奴隷と私と、名前のない朝
奴隷を買った。
そう言うと、私はひどい人間に聞こえるだろう。
実際、ひどい人間なのかもしれない。
市場の端で、彼女は売られていた。
痩せていて、汚れていて、首には鉄の輪があった。
値札には年齢も名前もなく、ただ「従順」とだけ書かれていた。
それを見たとき、私は怒ったのではない。
悲しんだのでもない。
助けたいと強く思ったわけでもない。
ただ、吐き気がした。
人間に値段がついていることよりも、
その値段を見て、私が一瞬だけ「安い」と思ってしまったことに。
だから私は彼女を買った。
善意ではない。
正義でもない。
私はただ、その場から逃げたかった。
彼女を連れて逃げれば、少なくとも自分の中の気持ち悪さからは逃げられると思った。
宿の部屋に戻るまで、彼女は一言も話さなかった。
歩けと言えば歩き、止まれと言えば止まる。
扉の前では、私が言う前に膝をついた。
「入れ」
そう言うと、彼女は音を立てずに部屋へ入った。
そして壁際に立ったまま、視線を床に落とした。
私は机の上に買ってきたパンを置いた。
「食べろ」
彼女は動かなかった。
聞こえなかったのかと思って、私はもう一度言った。
「食べろ」
彼女はわずかに肩を震わせた。
それでも動かなかった。
「どうした」
問いかけると、彼女は初めて口を開いた。
「許可を」
「今した」
「食べる許可ではなく」
彼女はそこで言葉を切った。
怒られると思ったのか、唇を固く閉じる。
私は少し待った。
「続けろ」
彼女は小さく息を吸った。
「手を、伸ばす許可を」
私はそのとき、ようやく理解した。
彼女は命令されないと食べられないのではない。
命令されないと、食べ物に手を伸ばすことすらできないのだ。
私はパンを見た。
ただの硬いパンだった。
昨日の売れ残りで、少し安くなっていたものだ。
それが彼女には、世界の外にあるもののように見えている。
「手を伸ばせ」
彼女は手を伸ばした。
「持て」
彼女はパンを持った。
「食べろ」
彼女は食べた。
小さく、小さく噛んだ。
味わっているのではなく、失敗しないように噛んでいるようだった。
私は椅子に座り、彼女を見ていた。
こんなことをさせるために買ったのではない。
そう思った。
だが、では何のために買ったのかと聞かれれば、答えられなかった。
首輪を外せばいい。
解放して、好きなところへ行けと言えばいい。
それで終わる。
きっと、とても美しい話になる。
奴隷を買った悪人が、気まぐれに善行をした話。
彼女は自由になり、私は少しだけ自分を許せる。
だが、それは嘘だと思った。
この少女は、自由と言われた瞬間に道端で立ち尽くす。
好きにしろと言われて、何もできなくなる。
命令のない世界に、放り出される。
首輪は首についている。
けれど、それだけではない。
私は立ち上がった。
彼女はすぐに食べる手を止めた。
「続けて食べろ」
彼女はまた食べた。
私は近くの道具箱から小さな金槌を取り出した。
首輪を外すには、本当は鍵が必要だった。
鍵は市場の男から受け取っていた。
だが、鍵で外すのは気に入らなかった。
まるで所有権を正しく移したあと、正しく解除するみたいだったから。
「動くな」
彼女は動かなかった。
私は首輪の留め具に金槌を当てた。
一度目は失敗した。
金属が鈍い音を立て、彼女の肩がびくりと揺れた。
「痛いか」
彼女は首を横に振った。
「嘘をつくな」
彼女は固まった。
私はため息をついた。
「今のは命令じゃない。質問だ」
彼女はしばらく黙っていた。
それから、ほとんど聞こえない声で言った。
「少し、怖いです」
「そうか」
私は金槌を下ろした。
「怖いなら、やめる」
彼女は初めて顔を上げた。
