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奴隷と私と、名前のない朝

作者: 朝日
掲載日:2026/06/21

奴隷を買った。


そう言うと、私はひどい人間に聞こえるだろう。

実際、ひどい人間なのかもしれない。


市場の端で、彼女は売られていた。

痩せていて、汚れていて、首には鉄の輪があった。

値札には年齢も名前もなく、ただ「従順」とだけ書かれていた。


それを見たとき、私は怒ったのではない。

悲しんだのでもない。

助けたいと強く思ったわけでもない。


ただ、吐き気がした。


人間に値段がついていることよりも、

その値段を見て、私が一瞬だけ「安い」と思ってしまったことに。


だから私は彼女を買った。


善意ではない。

正義でもない。

私はただ、その場から逃げたかった。

彼女を連れて逃げれば、少なくとも自分の中の気持ち悪さからは逃げられると思った。


宿の部屋に戻るまで、彼女は一言も話さなかった。


歩けと言えば歩き、止まれと言えば止まる。

扉の前では、私が言う前に膝をついた。


「入れ」


そう言うと、彼女は音を立てずに部屋へ入った。

そして壁際に立ったまま、視線を床に落とした。


私は机の上に買ってきたパンを置いた。


「食べろ」


彼女は動かなかった。


聞こえなかったのかと思って、私はもう一度言った。


「食べろ」


彼女はわずかに肩を震わせた。

それでも動かなかった。


「どうした」


問いかけると、彼女は初めて口を開いた。


「許可を」


「今した」


「食べる許可ではなく」


彼女はそこで言葉を切った。

怒られると思ったのか、唇を固く閉じる。


私は少し待った。


「続けろ」


彼女は小さく息を吸った。


「手を、伸ばす許可を」


私はそのとき、ようやく理解した。


彼女は命令されないと食べられないのではない。

命令されないと、食べ物に手を伸ばすことすらできないのだ。


私はパンを見た。

ただの硬いパンだった。

昨日の売れ残りで、少し安くなっていたものだ。


それが彼女には、世界の外にあるもののように見えている。


「手を伸ばせ」


彼女は手を伸ばした。


「持て」


彼女はパンを持った。


「食べろ」


彼女は食べた。


小さく、小さく噛んだ。

味わっているのではなく、失敗しないように噛んでいるようだった。


私は椅子に座り、彼女を見ていた。


こんなことをさせるために買ったのではない。

そう思った。


だが、では何のために買ったのかと聞かれれば、答えられなかった。


首輪を外せばいい。

解放して、好きなところへ行けと言えばいい。


それで終わる。


きっと、とても美しい話になる。

奴隷を買った悪人が、気まぐれに善行をした話。

彼女は自由になり、私は少しだけ自分を許せる。


だが、それは嘘だと思った。


この少女は、自由と言われた瞬間に道端で立ち尽くす。

好きにしろと言われて、何もできなくなる。

命令のない世界に、放り出される。


首輪は首についている。

けれど、それだけではない。


私は立ち上がった。


彼女はすぐに食べる手を止めた。


「続けて食べろ」


彼女はまた食べた。


私は近くの道具箱から小さな金槌を取り出した。

首輪を外すには、本当は鍵が必要だった。

鍵は市場の男から受け取っていた。

だが、鍵で外すのは気に入らなかった。


まるで所有権を正しく移したあと、正しく解除するみたいだったから。


「動くな」


彼女は動かなかった。


私は首輪の留め具に金槌を当てた。

一度目は失敗した。

金属が鈍い音を立て、彼女の肩がびくりと揺れた。


「痛いか」


彼女は首を横に振った。


「嘘をつくな」


彼女は固まった。


私はため息をついた。


「今のは命令じゃない。質問だ」


彼女はしばらく黙っていた。

それから、ほとんど聞こえない声で言った。


「少し、怖いです」


「そうか」


私は金槌を下ろした。


「怖いなら、やめる」


彼女は初めて顔を上げた。


