とりかえごっこ
とある公立中学校で、ひそやかに噂されるいくつかの怪談。その一つに『とりかえごっこ』というものがある。
ひそめて廊下を歩く上靴は複数のもの。冷たい廊下を擦りながら、夜の校舎を慎重に歩く。
先頭を歩くユキコは件の怪談を、嫌々ながらに思い出していた。
『とりかえごっこ』。
それはこの中学校が設立してしばらくした後、ひそやかに噂された伝説だ。戦時中、ここは雑木林で防空壕があり、ある日空襲で防空壕の出入り口が壊されてしまい、多くの人が窒息死したのだと言う。
成仏できなかった魂か、怨念か。とにかくそんな曰くつきの土地に建てられた中学校で、ある日女子生徒が一人、学校で変死した。
死因は窒息死。
窒息するような原因は何一つなく、だだ広い教室の真ん中で無酸素に喘ぎ、苦しみながら死んだらしい。
それからというもの、夜になると教室から時々、声が聞こえてくるのだと言う。
「とりかえて、とりかえて」
聞こえる言葉はそれだけ。だが、その声を聞いた者は次の日から別人のようになるそうだ。
まるで魂が取り替えられたように、顔や姿はそのままで、人格だけががらりと変わる。
しかし確たる証拠があるわけでもなく、気のせいだと言われてしまえばそれだけで。
ただ、中学校の生徒の間でまことしやかに囁かれていた。噂の出所は謎だが生徒の誰かは知っていて、怪談の話が出るたびに『とりかえごっこ』の話が出る。ある意味『トイレの花子さん』や『音楽室で突然鳴り出すピアノ』などといったオーソドックスな怪談の一つとして、件の話が話題になった。
だが、もしそのとりかえごっこが本当だったとしても、被害に遭うのは興味本位で確かめに行くような物好きばかりなのだろう。
そう、例えば自分達のような。
はぁ、とユキコは努めて小さく溜息をつく。どうして自分はこんな状況に陥ってしまったのだろう。
「この教室よね。2-D、うん、間違いない」
「ひゃー、本当に聞こえたらマジヤバイよね」
「聞こえるわけないじゃん。ほら、入りなよ」
ドン、と後ろから強く肩を押される。
ここで拒否してもろくなことならない。既に学習しているユキコは仕方なく扉を開いた。
カララ。……昼と違い、夜の教室のドアはどうしてこんなにも響くのだろう。夏という季節なのに足元はひんやりしていて、妙に怖さを助長させる。
しかしユキコの後に女子生徒達が続き、全員が教室に入っても何も起こらない。声どころか物音一つ、聞こえはしない。
暫くして「はぁ」と誰かが溜息をついた。
「なんだ、やっぱり嘘じゃん。『とりかえさん』なんていなかったんだよ」
「残念。折角取り替えてもらおうと思ったのにねー」
「ほんと、そうしたらもうちょっとマシな性格になったんじゃない? 残念だねーユキコ」
あはは、あはは。
夜中の教室に響き渡る若い女の笑い声。笑いの中心になったユキコは一人、俯く。
……自分は生贄だった。彼女らの面白半分で、胡散臭い怪談の犠牲者として扱われる所だった。
けたたましく笑う女達の声は耳障りだったが、ユキコは心の中で密かに安堵する。よかった。怪談なんてなかった。『とりかえさん』なんていなかったんだ。
しかしほっとしたのも束の間、まるで女達の明るい笑い声に誘われたように、ふよりと空気が揺れた。
夜だから当然窓は開いていない。にも関わらず奇妙なほどの冷たい風に、女達は一斉に笑いを止める。
