09話 おやすみなさいませ、奥様
「フフフ、夜の遊園地も面白いわね。ミラーハウスも楽しかったわ」
「そうですか。次はきっと、もっと楽しいと思いますよ」
腕に胸を押しつけるようにしがみついている奥様に、男はにこやかに笑ってみせた。
「あなたもいけない人ね。みんなの前で、手に紙を握らせるなんて」
いけない人と言いながら、茶髪肉食系奥様の目は、嬉しそうに輝いている。
「あなたにもう一度お会いしたかったんですよ。こうして紙に書いた時間と場所に、来ていただけて嬉しいですよ」
「フフ、わたしも会いたかったし……」
さらに腕に胸を押しつけられて、男はほんの少し口を持ち上げた。目の前に何かの輪郭が見えてくる。薄闇の中、男は奥様を腕にはり付けて歩いてきた。
「あ、あれがあなたにお話しいただいた、噂のメリーゴーラウンドですね」
男は奥様がしがみついている腕とは逆の腕を持ち上げて、薄闇の中を指差した。
突然、闇に浮き上がるメリーゴーラウンド──キラキラと光を振り撒き、上下の動きに、馬達が走るように回転していく。同時に楽しそうな音楽も鳴り響く。
「ヒッ!」
奥様がひきつった声を上げ、しがみついた腕にギュッと力を入れる。
「あ、電源が入るようにしておいたんです。廃園なのに電気が通ってるようですね。ミラーハウスだって明るかったでしょ。やはり何かに使われているようですねえ」
男がのんびりとした声でそう言うと、しがみついている腕から力が抜けた。
「そ、そうなの。驚いちゃったわ」
ホッと息をついた奥様の方を向いて、男はニコリと微笑む。
「綺麗ですよね」
男の言葉に奥様は、メリーゴーラウンドを見つめた。
様々な色のイルミネーションがきらめく中、口元に金の轡に手綱、背に金の鞍をつけた白い馬が、四肢を曲げ走っていく。体は金の厚総で飾られている。何頭もの馬が走る中、豪奢な黄金の馬車も走る。
赤、青、緑……色を変え点滅するイルミネーション──円形の天井から黄金の光が溢れ、辺りを照らす。
生き物のように揺らめく光、聞くものの気持ちを弾ませるような音楽……。
「キレイ……」
呟いて、奥様は男の腕を離すと、フラフラとメリーゴーラウンドに近づいた。
施設を囲む柵まで近づいて、ボーッとメリーゴーラウンドに見入る。
「乗ってみませんか」
ポンと男に肩を叩かれて、ハッと奥様は我に返った。
「……え」
「ほら、ちょうど止まりましたよ」
男は柵を開けて中に入ると、動きを止めた回転床に上がった。白い馬の脇に立つと奥様に向けて手招きする。
「乗ってみせてください。あなたは馬に乗るのが得意そうだ」
「あら……フフ」
男のかけた声に奥様は小さな笑い声を漏らすと、男の側まで近づいた。
男の側の白い馬から出ている棒につかまると、鐙に足をかける。男は奥様の腰に手をかけて、乗るのを手伝った。
「しっかりまたがってくださいね」
「ワンピースなんだけど……」
口ではそう言いながらも、奥様は膝丈のワンピースで、男の前で馬にまたがってみせた。
「あなたは乗らないの?」
乗せるとそのまま去る素振りをみせた男に、奥様は慌てて声をかけた。
「あなたが乗る姿を楽しませてくださいよ」
離れようとした男は、奥様にまた近づいた。
シルクハットに黒いタキシード、彫りの深い端正な顔に、モノクル──垂れ下がった銀の鎖は洒落ている。でも、と奥様は思う。
なぜ、汗をかいてないんだろう?
日が陰り、気温は下がったが、外気はまだかなり蒸し蒸ししている。奥様は桃色のキャミソールワンピース姿の軽装だ。それでも歩いてうっすらと汗がにじんでいる。男の格好は暑そうだ。でも、男の顔は、暑さをまったく感じてないようにすっきりと爽やかだ。それに男は薄闇の中、明かりも持ってないのに、まるで辺りがはっきりと見えているかのように歩く。男はここにいる。ではどうやって電源を?
変なのに、なぜ不思議に思わなかったんだろう?
疑問が頭の中に湧いたところで、スカートが巻くれあがって剥き出しになった白い太腿に、男がスーッと手を滑らせた。少しひんやりとした男の手の感触に疑問は霧散して、奥様の頬が赤く染まる。男の先ほどの言葉が、頭の中によみがえった。
「フフ、いいわ。見て楽しんで。でも、この後は違う馬に乗りたいわね」
奥様の要望に男は口の端を持ち上げて、意味深な笑みで応えた。
男が床から降りると、待ち構えていたかのように、軽快な音楽が鳴り、床が回転して馬が動き始めた。奥様は両手でしっかりと棒に掴まる。
動き始めた馬が男の視界から消えたところで、ペロリと舌を出して奥様は唇を舐めた。これから、男と過ごす時間を思って心がワクワクと浮きたつ。あんな美形は初めてだ。
フフフと笑みが浮かんでくるのを押さえられない。再びメリーゴーランドの前に立つ男の姿が目に入ってくる。上下に動く馬の上で男に手を振ろうとして、奥様の笑みは固まった。
手が棒から離れない……。
男に手を振ることもなく、奥様は男の前を通りすぎる。
再び男の姿が目に入ってきて、奥様は叫んだ。
「ね、ねえ、手が離れないの! 助けて!」
奥様のひきつった顔を見て、男は笑みを浮かべた。上下運動が激しくなり、木馬は回転を速めていく。奥様の顔は一気に崩れた。
「助けて! 降ろしてー!」
恐怖に顔を歪ませて、泣きながら上げる奥様の悲鳴に、男の笑みがドンドン深くなっていく。
奥様は体が重くなっていくのを感じた。棒に掴まっている手から張りが失われていくのに気づく。
「いやあー! きゃー!」
男の姿が目に入る回数が増えていく。男にすがるような視線を送っていた奥様だったが、速くなる回転に男の姿が視認できなくなっていく。もう、キャー、キャーと言葉にならない悲鳴しか上げられない。
「フン♪フン♪フーンフン♪」
鳴り響く音楽は凄まじいアップテンポで、もはや音楽というより、音の洪水だ。
メチャクチャな音楽を気にせず、男は楽しそうに、奥様の上げる悲鳴を拾って聴いた。悲鳴に合わせて、自作の鼻歌もつけた。
悲鳴が聞こえなくなり、しばらくすると、速度を落としてゆっくりとメリーゴーラウンドは動きを止めた。男の前で止まった白い木馬には、桃色の服を着た、干からびた人のような物がくっついている。
「おやおや、残念。違う馬には、これでは乗れませんねえ」
黒く干からびて棒のようになった太腿の部分に目をやって、男はヒョイと肩を竦めた。
男がトンと床を踏み鳴らすと、木馬の上の固まりは、服ごとサーッと崩れてどこかに吸い込まれるように消えていく。
男はメリーゴーラウンドの床から降りると、振り返って優雅に一礼した。
「おやすみなさいませ、奥様」
男の挨拶が終わると、メリーゴーラウンドの明かりはフッと消える。華やかな電飾のきらめきも、黄金の光もなくなり、きらびやかな世界は終わった。
薄闇に黒い輪郭だけが浮いていた。




