愉快犯、始動
月明かりの晩。
並みの人間ならば、二桁の回数で遭難できる程の険しい山奥。
そこに、小さく開けた場所があった。
太い木々は切り倒され、雑草の一つも無い剥き出しの地面がある。その一角には、木造りの小さな小屋があり、人の手が入った場所である事が窺える。
普段は、たまに熊や虎の様な猛獣が出る程度の平穏極まりない土地であるが、今はその面影も無い。
血、血、血。
見渡す限りの血の海がその広場を満たしていた。血に濡れていない場所を探す方が難しく、そこかしこに血の海を作り出す原因である切り刻まれた残骸が散らばっている。
その全てが異形の怪物たちだ。俗に魔族、そしてその眷属として魔物と呼ばれる存在達の成れの果てである。
月が中天に差し掛かった頃、小屋の扉が開いた。
出てくるのは、この小屋と広場を作った主、やたらと白い装束の青年だった。
年の頃、十代後半ほどだろうか。長身のスラリとした身体を持ち、青銀の髪は長く、項の辺りで一本に括られている。白を基調とした装束を纏い、腰には白鞘に入れられた銀色の剣が下げられている。その上に、更に純白のマントを纏っており、見ているだけで目に痛い格好をしている。
「やれやれ。朽ちていなくて良かった。この服を着るのも何年振りかな」
魔法によるレジストを何重にもかけている白装束は、そこらの鎧などよりもよほど頑丈で丈夫な代物であるが、放置していた年数が年数だけに虫食いにでもあっているのではないかと心配ではあった。
しかし、どうやらそれは杞憂だったらしい。解れの一つも見られないし、魔法レジストの効果もかつてと変わりなくかけられているままだ。
「ば、……化け物……め!」
切れ切れの血反吐を吐く様な言葉が青年の耳に届いた。
声の出元を探れば、肉片の山に埋もれるように生き残りの魔族が、今にも途切れそうな喘鳴を吐き出している姿を見つけた。死の恐怖と、そしてそれをもたらす死神の如き成年への恐怖で濁りきった瞳をしている死にかけのそれは、見るからに憐憫の情を誘う。
「おや。生き残りがいたか。私の腕も錆びついているな。不甲斐ない」
鏖殺したと思っていたのだが、仕損じていた者がいたらしい。かつてでは考えられない落ち度に、自分の腕の鈍ぶりに嘆息する青年。
「それにしても、私が化物。そうか。君にはそう見えたか。……はぁ。時代だな。昔であれば、私をそう呼ぶ者もいなかったのだが」
自分などよりも、よっぽど逸脱した怪物がいた。そいつが怪物だ化物だと呼ばれていた為、それよりかは比較的常識の範疇内に留まっている青年は、特にそう呼ばれた覚えがない。
「せめてヨミくらい強くなくては、怪物とは呼べんぞ。なぁ、魔族?」
青年は腰の剣を抜き放つ。
針の様な細さを感じさせる剣だ。緻密な細工を施されたナックルガードを付けられ、剣身は鏡の如く磨き上げられた銀色で、凄絶な美しさを湛えている。
「せめて……一太刀ぃぃぃぃぃぃ!!」
最後の力を振り絞って、生き残りの魔族が飛びかかる。
二メートルを超える巨体は、勢いもあって見る者に実際以上の威圧感を与える。
しかし、青年は全く意に介さない。
「生き残った君には褒美を呉れてやらねばな」
すとん、と。
涼やかな声の後、魔族は何の抵抗も無く胸に刃が突き刺さるのを見た。
鋭い痛みが全身を襲う。
そして、それだけだった。一瞬の痛み以外には何も無く、死ぬような事も無かった。
だが、僅かに遅れて異変に、何をされたのかに気付いた。
「命の太い君には、褒美として死ぬまで生き残る命を与えよう」
青年が剣を抜き、鋭い一振りで血糊を払い落す。
魔族は動かない。否、動けない。まるで糸の切れた人形の様に、微動だに出来なかった。腕や脚と言った四肢だけでなく、口も舌も動かなければ、眼球も動かず、瞬き一つ出来ない。
話には聞いていた。こういう事をしてくる相手だと。馬鹿にしていた。そんな事が出来る訳がないと。
だが、現実は話の方が正しかった。
「餓死するか、獣に食い荒らされるか。まぁ、退屈に精神が死ぬか、という線もあるか。それまで、ゆっくりと過ごしていたまえ」
剣を鞘に納めた青年は、魔族に背を向ける。
ただの一突きで、全身の神経を麻痺させ、二度と動く事の無い肉の彫像には、もう何の興味も無い。いつか朽ちてなくなる趣味の悪い置物だ。
青年はマントの下から、銀色の仮面を取り出す。
顔の上半分、目元を覆い隠すそれを装着しながら、
「ふふっ。それにしても、全く、いつの世も慌ただしい事だ。久し振りに、文明に触れたくなってしまったよ」
血の匂いに引き寄せられた獣たちとすれ違いながら、白き仮面の剣士は山を下りていった。