そよ、そよ。
いっそ清涼ともいえるほど、真夏の蒸した教室に通る、ひとすじの風。
その風と共に流れるように、細い声が遠く、聞こえてきた。
とりかえてー…とりかえてー…
「ひっ!」
ガタンと大きな物音を立て、教室の机に座っていた女子生徒が立ち上がる。
ユキコを含めた全員が、恐怖の表情であたりを見た。当然のように自分達以外に人はいない。それなのに非常灯がほんのりと照らす薄闇の教室で、声だけが確実に聞こえてくる。
とりかえてー…とりかえてー…
「やだ、マジだよこれ。声きもっ!」
「ゆ、ユキコ、早く前に出ろよ。ほら、取り替えられろよ!」
「そんな事言われたって、どうしたらいいのか……っ」
「とろとろしてんじゃねえよクズ! ほら『とりかえさん』、こいつやるからとりかえっこしてみろよ!」
女の割には口汚く女子生徒達が声を上げ、ユキコは背中を蹴られて教室の壇上に追いやられた。
ずきずきと痛む背中を押さえながらよろりと立ち上がると、いつの間にそこにいたのか、教室の真ん中に青白い顔が浮いている。
――恐怖に、声がでない。足ががたがたと震え、歯がガチガチと不協和音を鳴らす。
宙を浮く顔は若い女のように思えた。目の部分がくぼんで、真っ黒に塗りつぶされている。髪は長くも短くもないが、首から下が無いので、ゆらゆらと髪がゆれている。
「っ、ひぃ、あ、あれ」
震えた指で生首を指し示す。女子生徒達はつられるように真上を見た。
すると、無表情をしていたカオが、細い三日月を形取るようにニマリと笑う。
とり、かえ、ごっこ、しよう?
突然響く、ガチャンともバリンとも聞こえる破壊音。ユキコは思わず耳を抑えて蹲った。
キャー、キャー。遠く聞こえる若い女の叫び声。
ばたばたと走り去る複数の靴音。
ユキコは足が震えて逃げることができなかった。ただただ耳を塞ぎ、目も硬く瞑ってその場に座り込む。
やがて周りに何の音もしない事に気づき、恐る恐ると耳から手を外した。
ゆっくりと立ち上がると、あたりには誰もいない。女子生徒達も、あの気味の悪い顔も。とりかえて、と聞こえていたあの声も全く聞こえず、辺りは耳が痛い程の静寂で満ちている。
もしかして、とりかえごっこは終わったのだろうか。自分はとりかえられてしまったのだろうか。
しかし、ユキコは自分自身が『ユキコ』だと自覚していた。自分の過去は勿論思い出せるし、状況もここに至る経緯も、全てを覚えている。
「私の名前は、ユキコ……」
一応声も出して確認した。それは蚊が鳴くほどの小さな声であったが。
そろりそろりと足を動かし、誰もいない教室を歩く。
女子生徒達は逃げてしまったのだろうか。あの奇妙な声の主はどこに行ってしまったのだろう。――何にしてもここにいて良い事など一つとして無いと思ったユキコは、早く家に帰ろうと教室のドアを開いた。
とりかえてー…
背後に聞こえる、うすら寒い声。
びくりと体が震え、がくがくとしながら振り向く。
真後ろに、ソレがいた。
長い黒髪で顔を隠した女。自分と同じ中学の制服を着ていて、むき出しになった手や足はミイラのように茶色く、古い木片のようになっている。
がりがりの骨の浮いた手がゆっくりと動き、ユキコの制服の裾をそっと掴んだ。
「とり、かえ、て、ユキコ」
――!!
