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黒薔薇は静かに嗤う

作者: 秋月アムリ
掲載日:2026/02/23

 冷たい雨が肌を刺す感覚を今でも覚えている。


 重い鉄の扉が開き、私は薄暗い地下牢から引きずり出された。

 手首に食い込む縄の痛みよりも胸の奥の喪失感の方がずっと強かった。


 視界は土砂降りの雨で白く霞んでいる。

 広場に集まった民衆の罵声が遠くの雷鳴のように響いていた。


 彼らにとって私は国を売った大罪人だ。

 王家の機密を隣国へ売り渡した卑劣な裏切り者。それが私に与えられた最後の称号だった。


(すべてはあの方のため……)


 私は冷たい石畳の上に引き据えられながらも祈っていた。

 私の死によってあの方が救われるのだと信じて疑わなかった。


 首筋に冷たい刃があてがわれる。

 死の恐怖よりもあの方の安らぎを守れたという自己満足が勝っていた。


 しかし執行の直前、一人の男が近づいてきた。王女派閥の者としてよく見知った顔だった。

 彼は私の耳元に唇を寄せた。そしてひどく冷酷な声で囁いたのだ。


「ご苦労だったね、愚かな身代わり人形。殿下は最初から君を切り捨てるつもりだったのさ」


 心臓が凍りつくような感覚だった。何を言われているのか瞬時には理解できなかった。


 男は嘲るように口の端を歪める。彼は私が国を売ったという決定的な偽造証拠を作った張本人だ。

 すべては彼女の指示だったと男は告げた。私は目を見開き、去っていく男の後頭部をただ見つめた。


 振り上げられた刃の鈍い光が視界の端によぎる。

 その瞬間、私のすべては崩れ去ったのだ。


 ――あの日の記憶はそこで途切れている。

 次に目を覚ました時、私は見知らぬ天井を見上げていた。


 生きているはずがないのに肺は微かに空気を吸い込んでいる。

 焼けるような痛みが首筋に走った。

 私は包帯に巻かれた自分の首にゆっくりと触れた。

 奇跡的に急所を外れたのか、あるいは誰かの手引きがあったのか。


 暗い部屋の隅から低く落ち着いた声が響いた。


「目覚めたか、元・筆頭侍女殿」


 声の主は闇の中から姿を現した。

 銀色の髪と鋭い蒼の瞳を持つ青年。


 私はその顔をよく知っていた。

 我が国の第二王子、ルシアン殿下だ。


 彼は第一王女であるセレスティアと激しく対立する派閥の長だった。

 私は声を出そうとしたが、喉が焼け付くように痛む。

 ルシアン殿下は私を見下ろし、淡々と事実を告げた。


「処刑人に手回しをしておいた。お前は死んだことになっている」

「どう、やって……」


 なんとか絞り出した声に、彼は鼻を鳴らす。


「掲げられた首は別人のものだ。これ以上詳しい説明が必要か?」


 なぜ助けたのかと問う代わりに私は彼を睨みつけた。

 彼は微かに口角を上げ、手の中にある書類を私に投げ渡した。


 それはセレスティアが外国の特使と交わした密約の写しだった。

 彼女が本当に国を売ろうとしている証拠。

 私が被らされた罪は、彼女自身のものだったのだ。


「姉上を止めるためには、内部の事情に精通した駒が必要だ。お前なら適任だろう?」


 彼の言葉は、私の胸の奥にある黒い炎に油を注いだ。

 あの日のセレスティアの涙が脳裏に蘇る。


『あなたしか頼れないの。お願い、私を助けて……』


 私の手を両手で包み込み、ボロボロと涙をこぼした美しい顔。

 私は幼い頃から彼女に仕えてきた。


 彼女は私を姉のように慕い、私は彼女を本当の妹のように愛していた。

 二人で秘密のお茶会を開き、未来の夢を語り合った夜もあった。


 すべては幻だったのだ。

 彼女にとって私は都合のいい手駒に過ぎなかった。

 最初から切り捨てるつもりで私に罪をなすりつけた。


 信じていた分だけ、反転した絶望と自己嫌悪は計り知れない。

 己の愚かさを呪い、彼女の冷酷さに身震いした。


 私はベッドから身を起こし、床に跪いた。

 かすれた声でルシアン殿下に告げる。


「私の命、殿下に、捧げます。あの女を、引きずり下ろす、そのために」


 それが私の新しい人生の始まりだった。



 *



 それから半年という月日が流れた。

 現在の私は「アイリス」という名の末端メイドだ。


