始めた。
「善、ここまで降りて来たのはいいけど、具体的な計画ってのはあるのかい?」
「あると言えばあるが、具体的と言われれば困るな」
「それなのに降りてきたのか……」
少し呆れ顔になるセリアの為に、善は説明を始めた。
「『会うに値するかどうかは"彼女"が確かめる』という言葉が正しいのであれば、直接的にか、間接的にか、コンタクトを取る手段があると思う。そして言われている言葉の通りなら、あのメッセージはアンダーゲイト外部の人間に向けて――恐らくは、彼女の施しというか、盗みの成果を受け取る側の人に向けてのメッセージだと思った。だから、半分行けばなんとかなると思ったんだ」
「なるほど、意外としっかり考えてるんだね。で、どうするの」
「取り敢えずそこら辺の人に聞いてみる」セリアはずっこけそうになった。結局のところは行き当たりばったりだ。
一行は誰かに聞いてみようと街の中を進んでいく。しかし、少し歩き出すとこの都市の荒れ具合が明らかとなった。
「畜生! この野郎!」
「うるせえ!」
通りで男が二人殴り合いの喧嘩を行っている。人々はそれを避けながら通り過ぎていく。誰も気に留める様子は無い。この街では日常茶飯事なのであろう。
元が墓という事もあり、所々には石造の巨大な墓碑と思わしき物が立っていたり、棺のような物が引き上げられたまま乱雑に放置されている。しかしそれよりも驚きなのは、墓や納骨堂の上にバラックや露天を普通に作り上げている所だ。木造二階建ての建築すら多く見られる。信心深いわけでは無かった善もこの光景には苦笑するしか無かった。
「善様、あれは一体何でしょう」
「どれどれ」
善がオーシェの指差した物を見ると、三足歩行の奇妙な生き物が焼かれた物が売られている。
「変な匂いがここまで漂ってくる。まともな物じゃ無さそうだな」絶対に食べたくない。そう思う善であったが、オーシェが指差しているのは別の物だった。
「違いますよ、その隣の店で売っている物です」
「……ミイラ?」
半透明の棺の中で眠る布切れに包まれた姿は、どう見てもミイラであった。ここでは今もなお盗掘が行われており、それが売り物として流通しているという事だろう。
セリアは仲が良さそうに連れ歩いている二人を護衛するため、その数歩ほど後ろから彼らの周囲を警戒しながら歩いていたのだが、後ろから歩いてきた一人の少年とぶつかった。
「あら、ごめんなさい」
子供は返事を返す事も無く歩き去ろうとする。それを善が呼び止めた。
「おい、少年」
善に呼び止められた子供はビクリと反応する。
「盗んだものを返せ」
「善様、突然何を」オーシェがそう言いかけた時だった。
「あ……?」セリアは何かに気が付いたようだ。
「こいつ、アタシの財布を!」
セリアが顔を挙げると、少年は背を翻して逃げる寸前だった。
「追うぞ!」善は真っ先に追いかけていく。
少年はすり鉢の中心側へ、つまり小島の方へと走っていく。
「あのやろ、どこまで逃げるつもりだ」
「あそこの小島、橋を渡ったぞ」
セリアの言葉通り、少年は小島と墓の道路を隔てる長い石造の橋を駆けていく。一行もその後ろを追いかける。
「地下にこんな場所があるとはね」道が砂利道に切り替わる辺りでセリアが呟くように言った。
小島の中では本物の草木が生い茂り、道は遊歩道として整備されているのだろう。砂利道の両脇には花々が可憐に咲き誇っている。道は一つの建物に向かって続いている。
道の終わりにあったのは教会であった。
そして、その入口の前に、一人のシスターと先ほどセリアの財布を盗み取った少年が立ち並び、彼らの事を待ち受けていた。