足のつま先から頭の先までをかけて武者震いのような震えが体を襲い、ユキコは無我夢中でその手を払い、教室から転がるように出た。そのまま、がくがくと笑う膝に気合を入れて廊下を走る。全速力で、何よりも早く、短距離選手よりも早く。早く。
しかし頭がそう命令するのに対し、足は一向にのろのろとしていてなかなか先に進めない。怖いのだ。腰が抜けそうなのだ。だけどここで力を失くせばあのミイラのような女がやってくる。
はたから見ればユキコの走る姿は腰が引けていて、とても滑稽に見えただろう。だが、ユキコは必死だった。見なくてもいいのにどうしても気になって、ぶるぶる震える顔を動かし、後ろを振り返る。
「とりかえて、とりかえてよお……」
ほんの数歩先にミイラ女がいた。いつの間にこんなに近くまで来ていたのか。声にならない悲鳴を上げ、壁を伝って這うように逃げる。どうしてこんなにも廊下が長く感じるのだろう。早く、早く逃げなければ。
廊下の先にようやく階段が見えてくる。ここは二階で、上と下にそれぞれ階段が続いていた。
当然のようにユキコは下を選び、すべるように階段を下りていく。踊り場を回って更に下へ。一階にたどり着ければ、後は玄関口まで走って外に出ればいい。
大丈夫。自分は逃げられる。確信を持って一階の廊下を走ろうとした。――その時。
――ユキコ、まって、まってえ、わたしと、とりかえて。
「キャアア!」
肩に落ちてくるしわがれた木切れ。いや、腕。
しなだれかかるように制服姿のミイラがユキコの肩に落ちてくる。そのまま、まるで乗り移るかのように体をぴったりと密着させてきた。
おぞましさに体が拒絶反応を起こす。闇雲に腕を振り、力任せに突き飛ばした。ガン、と音を立て、ミイラは廊下の壁に向かって強かに背中を打つ。
「イダイ、いたい、イダイよぉ……。どりがえでぇ、ユキコ……」
口の中を切ったのか。むしろ『口の中』などあるのだろうか? とにかく、背中を打ってからミイラの口調がやや舌足らずになる。だが、そんな事に疑問を持つ事なくユキコは再び走った。しかし廊下はまっすぐに伸びており、このままではまた後ろから迫り来るものに追いつかれてしまうだろう――。
廊下の角を曲がり、最初に見えた引き戸をがらりと開ける。努めて音を立てないようにソロソロと閉めた。
床に膝をつき、息をひそめる。耳をドアに当て、外の様子を伺う。
かさ、かさ、かさ。
枯れ葉が舞うような音。それは段々と近づき、同時に酷くゆっくりな息遣いが聞こえてきた。
ハァー、ハァー。
時折、むせび泣くようにヒッ――ヒッ、とひきつるような声も聞こえる。
吐息と共に呟かれる「とりかえて」という言葉。間違いない、あのミイラ女が歩いている。
ユキコは息を詰めた。息遣いで見つかりたくはない。自分は置物だ、石だと思い込み、恐怖が去るのをじっと待つ。
かさ、かさ、かさ……。
やがて音は遠ざかっていく。ようやくユキコが安堵の溜息をついたとき、後ろから誰かが、彼女の肩に手を置いた。
「――ッッ!」
怖気が走る。顔が青ざめる。ここで大声を出さなかったのは奇跡だろう。ユキコは勢いよく後ろを振り向いた。すると、そこにいたのは。
「……西陣、さん」
「ユキコ、こんな所にいたのね」
それはユキコと共にこの学校に来た女子生徒の一人だった。てっきり全員逃げ帰ったのだと思っていたのに、まさかよりにもよって西陣が残っていたなんて。
ユキコは恐怖とはまた違う意味で体が震える。どうせなら、どうせなら、他の者と同じように逃げてくれたらよかったのに。
どうして西陣がこんな所に残っているのだ。誰よりも先陣を切って逃げそうなのに。
「ど、うして、逃げなかった、の?」
気遣うように小声で話す。すると、ユキコの後ろで床に膝をつく西陣は少し困ったような顔をした。
「逃げたいのはやまやまだったけど、玄関が開かなかったのよ」
「え、私達が入ってきたときは開いてたのに? 誰かが後から来て、閉めたって事?」
「判らない。でも学校の玄関扉は内側から開けられるはずなのに、鍵を外しても開けられなかったのよ。もしかしたら『とりかえさん』の仕業かも」
「……アレはそんな事もできるの? どうしよう……」