 髪の色を黒く染め、特殊な薬で目の色も平凡な茶色に変えている。

 声帯の傷のせいで声は低くかすれ、以前の面影はない。


 粗末な綿のドレスを身にまとい、私は後宮の長い廊下を歩いていた。

 手には洗い物を入れた重い籠を提げている。

 ここはかつて私がすべてを仕切っていた場所だ。


 筆頭侍女として誇りを持って歩いていたこの同じ大理石の床。

 今は誰の目にも留まらない透明な存在として床を磨いている。


「アイリス、そこが終わったら西の塔へ行ってちょうだい」


 先輩メイドの甲高い声が廊下に響く。

 私は深く頭を下げ、承知いたしましたとだけ答えた。


 末端の仕事は過酷で誰もが疲弊している。

 しかし、私にとっては都合が良かった。

 誰の注目も浴びずに宮廷内の隅々まで立ち入ることができるからだ。


 西の塔はセレスティアの私室がある本宮とは少し離れている。

 しかし外国からの客人をもてなす際にはよく使われる場所だった。


 私は掃除用具を手に西の塔へと向かった。

 窓の外には見事な薔薇園が広がっている。

 セレスティアが愛してやまない真紅の薔薇たち。

 かつての私は、彼女のために毎朝、一番美しい薔薇を選んで花瓶に生けていた。


(なんて滑稽だったのかしら)


 私は心の中で冷たく毒づきながら窓枠を拭いた。


 王女の私室の清掃には選ばれた侍女しか入れない。

 しかし周辺の廊下や客室の様子を見るだけでも得られる情報は多い。


 私はルシアン殿下の密偵として、後宮の動向を探っていた。

 セレスティアは私の死を確信しているはずだ。


 それでも彼女の用心深さは異常だった。

 新しい筆頭侍女を未だに置かず、重要な仕事はすべて自分で管理しているという。

 私という防波堤を失った彼女は神経質になっているようだ。


 ふと、廊下の奥から足音が聞こえてきた。

 私は作業に没頭しているふりをして気配を殺す。


 現れたのは見覚えのある少女だった。

 淡い桃色の髪を二つ結びにした、可愛らしい侍女のマリーだ。


 彼女は、私がかつて一番可愛がっていた部下だった。

 不器用だが一生懸命で、いつも私の後ろをついて回っていた。


「どうしよう、殿下のお茶の時間に遅れてしまうわ……!」


 マリーは銀の盆を抱え、半泣きで廊下を小走りに進んでいく。

 私はその姿を見て胸が痛んだ。


 私が処刑された後、彼女がどんな目に遭ったのか想像に難くない。

 私が国を売った裏切り者として「死んだ」ことで、私に近かったマリーも周囲から冷遇されているはずだ。


 それどころか、セレスティアの手元に置かれていること自体が不自然だった。

 あの女は自らが危害を受ける可能性を徹底的に排除する性格だ。

 あの日、私に切り捨てられたことを告げた男もいつの間にかいなくなっていた。真実を知るものはまとめて消されたのだろう。

 だがなぜ、マリーだけが側近のような位置に据えられているのか。


(まさか……私が生きている可能性を疑っている?)


 背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。

 セレスティアは私の遺体を直接確認していない。

 処刑後の死体処理はルシアン殿下の手の者が行ったからだ。


 あの狡猾な女のことだ。

 万が一私が生き延びていた場合の「人質」としてマリーを利用しているのかもしれない。

 私がマリーを見捨てるはずがないと知っているのだ。


 怒りで手元の雑巾を握りしめた。

 指先が白くなるほど強く、強く。


「アイリス、何をしているの。手が止まっているわよ」


 巡回してきたメイド長に叱責され、私は慌てて頭を下げた。


 感情を表に出してはいけない。今の私はただの下働きだ。

 かつての優しさや情熱はすべてあの雨の日の処刑台に捨ててきた。

 胸の中にあるのは氷のように冷たい憎悪だけ。


 私は再び無表情なメイドの仮面を被り、黙々と大理石の床を磨き始めた。



 その夜、私は深夜の王宮を抜け出し、旧書庫へと向かった。

 ここはルシアン殿下との秘密の連絡場所だ。


 重い木の扉を押し開けると、カビの匂いと古い羊皮紙の香りが鼻をつく。

 月明かりだけが差し込む暗い部屋の中央に彼の姿はあった。


「遅かったな、アイリス(・・・・)