光の薄い目だった。
泣いているわけではない。
けれど、泣くという行為をどこかに置いてきたような目だった。
「命令してください」
「何を」
「外せと」
私は答えなかった。
彼女はまた床を見た。
「命令なら、できます」
その言葉は、部屋の中でしばらく消えなかった。
私は椅子に戻り、金槌を机に置いた。
パンの欠片が床に落ちていた。
彼女はそれを見ていたが、拾っていいか分からないようだった。
私は言った。
「命令だ」
彼女の背筋が伸びた。
「私の命令を待つな」
彼女は瞬きをした。
意味が分からない、という顔だった。
当然だ。
私にも、少し分からなかった。
「腹が減ったら食べろ。眠ければ眠れ。痛ければ痛いと言え。怖ければ怖いと言え。私の顔色を見るな。私の許可を待つな」
彼女はパンを持ったまま、動かなかった。
「それが命令ですか」
「そうだ」
「では、命令を待たないことを、命令として待ちます」
私は頭を抱えた。
まったく、救いというものは扱いにくい。
与える側が少し良いことを言ったくらいで、簡単に形になってくれない。
私は笑ってしまった。
彼女は怯えた。
「すまない。お前を笑ったんじゃない」
「では、何を」
「私の愚かさを」
彼女は不思議そうに私を見た。
私は金槌ではなく、鍵を取った。
結局、道具にこだわっている場合ではなかった。
首輪はまず、外すべきだった。
鍵を差し込む。
少し錆びていたが、回った。
かちり、と小さな音がした。
首輪が外れた。
彼女は動かなかった。
外れた首輪が床に落ちても、まだ首に何かがあるように顎を引いていた。
私は首輪を拾い、窓辺に置いた。
朝の光が鉄を白く照らした。
「自由だ」
彼女は動かなかった。
私は、自分がひどく遠い言葉を使ったのだと知った。
だから私は言い直した。
「いや。違うな」
彼女がこちらを見る。
「今日のところは、パンを食べるだけでいい」
彼女は小さくうなずいた。
それから、ほんの少しだけ、自分の手でパンを口に運んだ。
私が命じるより先に。
たったそれだけのことだった。
世界は変わらない。
奴隷市場は明日も開く。
人間に値段はつき続ける。
私は善人になったわけでもない。
彼女が救われたわけでもない。
それでも、その朝、彼女は自分でパンを食べた。
それはたぶん、首輪が外れることよりもずっと難しいことだった。
食べ終えると、彼女は両手を膝の上に置いた。
「ご主人様」
私は顔をしかめた。
彼女は少し迷ってから、言い直した。
「あなたは」
そこで止まる。
「私の名前を知らないだろう」
彼女はうなずいた。
「私も、お前の名前を知らない」
「名前は、ありません」
「ないのか」
「売られてからは」
私は窓辺の首輪を見た。
そこには数字が刻まれていた。
たぶん、彼女はそれで呼ばれていたのだろう。
「なら、思い出したら教えろ」
「思い出せなかったら」
「作ればいい」
彼女は目を丸くした。
「名前を、作るのですか」
「パンを食べるよりは難しくない」
彼女は少しだけ考えた。
本当に少しだけ。
そして、初めて眉を下げた。
笑ったのかと思った。
けれど、たぶん違う。
笑い方もまだ、思い出している途中なのだ。
「では」
彼女は窓の外を見た。
朝が来ていた。
名前のない、ただの朝だった。
「あなたの名前を、先に呼んでもいいですか」
私は答えようとして、やめた。
命令することではなかった。
許可することでもなかった。
だから、ただ待った。
彼女は長い時間をかけて、私の名を呼んだ。
それは少し震えていて、ぎこちなくて、まるで初めて水に触れた鳥のようだった。
けれど確かに、命令ではなかった。
私はその朝、奴隷を失った。
そしてまだ名前のない誰かと、同じ部屋にいた。