実質学校に閉じ込められてしまったということか。自分もまた玄関口から逃げようと思っていただけに、へなへなと床に座り込んでしまう。
だが、玄関から出られなかったと西陣は言うが、それなら他の女子生徒はどうしたのだろう。
「西陣、さん。あの、他の人達は?」
オドオドと問いかけるユキコに、西陣は軽く目を伏せる。
「窓から逃げていったわ」
「窓! そういえば窓があったじゃない。そこから逃げたらいいのよ」
希望を見出し、再び立ち上がる。しかし西陣はそこから動こうとしない。どうしたのだろうと首をかしげると、彼女は少しばつの悪い顔をした。
「……私、足を怪我していて、うまく足が上がらないの。窓を越えることができないのよ」
「そ、そうなんだ。知らなかったよ……」
西陣が怪我をしていたなんて初耳だ。彼女は一言もそんな事を言わなかったのに、どこでそんな怪我をしたのだろう。
だが、西陣の事情はどうあれユキコ自身は五体満足である。幸いここは一階であるし、窓の高さはそれなりにあるが、乗り越えられない高さではない。
ふと、西陣を置いていくという選択肢が頭によぎった。
ユキコは酷く冷たい顔をして、彼女を見下ろす。西陣はユキコから目をそらしたまま、どこか遠くを見つめていた。
――こんな女、一人にしてもいいのではないか。
あのミイラ女に取り付かれて『とりかえっこ』をされても別に良心は痛まないのではないか。
だって、こいつは――。
ぎゅ、と拳を握る。こんなにも心が望んでいるのに、それでも、どうしてもユキコは西陣を見捨てて窓から逃げるという選択肢を取ることができなかった。
「他に、出口を探そう。出入り口は、玄関口だけじゃないはずだよ」
どうしてこんな提案をしているんだ。
さっさと西陣なんて置いて、そこの窓から逃げればいいのに。
西陣は迷い子のような顔をして、ユキコを見上げる。まるで救いを求める、その瞳。
――そんな顔をしないでよ。こんな時に限って。なんてムシの良い女――。
つい苛々としてしまうが、そんな彼女を見捨てられないのがユキコという人間である。仕方ない、と自分に言い訳してユキコは辺りを見渡した。
どうやら自分が入り込んだ教室は保健室らしい。ツンとしたアルコールの香り。暗闇に浮かぶベッドと薬品の並んだ棚。
一応薬品棚に近づき扉を開こうとするが、当然のように施錠されていた。ここぞという時の対処として何か便利な薬品でも手に入れられたらと思ったが、そう簡単にはいかないようだ。
「『とりかえさん』は、この校舎から自発的に出ることができないの。だから、ここさえ出れば助かるわ」
ぽつりと西陣が話す。薬品棚を背に、ユキコは振り返った。
「詳しい、んだね。西陣さん。なんか、意外かも。この怪談話を持ってきたのは、別の人で……。西陣さんはただ、肝試しがしたいだけって感じがしてたのに」
「この中学校では有名な話でしょ。『とりかえさん』がここを出られないのは、自分で扉を開けられないから。『人でなし』に許された出口は『扉』のみ。だからアレは、この校舎をさまよい続けているの。とりかえごっこをしてくれる人を、夜な夜な探しているのよ」
「……そんな怖い存在がこの中学にいたなんて……全然、知らなかったよ」
ぞわぞわと背中が寒くなり、両腕をさする。この中学に通い続けてニ年。全くユキコの知らない事実だった。
昼にアレは出ないのだろうか。――出ていたら大騒ぎになっているだろう。恐らく、あのミイラは夜にしか出ることができないのだ。そういう存在なのだろう。
ユキコは懸命に校舎の構図を思い出す。玄関以外での出入り口。それは中庭に出る扉と、ゴミ捨て場や自転車置き場のある裏校舎へ出る扉の二つだ。
この保健室から近いのは中庭。裏校舎の扉へは、ここからだと遠回りしなければならない。
「西陣さん、中庭に出る扉に行ってみよう。あそこも内鍵だけどここから近いし、もしかしたら出られるかもしれない」
「……そうね。じゃあ、行きましょう」
ユキコの提案に対し素直に頷いた西陣が、早速保健室の扉に耳を当てる。
「今は何の音もしない。近くにいないみたいだわ」
「本当? よかった……」