 ルシアン殿下は私に新しい名を呼ぶ。

 その響きにはまだ慣れないが、私は無言で一礼した。


 彼は机の上に一枚の紙片を滑らせた。

 私はそれを手に取り、薄暗い光の中で文字を追う。


「隣国の特使が来週、極秘裏に入国する。名目は茶会だ」


 殿下の声は低く緊張を孕んでいた。

 私は紙片から顔を上げ、彼の蒼い瞳を見つめ返した。


「茶会……。西の塔の庭園ですね」


 私は昼間の清掃で得た情報を照らし合わせる。

 西の塔の客室は念入りに整えられていた。そして薔薇園は今が一番美しい時期だ。

 セレスティアが重要な取引にあの場所を選ぶのは明白だった。


「その通りだ。姉上はそこで、特使と最終的な密約を交わすつもりだろう」


 我が国の豊富な鉱物資源の採掘権を、不当な条件で隣国へ譲渡する。

 その見返りとして彼女は莫大な裏金と、ルシアン殿下を排除するための軍事協力を得る手はずだ。

 私が命を賭して守ろうとした王女は、国を私物化する怪物だったのだ。


「証拠を押さえる必要がありますね。決定的な瞬間を」


 私は抑揚のない声で事実だけを口にした。

 ルシアン殿下はわずかに目を細め、私を値踏みするように見た。


「お前は潜入できるか? あの女の近くに」


「……容易ではありません。今の私は末端のメイドですから」


 茶会の給仕に選ばれるのは、容姿端麗で身元の確かな上位の侍女だけだ。

 新入りの下働きがその場に近づくことすら難しい。

 しかし私には勝算があった。


「ですが、方法ならあります。彼女の『癖』を利用するのです」


 私がそう言うと殿下は興味深そうに眉を上げた。


 セレスティアには、大きな茶会や行事の前になると必ず行う儀式のようなものがある。

 自分のドレスの裾に香を焚きしめるのだ。

 それは隣国にのみ自生する珍しい花の香木で、扱いが非常に難しい。

 温度を間違えれば嫌な焦げ臭さを放ってしまう。


 かつては私だけがその香の調合と焚きしめを許されていた。

 私がいなくなった今、彼女はその作業を誰に任せているかと考えれば、自ずと答えが出る。


「マリーという、私の後輩だった娘にやらせているはずです」


 私は確信を持って言った。

 マリーは私の仕事を隣でずっと見ていた。

 完璧ではないにせよ、他の誰よりも上手くできるはずだ。


 しかしマリーは極度の緊張に弱い。

 特使を招くという重大な茶会の前で、彼女が一人で完璧に香を焚けるとは思えなかった。


「後輩を利用する気か?」


 殿下の問いに私は静かに頷いた。


 かつての私なら絶対にそんなことはしなかっただろう。

 可愛い後輩を、危険な陰謀の渦中に巻き込むなんて考えもしなかった。


 しかし今の私は復讐鬼だ。

 セレスティアを地獄へ引きずり落とすためならどんな手でも使う。

 そう決意したはずなのに、私の胸の奥が微かに痛むのを殿下は見逃さなかった。


「無理をするな。感情を殺しきれていない人間に間諜は務まらん」


 冷酷に聞こえる言葉だが、そこには彼なりの理知的な配慮があった。

 セレスティアのように私をただの道具として使い捨てる気はないのだ。


 ルシアン殿下は私という人間を観察し、適切に運用しようとしている。

 無条件に尽くす関係ではなく、目的のために協力し合う関係。

 私はその冷たいが誠実なやり方に、微かな救いを感じていた。


「……ご心配には及びません。マリーには指一本触れさせませんから」


 私は毅然として答えた。

 マリーを助け出し、同時にセレスティアの罪を暴く。

 それが私の描く完璧な復讐のシナリオだった。



 翌日から私は行動を開始した。

 茶会まで残された時間はわずか五日。


 私はメイド長に上手く取り入り、厨房の雑用係のシフトを代わってもらった。

 厨房に入れば上位の侍女たちの会話を盗み聞きすることができるからだ。

 予想通り、侍女たちは茶会の準備で殺気立っていた。


「またマリーが失敗したわ! 香木の火加減を間違えて殿下のお叱りを受けたのよ」


 洗い物をしながら耳を澄ませていると、そんな声が聞こえてきた。


 私は唇を噛みしめる。

 マリーは追い詰められている。

 セレスティアは完璧を求める女だ。

 少しでも失敗すれば容赦なく切り捨てる。

 私のように。


 その日の午後、私はわざと西の塔の裏口でゴミ捨ての作業を長引かせた。

 ほどなくして、泣きはらした目のマリーが勝手口から飛び出してきた。

 彼女は庭の隅にある古井戸の影にしゃがみ込み、声を殺して泣き始めた。


(今だわ)


