私を想って
一分咲きの桜が川の水面に揺れている。穏やかな色彩が、沢山の荷物で陰鬱になった気持ちを少し晴れさせてくれる。
今年は桜の開花が早いとニュースで言っていたから、きっと最高学年に上がる頃までには葉桜になっているだろう。入学式に満開の桜なんて音楽と小説とアニメの世界だけなのだ。
私は隣をゆったりと歩く男の顔をちらりと見た。
高校二年間、時間が合えば一緒に登下校することがなぜか当たり前になったその男は、湊一哉という。特に幼なじみというわけでもなし、小中学校で仲がよかったわけでもなし、ただ同じ中学校から同じ高校に進学したのが私たち二人しかいなかった、それだけなのに、いつの間にか一緒に帰るのが当たり前になっていた。
無言のまま二人で歩く。肩に乗る荷物は、先ほど湊に半分奪われた。重くないのかなと思うけれど、なんとなくそれは言ってはいけない気がしていた。
横を歩く顔は最近黒縁の眼鏡をやめ、生意気にもコンタクトレンズをはめていた。むき出しになった鳶色は私を映さず、ただ前を向いている。
「もう、入学式から二年もたったのかー」
湊は前を向いたまま、感慨深そうな声を出した。
肩にかけていた私のスクールバッグをくいっと持ち直し、本来の速さでスタスタと五、六歩歩いたかと思えば、くるりと私の方へ向き直った。驚く私を尻目に、そのまま後ろに歩きながら、湊は言葉を続けた。
「三樹は進路希望なんて書いた?」
そういえば、湊と進路の話はしたことがなかった。
なぜだかは、わからない。自然と避けていた話題だった。
「理系私立四大。湊は?」
「僕は文系の国公立」
「そう。湊、頭いいもんね」
「そんなことない。これから頑張らないと」
湊がいじる黒髪が風でふわりとひかる。
いつものようににかっと笑う湊が、すこし照れているように見えた。
柄でもなく、誉めてよかった。
私は髪をいじり続ける湊を見てクスクスと笑った。
「湊なら心配ないよ」
「ほんとかなー? 三樹笑ってるし……」
「もう! ち、違うの!」
焦って出た声は思った以上に大きかった。
一度深く息をはいて、一呼吸置いてから、静かに続けた。
「湊が少し嬉しそうだったから」
湊の足がピタリと止まった。
「僕、そんなに分かりやすかったかなー」
聞こえないほど小さく呟いた湊にまじまじと見られて、なんとなく恥ずかしくなってうつむいてしまった。今日、髪を下ろしといてよかった。耳まで赤くなってるかもしれない。
「湊はわかりやすいよ」
「三樹には本当に叶わないな」
うつむいたままの私に、湊がそう言って、笑った。
少しずつ大きくなるクスクスと笑うその声に顔をあげると、細くなった鳶色に困惑した私が映っていた。
「ほら、帰るよ」
湊が歩き始める。私は待ってと追いかけた。
追い付いた私に、湊は歩調を緩めた。
前を向いたまま、私の方は見ない、いつもの湊が隣にいた。
「こうやって帰るもの後何回になるだろうね」
「そうだね。クラスによって帰る時間変わるだろうし」
いつも約束なんてしてないし。
なんとなく下を向くと、白詰草が生えていた。
また、4月からも一緒に帰りたいなんて、私の我が儘なのだろうか。
「4月からは忙しいだろうな」
「受験生だしね」
二人してため息をはく。
「やっと高校受験終わったと思ったのに、もう大学受験かー」
「さっさと終わらせて華のキャンパスライフ……」
「まだ受かるか分からないけどな」
「もう!やめてよね!」
湊の腕をぱしっと叩いた。
やっとこっちを向いた鳶色に悔しくなった。
「ちょっと湊、止まって」
「どうした?」
湊の足が止まる。
「こっち向いて」
湊の爪先がこちらを向く。
「あー!やっぱりなんかついてる」
「えっ。どこ?」
湊が顔を動かす。
「顔。ちょっと待って」
湊が静止する。
「目、閉じて」
湊が瞼を伏せる。
鳶色が消え、代わりに黒いまつ毛がふるりと揺れた。
私は、私よりも少し高い位置にあるその顔をじっと見た。
テレビに出ているような同年代の若手俳優のようなかっこよさも、アイドルのようなかわいさも、スポーツマンのような勇ましさもない。普通の、どこにでもいそうな、強いて言うなら少し軟弱そうな男子高校生だった。
でも、なぜか、私にとっては、かっこいいのよね。
私はその顔を手を伸ばした。
……このままキス一つできる女の子だったらよかったのに。
ありもしないなにかをつまみ、湊に声をかける。
「とれたよ」
来年の桜の頃にも一緒に歩けてますように。
……あわよくば、名前で呼ばれるようになりますように。
そう道端のポピーに願いながら、私は一歩を踏み出した。