「私が先に出るから、ユキコは私の後ろを注意していてね。あいつ、どこから出てくるかわからないから」
「う、うん」
こくりと頷き、おずおずと西陣に近寄る。怯えたようなユキコの視線に、西陣は元気付けるような視線を向けて大きく頷いた。
「ふたりで、逃げよう」
その言葉に大きな違和感を感じる。
いや、その前からおかしかった。西陣は、こんな風にユキコに話しただろうか? ユキコに足を怪我しただのと、自らの弱味を晒すような女だっただろうか。
しかしその疑問を深く考える間もなく、西陣はカラリと保健室の扉を開いてしまう。慌ててユキコも西陣の後に続き、彼女の言う通り背後に視線を向けた。
――ぽっかりと黒い口をあけるような廊下の先。そこには何もいない。
「だいじょうぶ、みたい」
「うん、行こう」
西陣がそっとユキコの手を繋いできた。その仕草にまたしてもユキコは驚いてしまう。だが、この恐怖の校舎の中、誰かと手を繋ぐのはとても心が安らぐものだという事に、改めて気がついた。
ぎゅっとユキコも西陣の手を強く握り返すと、そろりそろりと彼女が歩き出す。一歩一歩、辺りを確かめるように視線をめぐらせながら、二人暗い廊下を歩いて行く。
普段、日が昇っている時の校舎は何とも思わなかったのに、どうして夜中の校舎はこんなにも、全てが遠く感じるのだろう。保健室から中庭まで普通に歩けば五分もかからない。なのに、ユキコには一歩一歩が一時間にも二時間にも思えた。
もうすぐ、玄関口にさしかかる。そこから廊下を直角に曲がり、まっすぐ行けば中庭だ。
しかしその時、かさりと枯れ葉を踏んだような音が、すぐ近くで聞こえた。
とりかえてぇー…とりかえてぇ……
バッと二人で声の方向へ振り返る。果たしてそこには、あのミイラがいた。玄関口で待ち構えていたのだ。
ユキコや西陣が着るものと同じ、半袖のセーラー服にスカートという中学校の制服。髪は長く、緞帳のように顔に垂れ下がっていて、その表情は見えない。だが、半袖やスカートから伸びる手足はやはり枯れ木のような茶色で、所々に白い骨が見え隠れしている。
かさり。
ミイラ女が一歩前に進んできた。はじかれたように、ユキコと西陣は手を繋いだまま中庭の扉に向かって走り出す。
ここから出れば。出さえすれば。
ユキコの思う事はそれだけだ。とにかく校舎を出たらいい。
走ればあっという間に目当ての扉へたどり着いた。内鍵がかかっていて、ユキコはすばやく鍵のツマミを回す。
――しかし、彼女の期待とは裏腹に、扉はどんなに力を入れても開かなかった。まるで扉の外側に錘が置かれているのかのように、びくともしない。
かさ、かさ、かさ。
黒い廊下、アレが近づいてくる。枯れ草が舞うような音を立て、ミイラがやってくる。
「どうしよう、開かない。ねえユキコ、どうしよう」
「私に言われても! でも、ここが開かないなら裏校舎の扉しかないよ。そこに行くしかない!」
だが廊下は袋小路だ。前方は開かない扉、後方はミイラ。勿論窓があるわけでもなく、白い壁がまっすぐに伸びているのみ。
「何とかしてアレをやり過ごすしか無いよ」
「そうだね。力はそんなになさそうだったから、きっと、大丈夫」
二人、目を合わせて頷く。
殆ど同時に廊下の床を蹴った。ふらふらと近づいてくる女のミイラに向かって走り、すれ違って逃げようとする。
だが、ぐいいとユキコの足が宙を掻いた。頭の辺りに鋭い痛みが走る。思わず頭を抑えると、ミイラ女がユキコの髪を掴んでいた。
「と、り、か、え、て」
「イヤァア!」
叫び、頭を抑えながら必死に逃げようともがく。西陣はユキコの手を握ったまま、懸命にミイラ女の枯れ木のような腕を取り払おうと、腕を振ってミイラを叩いていた。
痛い、痛い。髪を引っ張るミイラの手は、しわがれているくせに酷く強い。
しかしそんなユキコに、信じられない事態が起こった。
ぞわりと体中から冷や汗が吹き出る。がたがたと震える体。頭の中が、冷水をかけられたみたいにサァッと冷たくなっていく。
ざわざわ、ざわざわ。
不快な耳鳴り。まるで脳みそを手で掻き混ぜられているように、頭の中が気持ち悪くなる。
――まさかこれが、『とりかえごっこ』?