 私は周囲に誰もいないことを確認し、静かに彼女に近づいた。


「どうしたのですか? そんなに泣いて」


 かすれた低い声で話しかける。

 マリーはびくっと肩を震わせて私を見上げた。

 見知らぬ下働きに声をかけられ警戒しているのがわかる。


「な、なんでもないわ。あっちへ行って……」


 強がる彼女の手に、酷い火傷の痕があるのを見逃さなかった。

 香木の扱いを間違えて火をこぼしたのだろう。


 私は胸の奥で煮えくり返るような怒りを感じた。

 あの女は、マリーに適切な治療すら受けさせていないのだ。


 私はポケットから小さな軟膏の瓶を取り出し、マリーの前に差し出した。

 これはルシアン殿下から支給された特別な傷薬だ。


「これ、火傷に効きます。……私の故郷の秘伝なんです」


 マリーは躊躇いながらも、痛みに耐えかねたのかその瓶を受け取った。

 私は彼女の隣にしゃがみ込み、ぽつりと呟くように言った。


「香木の調合なら、少しばかり知識があるんです。白檀と月下香の配分が難しいのでしょう?」


 マリーが弾かれたように顔を上げた。

 その香木の組み合わせは、セレスティアの私室でしか使われない極秘の調合だ。

 なぜ下働きがそれを知っているのかと彼女の目が問いかけている。


「昔、ある方に教わったんですよ。……とある筆頭侍女の方に」


 私は自分のことを他人のように語った。

 マリーの瞳から再び、大粒の涙が溢れ出した。


「セリア先輩……」


 私の名前を口にする、彼女の声は震えていた。

 彼女の中では私は、まだ「先輩」のままなのだ。

 その事実が、私の心を鋭くえぐる。


「先輩が、私に教えてくれたの。でも私、不器用だから……何度やっても上手くいかなくて」


 マリーは顔を覆って泣きじゃくった。

 セレスティア殿下に毎日叱られ、先輩の代わりすらできない自分を責めている。

 私は彼女の細い肩を抱きしめたくなった。

 だがぐっと堪えて、冷徹な密偵としての役割を演じ続ける。


「私に手伝わせてください。あなたが殿下の寝室に入る時、こっそり裏口の鍵を開けておいてください。私が香を焚いてみせます」


 マリーは驚いたように私を見た。

 下働きが王女の私室に入るのは重罪だ。

 見つかれば鞭打ちだけでは済まない。


「だめよ、そんなことしたらあなたが殺されてしまうわ!」


 彼女の優しい拒絶に、私は微かに微笑んだ。

 顔は別人のようでも、私の微笑みの癖は変わっていなかったのかもしれない。

 マリーは一瞬ハッとしたような顔をした。


「大丈夫。私、こう見えてすばしっこいので。それに……あなたを助けたいんです」


 私はあえて「セリア」がよく使っていた口調を真似て言った。

 マリーの瞳に迷いが揺れる。


 彼女はもう限界だった。

 このままでは茶会の日までに彼女の心が壊れてしまう。

 ついにマリーは小さく頷いた。


「わかった……。明日の夜、殿下が湯浴みをされている間に鍵を開けるわ」


 罠は仕掛けられた。

 これでセレスティアの私室に潜入する口実ができた。

 香を焚きしめるふりをして、彼女が隠している密約の原本を探し出す。

 そしてマリーをあの女の呪縛から解放するのだ。



 その夜、私は再び旧書庫でルシアン殿下と面会した。

 計画の進捗を報告すると、彼は難しい顔をして腕を組んだ。


「危険すぎる。姉上は疑り深い。私室の警備は厳重なはずだ」


「承知しています。ですが、茶会の前に証拠を押さえるにはここしかありません」


 私は引き下がらなかった。

 ルシアン殿下は深いため息をつき、私に小さなガラス瓶を手渡した。


「眠り薬だ。微量を香に混ぜろ。感覚を鈍らせるくらいの効果はある。いざという時は使え」


「……ありがとうございます」


 私はその瓶をしっかりと握りしめた。

 殿下は私の無謀な計画を止めるのではなく、成功させるための手札を与えてくれた。

 私の命を軽く見ていない証拠だった。


 私は彼に仕える喜びを少しだけ理解し始めていた。

 忠誠とは盲目的に捧げるものではなく、互いの信頼の上で成り立つものなのだと。



 あくる夜。私は闇に紛れて西の塔へと向かった。


 冷たい風が吹き抜け、薔薇の香りが微かに鼻をかすめる。心臓の鼓動が早くなるのを感じた。


 処刑台の、冷たい雨の記憶が脳裏で明滅する。

 しかし私は首を振って恐怖を振り払った。


 今の私は死から蘇った黒い薔薇だ。

 静かに、密やかに毒を撒き散らすためにここに来た。


 勝手口の扉は約束通り微かに開いていた。

 私は音を立てずに中へと滑り込む。


 豪華な調度品に囲まれた廊下を進み、セレスティアの私室の前に立つ。

 扉の隙間から微かな明かりが漏れていた。

 私はゆっくりとドアノブに手をかけた。


(待っていろ、セレスティア。あなたの化けの皮を剥がしてやる)


 氷のような憎悪が私の胸の内で静かに、確かに燃え上がっていた。


 扉を押し開けると、そこには懐かしくも忌まわしい香水の匂いが満ちていた。

 部屋の中は厚いベルベットのカーテンで完全に外界から遮断されていた。


 豪奢な天蓋付きベッドの奥から微かな水音が聞こえてくる。

 セレスティアが隣の浴室で湯浴みをしているのだ。

 マリーの言った通りだった。


 私は足音を忍ばせて毛足の長い絨毯の上を進んだ。

 目指すは部屋の奥にある、豪奢なマホガニーの執務机だ。かつて私が彼女の膨大な書類を整理し、国政の裏側を支えていた場所である。


(あの方は重要なものを隠す時、必ずダミーを用意する)


 私は彼女の思考の癖を誰よりも熟知していた。

 机の引き出しには幾重にも複雑な鍵がかけられている。


 だがそれは盗人の目を引くためのただの罠だ。

 本当に大切なものはもっと無防備な場所に置かれている。


 私は本棚へ向かい、一冊の古い詩集を手に取った。

 それは私たちが幼い頃に二人でよく読んだ異国の恋物語だった。


 表紙をめくるとページの中央が四角くくり抜かれている。そこに厳重に封印された一通の羊皮紙が隠されていた。

 蝋印には隣国の王家の紋章が刻まれている。私は震える指で封を切り、中身に目を通した。


 我が国の南部に広がる豊かな銀山の採掘権の譲渡。

 その見返りとしての莫大な支援金と、ルシアン殿下暗殺のための傭兵団の提供。

 文面にはセレスティアの美しい流麗なサインが記されていた。


(なんて恐ろしい女なの……)


