黒い悪友(とも)
5月13日。
いつ見ても仕事場は狭いなぁ。
レイ・ローウェンは心の中でそう呟いていた。
言葉にするほどの事でもない、それほどの程度の一言。もしこの一言に声が付いていたのなら、「そんなの、いつもの事だろう」と、隣に座る同僚から返事がきただろう。
レイの仕事場である軍の総務室は実際狭い。室長を含めて4人のこの職場は、5人分のデスクと資料を並べるための棚二つ、そして室長の趣味によって持ち込まれた観葉植物でほぼ満杯だ。
何故こんなに狭いのか。その理由は至極単純だ。
この総務室は、上層部からそこまで重要視されていないからである。
「レイ、さっき電話が来たんだけど、広報室の蛍光灯が切れたって。新しいの届けに行ってくれない?」
「何で僕が。ノックスが行けば。」
「僕は今日中に片付けなきゃいけない書類残ってるからさ。頼むよ。」
「仕方ないな…。新しい蛍光灯ってどこ?」
「備品倉庫。」
「分かった。」
ノックスの頼みを受けたレイは立ち上がって制服の上着を羽織った。
先程の二人の会話の内容で薄々分かったと思うが、総務室の主な仕事は雑用だ。総務室、と書けばお硬くてかっこいい聞こえ方ではあるが、かっこいいのは名前だけだと、レイはいつも思っている。
蛍光灯を持って来てくれ。電話対応を手伝ってくれ。コピー機が壊れたから直してくれ。人手が足りないから助っ人に来てくれ。
他の部署の仕事がスムーズに進むように補佐…というより雑用…をするのが総務室の仕事だ。
だが、最近は総務室=よろず屋と思い込んでいる者も多い。
先日は、女性職員に頼まれてレイとノックスの二人でゴキブリ退治に出向いたほどだ。
だが、舞い込んでくる雑用にいちいちツッコミを入れていてはこちらの身が持たない。
職員5人は舞い込んでくる変な頼み事にため息をついたり苦笑いを浮かべたりしつつ、仕事に精を出している。
広報室の蛍光灯を手早く取り替え、広報室の人間から礼を言われてからその場を離れた。
広報室の扉を閉じ、自分の職場に戻ろうと来た道を引き返す。
「また雑用やってたのか?」
後ろから問いかけられた。レイにとって聞き覚えのある声だ。
振り返ってみると、華やかな白い生地の軍服の上から黒いロングジャケットを着た男が壁に寄りかかっていた。
男はニヤッと笑いながら、レイに向かって物を投げる。
軽々とキャッチしてそれを見てみると、それはブラックコーヒー。レイが好んで飲むメーカーの物だ。
「……何でここにいるの。」
「いたらダメだったか?」
「別にいいけど。ただ、この辺りは君の仕事場じゃないだろ。」
「今日は野暮用でこっちに来たんだよ。ついでに、お前の眠そうな顔でも拝んでいこうと思ってさ。」
男は手をヒラヒラと振りながらレイに近づいた。
「お偉いさんを守る護衛兵団にも、暇な時はあるんだね。」
「そりゃーお前の顔を見て行くくらいの余裕はあるさ。昼飯は?」
「まだ。」
「新しくできたカフェ行くぞ。上司に言って早く抜け出してこい。」
全く。強引なヤツだ。
レイがため息をつく頃には、男は食堂に向かって颯爽と歩き出していた。
この強引さが彼…クラウス・アインフィルスの良さだと思うと、その強引さも憎めない。
レイはいつも、このまるで王様のような強引さに振り回されつつ、そんなクラウスを気に入っているのだった。
オルテシア国軍本部は首都メイアスの中心部に位置している。国軍本部を拠点としているのは、主に軍の上層部と国の要人を守る護衛兵団、そして広報室や庶務室といった事務を管轄する各部署。
軍本部は陸軍、海軍、空軍を統括している。オルテシア国軍の中枢、と言えば分かりやすいだろうか。
そんな国の重要施設でありながら、建物の外観は重要施設というより大富豪のお屋敷に近い。
そんな本部が窓越しに見えるカフェにレイとクラウスはいた。
本部から歩いて10分もかからない事から、カフェの客はレイと同じ黒い制服を着た人間がほとんどだった。
その中でも、やはりクラウスは目立っていた。
護衛兵団に所属する者の証である白い軍服に数々の装飾。レイの目の前に座るクラウスは今は上着を脱いでいるため、本部で会った時よりもさらに目立つ。
そしてクラウスは何より「イケメン」なのだ。とにかく顔が良い。本人はあまり自覚していないようだが。
「クラウスってさ、何で一年中制服の上から上着着てるの?」
「言ってなかったか?俺は黒が好きなんだよ。だから。」
「団長さんとかに何も言われないわけ?」
「入団した頃は毎度言われたけどな。風紀を乱すなって。」