「やだ、やだぁあ! とりかえごっこなんてしない。離して、離してェー!」
痛覚が頭皮を直撃するが、そんな事よりこのままだと『とりかえごっこ』をされてしまうという恐怖が勝ち、ユキコは思い切り体を前のめりにさせた。
ブチブチブチ、とイヤな音がする。ユキコの髪が一部分千切れたのだ。はらりと落ちた黒髪を数本掴んだまま、ミイラ女はすぐさまユキコの腕を掴もうとする。それを足で跳ね除け、西陣と共に走った。何故か校舎にある内鍵の扉は開かない。だが、確か裏校舎に続く扉は外鍵だったはずだ。しかし恐らくそこも、外から施錠されているだろう。
ユキコは走りながら考える。足を怪我した西陣を連れて、どうやって扉から出るか。考えることはそれだけだった。
かさ、かさ、かさ、かさ。
後ろから彼女達を追うように聞こえる枯れ草の音は途切れない。間違いなく追いかけているのだろう。時間の猶予はない。恐らくミイラ女と接触すると、途端に『とりかえごっこ』をされてしまう。
「西陣さん、聞いてくれる?」
ばたばたと上靴の音を立てて走りながら、隣を走る彼女に声をかける。
「私、あなたのこと、すごく嫌いだった。だけど、今は私を信じて。絶対にここから出してあげる」
どうしてこんなにも必死に西陣を助けようとしているのか自分でも判らない。それでも、ここで西陣を見捨てたら、自分は一生後悔するような気がした。
思いを込めて彼女を見つめると、西陣は走りながら大きく頷く。
「うん。今まで、ごめんね」
「……いいのよ」
こんな風に彼女を許す日が来るなんて思ってもみなかった。まだ心の底から彼女を許したわけではなく、確実にしこりは残っているが、全てはここを無事に出てから考えよう。
玄関口を曲がり、保健室のある廊下を走り去り、さらに角を曲がる。
一年生の教室が並ぶ廊下を止まる事無く走り、互いに息を切らせ、背中に流れる汗は滝のようだった。
見えてくる、裏校舎へ繋がる黒い扉。そこでようやく二人は足を止め、すかさずユキコはすぐ傍の教室の扉をがらりと開けた。
「西陣さん、ここで待ってて。扉を外から開けてくる!」
そう、ユキコは窓から外に出られるのだ。迷うことなく教室の中を走り、鍵を下ろして窓を開ける。
ふわりと頬をなでる、涼やかな外の風。思わず心が安堵するが、まだ終わりではない。
ユキコは高さのある窓に足をかけ、えいと気合を入れて地面に降り立った。そして急いで裏校舎の扉に回り、案の定施錠されていた鉄のカンヌキを思い切り引き抜く。
ガチャリと、勢いよく扉を開いた。
――途端。
「キャアアアッ!」
目の前に襲ってきたのはしわがれたミイラ。緞帳のように隠されていた髪が開かれ、その醜い顔が露になっている。
老人、老婆――などと、人間に例えるのも恐ろしい。体中の水分が全て抜き取られたような、ひからびた顔は腕や足と同じ、古い木片のような茶色をしていて。
瞳のあるべき場所はまっくろに窪み、鼻はそぎ切られたかのように平らだった。
口だけがやたらと大きく、今まさにユキコに噛み付かんと黄色の歯を光らせ、真っ赤な口腔を見せている。
思わずユキコは目を瞑り、腕で顔をかばった。そこに「ぎゃああ!」と枯れ声の悲鳴が聞こえる。
「ユキコ! 早く扉を閉めて!」