 吐き気がこみ上げてきた。

 彼女は自分の私利私欲のためだけに祖国を売り飛ばそうとしている。


 私は胸に渦巻く黒い感情を無理やり押し殺した。

 懐から、あらかじめルシアン殿下が用意していた精巧な偽の書類を取り出す。


 文面はほぼ同じだが肝心な条件の数字が改ざんされている代物だ。

 私は本物の密約書をドレスの胸元に隠し、偽物を詩集の中に戻した。


 その時だ。

 浴室の扉が微かに開き、細い影が部屋に滑り込んできた。


「アイリス……本当に来てくれたのね」


 震える声で囁いたのはマリーだった。

 彼女の手には、高価な白磁の香炉が握られている。

 私は素早く彼女のそばに歩み寄った。


「ええ、約束通りに。香炉を貸してください」


 私はマリーから香炉を受け取り、慣れた手つきで香木を細かく砕いた。

 白檀と月下香の配分は私の指先が覚えている。


 そこにルシアン殿下から預かった眠り薬の粉末を微かに混ぜ込んだ。

 火を入れると甘く退廃的な香りがふわりと立ち昇る。

 本来なら精神を落ち着かせる効果をもたらすはずの香りだ。


「マリー、香の準備はできたの?」


 不意に、浴室の奥から水気を帯びた甘い声が響いた。

 セレスティアだ。

 マリーはびくっと肩を跳ねさせ、顔面を蒼白にした。


「返事がないわね。まさかまた失敗したの?」


 水音が激しくなり、足音がこちらへ向かってくる。

 私はマリーを本棚の深い影に押し込み、自らも重いカーテンの裏に身を隠した。


 直後、湿った金糸の髪を揺らしながらセレスティアが姿を現した。

 薄い絹のガウンだけを羽織った彼女の顔はひどく冷酷だった。


「どこへ行ったの、あの役立たず。セリアなら一度も私を待たせなかったのに」


 彼女の口から私の名前が出た瞬間、心臓が凍りつきそうになった。

 セレスティアは香炉から漂う煙を深く吸い込んだ。その表情がふっと緩む。


「……この香り。セリアが焚いてくれたものと同じだわ」


 彼女は恍惚とした表情でベッドに倒れ込んだ。

 あれだけ深く吸い込んだのだ。薬が回るのも早いだろう。


 私は息を殺して彼女が深い眠りに落ちるのを待った。

 規則正しい寝息が聞こえ始めてからようやくカーテンの裏を出る。

 マリーも震えながら本棚の影から這い出してきた。


「アイリス、殿下は……」

「大丈夫、ただ深く眠っているだけです。朝まで目覚めないでしょう」


 私はかすれた声で彼女を安心させた。


 眠るセレスティアの顔は天使のように無垢で美しい。


 ……この細い首を絞めてしまえばすべてが終わるのだ。


 私の手は、自然と彼女の喉元へと伸びていた。

 処刑台での冷たい雨の記憶が、私の殺意を煽る。


(だめよ。こんなところで殺しても、この女の罪は暴かれない)


