物集めのむなしさ その6 骨董は魔の沼
『おい。おまえ、、 そんな物集めて何の意味がある?」
そんな心の声が聞こえてきそうですよね?
「そんなガラクタいくら集めてみたところでおそらく
なーーにも意味なんかないでしょうよ」
たしかに?
庶民コレクター
サラリーマンコレクターの集められるものなど
タカが知れているでしょうね。
そばチョコ1000個
明治印判皿1000枚
とっくりコレクション
電笠コレクション
カエルアイテムコレクション
ぬいぐるみコレクション。
古民具とろとろコレクション。
ソフビ人形。琺瑯看板コレクション、
昭和時代古漫画本コレクション。
昭和の古着物。古裂コレクション。
箸袋コレクション。
観光地提灯コレクション。
観光地のキーホルダーコレクション。
まあいくらでも出てきそうですね。
でも?
はっきり言って
以上のすべてのコレクションが今すぐすべてこの世から消滅したとしても、、、、
誰も困りませんし、
というか日常生活で不用品でしょ?
そんなコレクション自体が全くの無意味?でしょ?
そうですよ
「そんな物集めて何の意味がある?」
という神の声?が
聞えてきそうですよね?
物集めのむなしさですよね。
確かにこんなもの集めても何の意味もないでしょうね。
文化芸術上の画期的な価値があるわけでなし。
これらに藝術的なすごい何か?があるはずもないし、
いわば
どうでもいいような
文化的な創造物の
一番下の
下層の
泥流の
お釜の一番下の真っ黒い、オコゲみたいなものでしかありませんよね?
真っ黒で、ただの炭で、喰えません。
『ゴミも100年たてばお宝になる』、、
といった人がいます。
しかし、、
現実は
『ゴミは100年たってもゴミでしかないのです。』
ただし、、
その時代には理解できなかった
時代を超えていた、、
それがために埋もれた、、
という藝術品はあるでしょうね。
伊藤若冲
田中一村
曾我蕭白
など後世に再発見された藝術もありますが、
さて?
さっきのソフビ人形が
印判皿が
電笠が
埋もれた芸術品だったはずが100パーセントあり得ません。
しょせんこんなもの100ねんたったって、
ゴミです。
でも
100歩譲って
庶民で
カネもなし、、
美的審美眼もゼロだが、、
収集欲があり
何かを集めたい
コレクションしたい
という人だっているでしょう。
そういう人はどうすればいいのでしょうか?
そういう人が
血迷って?
騙されて?
おだてられて?
たとえば、、
中国古陶磁器のニセモノの山を
大金だまし取られて
しこたま買い込むよりは
まだ
ソフビ人形でも
それなりの値段で集めてるほうが
1000倍マシでしょうね。
ソフビ人形にもニセモノがあるんだそうですけど、、
そんなの見分けるのは簡単?でしょう?
でも、中国陶磁の真贋は、、とっても難しいのですよ。
ですから庶民が、、収集欲がある人が、、趣味で、
身の丈に合った、
雑器ガラクタを集めるのも、無礙に否定はできませんよね?
「ヤドカリはまたおのれの体に合わせて貝殻を選ぶ」
ということわざがあります。
誰もが
財力があるわけでなし
審美眼があるのでもないし。
そういう人でも
何か集めて見たいと言う人は
そばチョコ1000個
とっくり1000本でも
大いに結構でしょ?破産しない程度にやる限りにおいてはね。
それに比べれば、、、
故宮博物院に同じものがありました的な、、、
だからこれは名品で1000万円です的な?
迷品?中国陶磁コレクションを
悪徳業者に?何百万も騙されて取られて、、
買わされる、、、押し付けられる?
自称、、目利き?古美術マニアよりは
ずっとましですからね。
こういうおじいさんって(大体がおじいさんですよ)
そもそも勉強しませんから、、、、、
馬鹿の一つ覚えで「故宮博物院にこれと同じものがある、だからこれもホンモノ」って?
得々と語ること語ること、バカもいい加減にしろよって言いたくなりますよね?