「じゃあ今は特に何も言われないのか。」
「いつだったか忘れたけど、歴代最年少で副団長になったら何も言うなって団長に言ってさ。それで本当に最年少で昇進しちゃって、今に至るな。」
「本当にクラウスってすごいよねぇ。」
今の会話でも分かる通り、クラウスは大胆不敵で恐れ知らず、そして有言実行な男だ。
それに付け加えて少々強引な一面がある。
「そんな話はどうでもいいだろ。早く食べないと冷めるぞ。」
「はいはい。」
レイとクラウスは窓際の席で向かい合って座っていた。レイはベーコンや卵が乗ったパンケーキ。クラウスはカルボナーラ。
「そういえば、今日から一週間本部に泊まり込みで仕事する事になった。」
「泊まり込み?何でまた。」
「おいおい。正気か?来週の水曜日は何月何日だよ。」
「5月20日。…………あっ。」
5月20日。
思い当たったレイを見てクラウスは静かに頷いた。
「終戦の日か…。」
「そういうことだ。つまり。」
「首相による終戦記念セレモニー。」
「ご名答。」
クラウスは指をパチンと鳴らした。
「…というかレイ。もしや今まで忘れてたのか!?」
「だって、庶務室はセレモニーに参加しないし。どうせ雑用だし。」
終戦セレモニーという国を挙げた一大イベントだというのに、レイはノーリアクションだ。
それは無理もない。庶務室の面々は雑用をこなすのが役割。終戦セレモニーなんて専門外だ。おそらくセレモニー当日は本部で留守番をするか、お偉いさんが不在の間に部屋を掃除するかのどちらかだろう。
「護衛兵団は大変だろうね。警護しなきゃいけない人が大量に、しかも一箇所に集まるんだから。」
「そう。だから、今日から本部に泊まり込みで準備だ。いつもの警護の業務をやりつつ、セレモニーの警備体制の確認。各部署との会議。」
「そりゃあ大変だ。過労死しないように気をつけて。」
「軽く言ってくれるなぁお前…。まっそういうことだ。だから、今日のいつもの飲み会は行けなくなった。」
「そっか。」
話を聞きながらパンケーキを食べていたレイだったが、ふとその手に急ブレーキをかけた。
ブレーキがかかったタイミングは、クラウスの「飲み会に行けなくなった」という部分だろうか。
「…ちょっと待って。それは聞いてない。」
「そりゃそうだ。だって今言ったんだからさ。」
何でこんなテキトーなヤツがモテるんだ。顔か。顔なのか。顔が良いからか。
レイは極力表情を変えず青筋を立てず、心の中で文句を垂れた。
今この場に自分とクラウスしかいなかったのなら、いつも使っている鞄でクラウスの脳天を殴りつけていただろう。
レイの心中などそんなもの知るはずもなく、クラウスは悪びれた様子もなく食後のコーヒーを優雅に飲んでいた。
「…人を振り回す事に関しては、プロだよね。クラウスって。」
「よく言われる。」
レイは大きなため息をついた。
クラウスの自由奔放ぶりに心中は荒ぶりまくってしまったが、ため息で全部外に出してしまえば、もうどうでもよくなってしまった。
こういう時にレイは、クラウスは自分にとって悪友だと実感する。
基本的に振り回されるのはレイの方だ。彼とつるんでいて肝を冷やしたこと、トラブルに巻き込まれたことは数えきれない。
それでも、何だかんだで交友関係は長く続いている。もう十年ほどの仲になるだろう。
「さすがに言い忘れてたのは俺が悪いから、昼飯は奢るよ。ラグナによろしくな。」
「……分かったよ。」
あぁ、今日もこの黒い男に振り回されてしまった。
だが、悪くない。
クラウスといると、何かあっても最終的に「悪くない」と感じてしまうのだから、この男はきっと魔法使いか何かだろう。
レイはもっと不満を言いたかったが、今回は一歩引く事にした。
今日のクラウスの事は、もう一人の悪友にでも聞いて貰えばいい。
今日の夜に会う悪友。
それは白が似合う青年。
全てをひらりとかわす、風のような男に。
すっかり陽が落ちたメイアス。人の喧騒からは距離を置いた裏路地で、一人の男が歩いていた。
ケータイが鳴る。
着信用のメロディーはワルキューレの騎行。
この音楽が鳴ったという事は。それは男にとって舞踏会の始まりに他ならない。
立ち止まると、自然と笑みがこぼれる。笑い声まで漏れてしまいそうだ。
何とかそれらをこらえて、ケータイを開く。
メールが一件来ていた。
[一週間後、予定通りに]
舞踏会の前夜祭が始まる。
もう、誰にも止められない。止められるものか!
男はケータイをポケットに入れ、夜のメイアスに消えていった。