 私はギリギリのところで理性を繋ぎ止めた。

 暗殺などすれば、ルシアン殿下に疑いがかかってしまう。

 公の場で彼女の罪を白日の下に晒さなければ、復讐は完結しないのだ。

 私は手を引っ込め、怯えるマリーを振り返った。


「マリー、よく聞いて。あなたはもう、ここにはいられない」


 マリーは目を見開いた。


「どういうこと? 私が逃げたら殿下に殺されてしまうわ!」


 躊躇いがあったが、すべてを隠すことはできそうにない。

 セレスティアはとある悪事に手を染めていること。処刑された筆頭侍女は身代わりだったこと。自分はそれを暴くためにやってきたこと。

 そしてこのままここに居れば、かつての筆頭侍女のように罪を着されられかねないことを、巻き込んでしまった謝罪とともに、可能な限り手短に伝えた。


「そんな……私、どうしたら……」


「大丈夫、伝手があるわ。旧館の裏庭にある、古い井戸のそばへ向かって」


 そこはルシアン殿下の手の者が待機している場所だ。

 マリーを保護するようにあらかじめ頼んでおいたのだ。


「でも、あなたはどうするの? あなただけ置いていけないわ」


 マリーの優しさが、私の胸を鋭く締め付ける。

 私がいなくなった後も、彼女は変わらずに純粋なままだった。

 私は、彼女の火傷の痕が残る手をそっと握った。


「私は大丈夫。セリア(・・・)の仇を討つまでは死なないから」


 思わず口走ってしまった言葉に、マリーは息を呑んだ。

 彼女は私の顔をまじまじと見つめた。


 髪の色も目の色も声も違う。

 それでも彼女は、何かを感じ取ったようだった。

 大粒の涙が彼女の瞳からこぼれ落ちる。


「……まさか。ううん、そんなはずないわ。でも……」

「行きなさい。振り返らずに」


 私はあえて冷たく彼女を突き放した。

 マリーは何度も私を振り返りながら、ついに夜の闇へと駆け出していった。

 彼女の背中が見えなくなるまで私はその場に立ち尽くしていた。


 ……これでいい。

 彼女はもうセレスティアの呪縛から解放されるのだ。


 私は私室の痕跡を完全に消し去った。

 香炉の灰を片付け、書類の配置を元に戻す。

 私がセリアだった頃から得意としていた、完璧な隠蔽工作だ。


 すべてを終え、私は風のように西の塔を抜け出した。


 旧書庫に戻ると、ルシアン殿下は腕を組んで私を待っていた。

 窓から差し込む月明かりが彼の銀髪を青白く照らしている。

 私は無言で胸元から本物の密約書を取り出し、彼の前の机に置いた。


「手に入れたか。見事な手際だ」


 殿下は書類を手に取り、その内容に素早く目を通す。

 彼の鋭い蒼い瞳が微かに細められた。


「想定以上に酷い条件だな。姉上は本当に国を売る気だ」

「はい。マリーの救出も無事に終わりました」


 私がそう告げると、殿下は書類から顔を上げて私を見た。


「手の者が彼女を離宮へ保護した。これであの売国奴も、彼女を人質にはできまい」


 その言葉に私は深く安堵の息を吐き出した。

 張り詰めていた緊張の糸がふっと緩む。

 すると急に足の力が抜け、私はその場によろめいてしまった。

 冷たい床に倒れ込む寸前、強い腕が私の身体を支えた。


「無理をするなと言ったはずだ」