西陣の声だ。ユキコは無我夢中で鉄の扉を閉める。やたらと重苦しい音を立てて扉は閉められ、ガチャリとカンヌキを締めた。
かりかり、かりかり。
内側から扉を掻く音が僅かに聞こえる。
とりかえて……とりかえて……
悲痛な声。扉から目を背け、耳を塞ぐ。
くい、とユキコの腕が握られた。隣には西陣がいて、「行こう」と、校門の先を視線で示す。
とりかえて……ユキコ、とりかえてよぉ……
まるで懇願するような声を背に、二人はようやく校門を潜り、外へと出た。
――数日が経ち、ようやくユキコは恐々と学校に登校する事が無くなった。
どうやらあのミイラは太陽の昇っている時間は出ないものらしい。変わらない日常。変わらない生徒達。皆、夜にこの中学校で何が起こっているか知らないまま、のんびりと学校生活を送っている。
否、もしかしたら、自分達のように好奇心から夜の校舎に入って酷い目に遭わされた生徒もいるかもしれない。そこから『とりかえごっこ』の怪談が広まった可能性もある。
だが、ユキコ自身は自分の実体験を言いふらす気にはならなかった。
自分と一緒に校舎に入った女子生徒達。窓から逃げた生徒二人は武勇伝のように、早速次の日からこの校舎で起きた事をクラスで話していた。しかしあの二人はいつも適当な事ばかりを口にし、話も誇大して言うところがあるから、誰も本気に取らないだろう。
あの恐怖体験から数日。ユキコの周りは穏やかな日々に包まれている。自分の周りで何かが起きるわけでもなく、平和的な日常風景に溶け込むユキコの姿。
しかし彼女は一つだけ、どうしても気になる事があった。
それは、西陣の存在だ。
あの日から西陣とユキコはとても仲の良い友達になった。面倒見が良くて世話を焼くのが好きな西陣と、引っ込み思案だけど心優しいユキコ。周りのクラスメートやグループだった女子生徒達は少し驚いていたけれど、あの肝試しの日に仲良くなった話をすると皆納得して、それぞれの日常へと戻って行った。
違和感はある。
西陣はこんなにも優しくなかった。謝罪の言葉など知らなかった。自分のやる事は全て正しいと信じ、思い込みの激しい、癇癪持ちで。
親が教育関係の偉い人らしく、学校側も強く言えなくて、好き放題していた。
それなのに今は、気が強い所は相変わらずだがとても穏やかな人間になっている。気さくで優しく、大人しいユキコの手を掴み、ぐいぐいと明るく楽しいところへつれて行ってくれる。
遊びに出かけたり、本の貸し合いをしたり。
違和感はある。
そして、「もしかして」という予測がある。
だが、それが何だというのだ。ユキコはわざわざ西陣に問い質そうなどは思わない。
何故なら今、彼女の学校生活はとても充実しているのだ。毎日が楽しくて、明日が待ち遠しい。学校に登校して、はやく皆とおしゃべりがしたい。
ここにはもう、いないのだ。
ユキコを虐める、暴君だった女は。
夜の校舎。ひとつの教室で、女のすすり泣きがする。まるで薄く開けた窓からのすきま風のように、ヒィィ、ヒィィ、と、ひきつるような声がする。
とりかえてー…とりかえてー…。
囁くような、懇願のその声は。
恐らくはユキコの知る、身近な人物の声に似ているのだろう。
だが、今は誰も聞く者はいない。心の中の慟哭を吐き出すように、ただその声は「とりかえて」と呟き続ける。
――次の犠牲者を、今か今かと待ちわびながら。