光の薄い目だった。

泣いているわけではない。

けれど、泣くという行為をどこかに置いてきたような目だった。


「命令してください」


「何を」


「外せと」


私は答えなかった。


彼女はまた床を見た。


「命令なら、できます」


その言葉は、部屋の中でしばらく消えなかった。


私は椅子に戻り、金槌を机に置いた。

パンの欠片が床に落ちていた。

彼女はそれを見ていたが、拾っていいか分からないようだった。


私は言った。


「命令だ」


彼女の背筋が伸びた。


「私の命令を待つな」


彼女は瞬きをした。


意味が分からない、という顔だった。

当然だ。

私にも、少し分からなかった。


「腹が減ったら食べろ。眠ければ眠れ。痛ければ痛いと言え。怖ければ怖いと言え。私の顔色を見るな。私の許可を待つな」


彼女はパンを持ったまま、動かなかった。


「それが命令ですか」


「そうだ」


「では、命令を待たないことを、命令として待ちます」


私は頭を抱えた。


まったく、救いというものは扱いにくい。

与える側が少し良いことを言ったくらいで、簡単に形になってくれない。


私は笑ってしまった。


彼女は怯えた。


「すまない。お前を笑ったんじゃない」


「では、何を」


「私の愚かさを」


彼女は不思議そうに私を見た。


私は金槌ではなく、鍵を取った。


結局、道具にこだわっている場合ではなかった。

首輪はまず、外すべきだった。


鍵を差し込む。

少し錆びていたが、回った。


かちり、と小さな音がした。


首輪が外れた。


彼女は動かなかった。

外れた首輪が床に落ちても、まだ首に何かがあるように顎を引いていた。


私は首輪を拾い、窓辺に置いた。

朝の光が鉄を白く照らした。


「自由だ」


彼女は動かなかった。


私は、自分がひどく遠い言葉を使ったのだと知った。


だから私は言い直した。


「いや。違うな」


彼女がこちらを見る。


「今日のところは、パンを食べるだけでいい」


彼女は小さくうなずいた。


それから、ほんの少しだけ、自分の手でパンを口に運んだ。

私が命じるより先に。


たったそれだけのことだった。


世界は変わらない。

奴隷市場は明日も開く。

人間に値段はつき続ける。

私は善人になったわけでもない。

彼女が救われたわけでもない。


それでも、その朝、彼女は自分でパンを食べた。


それはたぶん、首輪が外れることよりもずっと難しいことだった。


食べ終えると、彼女は両手を膝の上に置いた。


「ご主人様」


私は顔をしかめた。


彼女は少し迷ってから、言い直した。


「あなたは」


そこで止まる。


「私の名前を知らないだろう」


彼女はうなずいた。


「私も、お前の名前を知らない」


「名前は、ありません」


「ないのか」


「売られてからは」


私は窓辺の首輪を見た。

そこには数字が刻まれていた。

たぶん、彼女はそれで呼ばれていたのだろう。


「なら、思い出したら教えろ」


「思い出せなかったら」


「作ればいい」


彼女は目を丸くした。


「名前を、作るのですか」


「パンを食べるよりは難しくない」


彼女は少しだけ考えた。

本当に少しだけ。


そして、初めて眉を下げた。


笑ったのかと思った。

けれど、たぶん違う。

笑い方もまだ、思い出している途中なのだ。


「では」


彼女は窓の外を見た。


朝が来ていた。

名前のない、ただの朝だった。


「あなたの名前を、先に呼んでもいいですか」


私は答えようとして、やめた。


命令することではなかった。


許可することでもなかった。


だから、ただ待った。


彼女は長い時間をかけて、私の名を呼んだ。


それは少し震えていて、ぎこちなくて、まるで初めて水に触れた鳥のようだった。


けれど確かに、命令ではなかった。


私はその朝、奴隷を失った。


そしてまだ名前のない誰かと、同じ部屋にいた。

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