故宮博物院の本物で3億円もするような名品がそこらに転がってるわけないだろう。
100歩譲ってそれが本物だとして、あんたみたいな、庶民のところに1000に一つも舞い込んでくるなんてありえないってことだよ。
世に目利きはいるわけだし、そんな名品が名うての業者の目をかいくぐって
分からずに?田舎町の骨董屋のところまでナガレツクわけが無いですよ。
骨董品が流通するのは業者ですよ、
あなたが畑から掘り出しでもしない限りは
骨董品とは幾人もの名うての目利きの業者の手を経てるんですよ。
それが本物を見逃すハズががないですよ。
必ずプロ業者の目にひっかかり、
サザビーとか有名オークションで正当に売られるんですよ。
まあ、パリの蚤の市でオランダ時代の初期のゴッホの真作が
1000円で売られていたって、事実もありますけどね。
まあそれは万に1つの例外中の例外ですよ。
そんなことがしょっちゅうあるわけがないです。
かくしてそこらの町や村の骨董屋で売られているのは
庶民の手に届く骨董品は
みんなプロの目を通された後の
がらくたやクズばかりです。
庶民が買えるのはクズばかりです。
ただ、、、
老婆心ながら
いくら
下等な、
低級な
アイテムとはいえ
集める以上は
あまりにも
お鍋の底のオコゲみたいな
最下等な
レベルはやめましょうね。
箸袋1000種
行った観光地に転がっていた石ころ
駅弁袋1000枚
トイレットペーパーの包装紙1000種類
これではあまりにもレベルが低すぎるでしょう?
ここまで行ったら
これはもう
ただ奇妙な悪癖?でしょう?
仮にもコレクターというには
低レベルすぎます。
まだ昭和古漫画本コレクターのほうが
1000倍マシですよ、
まあ
大局的に見れば、
どっちも50歩100歩ですけどね。
だが
そういってあまり開き直ると、
達観すると、
「そんな物集めて何の意味がある?」
から、、、、、
物自体の存在意味というか
芸術品なんて言ってるけどそれはたんなるものでしょ?
みたいな
ゴッホの油絵が10億円って?
それを人類絶滅後の10億年後に
誰?が10億円で買う?っていうのか、、
というような
人類の存在意味って
何?みたいな、、
たどりたどり、、、
最後に行き着くところは、、、
「お前のような平平凡凡な男が生きててなんの意味がある?」
という究極の大疑問になってしまうでしょうね。
まあだから
あんまり
人生も
骨董も?
問い詰めないほうがいいんです。
楽しいから集めてます。
お金もそんなにかけてないし分相応に
やってますから、、、
そんな程度でいいんです。
それでいいじゃないか?
ソフビ人形でも
琺瑯看板でも
カス取り雑誌コレクターでも
楽しいし、、
自分の財力、知力、度量?にあってるし、、、
だったら?
それでいいじゃないか?
そうして
ある日
もし
楽しくなくなったら?
止めればいいだけのことでしょうね。
あるいはある日
倒れて植物人間、寝たっきりになったら?
やめればいいだけでしょう。
(というか、、やめざるを得ませんよね)
さらに
ある日
ぽっくり亡くなったら?
あとは遺族が
そのあなたのガラクタ蒐集の欲の後始末は
粗大ごみの日に
まとめて出してきれいに処分しておしまいですよ、
それで一巻の終わりですよ。
それでいいんですよ。
所詮庶民のあなたが集めた物なんてそんな程度の
物でしかないんですから。
酒好きな人が酒を飲む
花が好きな人が庭をつくる
犬が好きなら犬を飼う
そして古いものが好きなあなたはガラクタを集める。
それでいいじゃないですか。
それ以上でもない
それ以下でもない。
それだけのことですよ。
そして結論は、、、、、、
そんな物集めてなんの意味がある?
「何の意味もない」
物集めのむなしさ
でもじゃあ
酒飲みはむなしくないのか?
ギャンブルはむなしくないのか?
と言われれば
物集め以上に?むなしいだけでしょうね。
だがこれ以上突き詰めるのはやめましょう。
人生そのものが、、実は
むなしさの塊だという厳粛な事実にブチ当たらないうちに
これ以上突き詰めるのはやめましょう。
楽しいからガラクタを身分相応に集めて自己陶酔してます。
それで
それだけで
まあ
良いじゃないですか?
ねえ?
でも、
よしんば、そうであっても、、、、、
私の集めるものなんて
私の買える範囲のモノなんて、、、
何に意味も意義も価値も全くないもの、、であることだけは
ほぼ?確定でしょうけどもね。
突き詰めてはいけません。
かあるく
かあるく
楽しいから、無理せず
こずかい程度でやってます。
でいいじゃないか、
でも?くれぐれものめり込まないようにね。
あなたの家を1万冊の古漫画本でゴミ屋敷にしないようにね。
或いは徳利を1万本も集めすぎて、入れるための倉庫を作ったりしないようにね。
でも?
結局そこまで行っちゃうんですよね。
それがコレクター
それがマニアの
魔性の?本性だからですよ。
コレクションとは
依存性があり
のめり込み
抜けられない
まさに
魔の沼だからです、
おお
コワイ
コワイ。
「今はただ、モノの重なる鬱陶しさ、後生は頼め、付喪神さま」
秋山河 早風連 自詠