10.いずれは旅立ち
シュリとミライを助け出して数日。家事全般を教えてるのか教えられてるのかわからない微笑ましい様子の獣人娘二人に見送られ、さて狩りにでも、と腰を上げたオウガを、アランが呼び止めた。
彼が厳かに懐から取り出したのは、厳重に封のされた小壺だった。そこから何やら溢れだす禍々しい気配に、思わずたじろぐ若狼。
「ア、アラン……それ、なに?」
「これはな……シュリ、捕まえろ!」
「あいさー」
「え、何で!? どうして!?」
「ここじゃくさ――汚れちまうからな。川へ行くぞ」
「今臭いって言った!? 言ったよね!?」
「大丈夫だよ、オウガ」
「シュリ……ならこの手を放してほしいんだけど」
慈愛の微笑みを浮かべる狼娘。抗議の声は聞こえないのか意に介しないのか、
「天井の染みを数えてるうちに終わるから」
「俺、何されちゃうの!?」
残念だが今回は天井がないなー。あらそうだったわ、うふふ。ははは。と乾いた笑いを交わしながらオウガを引っ張っていく二人。――そんな様子に、
「お姉ちゃんたち楽しそう……」
混ざれなかったネコ娘が少しだけ疎外感に寂しがっていたのだった。
「お兄ちゃん、くさい……」
「臭いが移ったら大変だから、ミライももっと離れる」
「ヒドイ言い草だ……。ねぇアラン。どれだけ洗っても臭いが落ち切らないんだけど?」
「まぁ、それだけ効能が強いと思えばいいんじゃないか?」
「このヒドイ臭いにも意味があるの?」
「ははは…………」
乾いた笑いで視線を逸らすアラン。思った通りだよ、と肩を落とすオウガの髪が、漆黒に濡れていた。
「それで、これは何だったの?」
「強力な白髪染めだ。材料は……まぁ機会があればな」
「白髪染めねぇ……」
オウガの視線は白髪交じりの師匠の頭髪。俺はいいんだよと頭を隠す様に肩をすくめ、今度は遠巻きにこちらを窺っている獣人娘二人に矛先を向け、自身の髪を抓んでみせた。
「似合う?」
「お兄ちゃんまっくろ~」
「オウガ……うん。その色、似合ってる」
濡れたように濃い黒は、彼や両親とは違うものだったが、それでも遠い故郷の懐かしき日々を思い起こさせ、シュリの感想は重たいものになってしまった。
「シュリお姉ちゃん?」
「なんでもないから、大丈夫。髪の色が変わるってへんな感じだね」
事情を知らないミライが何事かと尋ねるが、シュリはとぼけて見せた。そんなやりとりを見たオウガはアランに尋ねた。
「何で髪を染めなくちゃならないのさ?」
「そりゃお前……白い幽霊が宿場町で大暴れしたからだろ」
「っう!」
「それとな。オウガ、お前はしばらく、少なくとも獣人の領域に入るまでは人間のフリをしとけ」
「え?」
「せっかくそんななりしてるんだ。せめて有効活用しときな」
そういってオウガの黒髪を乱暴に撫でる。
「そして、お嬢さんたちにはこいつだ」
「首輪……?」
「誰かの所有物であることが明確であれば、それに手を出せば罪になるってわけだ」
「私がオウガの所有物……ご主人様、似合う?」
「ちょっと!? 何言い出すのさ!?」
「ははは、お前も慣れろよ。上下関係を明確に見せつけることはあいつらの安全に繋がるんだからな」
早速首輪を細い首筋に当て、見せつけるシュリ。オウガはその様子に取り乱したが、アランはその順応性の高さに感心していた。
「さぁミライも一緒に。ご主人様~」
「ご主人さま~」
「うぅ、こそばゆい……」
「ご主人様お茶おかわり」
「おかわり~」
「はい……いや、これは絶対間違ってる!」
「何やってんだか」
いまいちなり切れない主従の様子に師は頭を抱えるのだった。
◇
シュリの怪我が落ち着くのを待つことさらに数日。旅立ちの日は誰が待ち望むでもなく訪れた。
「本当に一緒に来れないの?」
オウガはアランに問う。事の発端は旅路の確認をしていた時のこと。シュリの治療の後もそのまま南東に下り、獣人の領域を目指すことを話し合って決めた時、アランが別れを告げた。
当然一緒にいてくれるもの、と思い込んでいた自分自身への驚きもあって、獣人の弟子たちはまだ心の整理がつかないでいた。
「俺が一緒だと、それはそれで迷惑をかけるからなぁ。お前たちも師匠離れのいいきっかけだろうさ」
「アランこそ、弟子離れできるの?」
「うるさいよっ」
シュリの一言に痛いところを突かれた様子のアラン。それでもアランの決意が固いのは、過去にそれだけ様々な恨みを買ったという自覚があるからなのだろう。
「アランおじちゃん。短い間だけどお世話になりました」
「ミライの嬢ちゃんが一番まともな挨拶じゃねぇか」
「むぅ……。アラン、長い間ありがとう」
「また、会えるよね?」
「おう、さっさといけいけ。もう戻ってくんなよ」
「アラン……」
背中を向け、ぞんざいに手を振る。その背中が思いのほか小さく見えたことに、オウガは戸惑った。これが十年前に自分たちの前に立ちはだかった男と同じ背中なのかと。
「俺たちは絶対に故郷に帰る。ここと変わらない田舎だけど、アランも遊びに来てよ」
「ああ……気が向いたらな」
「アラン、絶対!」
「はいはい。早く行けバカ弟子ども」
「うん。行ってきます」
「またね」
「おじちゃん、ばいば~い」
震えるアランの肩に気づかないように、オウガたちは歩き出した。
「……ああ。すっかり静かになっちまったな」
一人部屋の中でアランはごちた。増えた住人のために確保した空間が、今はただガランと広がっていた。
「遊びに、ねぇ。……俺もけじめをつけねぇとな」
遠くを見つめ、何かを決意する。と――
「あたたた。その前に腰を治さんとな。くそう、あいつらに残ってもらえばよかったかねぇ……」
後に残されたのは、痛む腰を押さえる哀愁の親父の背中だった。
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