 ルシアン殿下の声は低く少し怒っているようだった。

 私は慌てて身を引き離そうとしたが、彼の腕は私を離さない。

 彼は私の手を取り、月明かりの下に晒した。


「手が震えているぞ。恐怖か、それとも怒りか」


 私は言い返す言葉を見つけられなかった。


 セレスティアの寝顔を見た時の、狂おしいほどの殺意。

 マリーを危険な目に遭わせてしまった罪悪感。


 すべてが混ざり合って、私の感情は限界を迎えていたのだ。


「……すみません。私はまだ、未熟なようです」


 私が自嘲気味に呟くと、殿下は静かに首を振った。


「お前は道具ではない、人間だ。感情があって当然だ」


 彼は私の手をそっと放し、まっすぐに私の目を見据えた。


「だが、その感情に呑まれるな。私はお前を便利な道具として拾ったわけではない。この腐った国を変えるための、協力者として選んだのだ」


 その言葉は冷え切った私の心に不思議な熱を与えた。

 セレスティアは私を「姉」と呼びながら、ただの駒として使い捨てた。

 しかしルシアン殿下は私を「協力者」と呼び、対等な人間として扱ってくれる。


 無条件に尽くすだけの、盲目的な忠誠はもういらない。

 私は、自分の意志で彼と共に戦うのだと、強く実感した。


「ありがとうございます、殿下。……必ず、あの女を地獄へ突き落としてみせます」


 私の声に迷いはなかった。

 殿下は満足そうに微かに口角を上げた。


「茶会は三日後だ。特使が来る前に姉上はこの本物の密約書がないことに気づくかもしれない」


「いいえ、気づきません」


 私は自信を持って断言した。

 セレスティアは完璧主義だが、それゆえに一度確認したものを疑わないという傲慢さがある。

 彼女は茶会の当日まで、あの詩集を開くことはないだろう。


「問題は、茶会の場にどうやって私が潜り込むかです」


 本物の密約書を手に入れただけでは不十分だ。

 特使の目の前で、彼女が偽の書類を提示する決定的な瞬間。

 そこで私が彼女の罪を暴露し、すべての逃げ道を塞ぐ必要がある。


「給仕として潜入するのは不可能に近い。名簿はすでに確定している」


 殿下は難しい顔で言った。

 確かに、上位の侍女たちの鉄壁の守りを突破するのは至難の業だ。

 しかし私には一つだけ思い当たる節があった。


「殿下、隣国の特使は『赤い茶』を好むという情報はありませんか?」

「赤い茶……? ああ、特使の出身地方特有の発酵茶のことか」

「はい。あの茶は淹れ方が非常に特殊です。少しでも温度を間違えればひどい渋みが出ます」


 セレスティアは特使を喜ばせるため、必ずその茶を用意するはずだ。

 だが我が国の侍女で、完璧にあの茶を淹れられる者はいない。

 私以外には。


「私が厨房で、わざとその茶の淹れ方を披露します。そうすれば侍女たちは、私を茶会の給仕に推薦するはずです」


 手柄を立てたい上位の侍女たちは下働きの技術を盗もうとする。

 あるいは私を裏方に据えて、自分たちの手柄にしようとするだろう。

 どちらにせよ茶会の場に近づく口実にはなる。


「危険な賭けだが、お前ならやり遂げるだろう。……頼んだぞ、アイリス」


 殿下は私の名前を静かに呼んだ。

 私は深く一礼し、闇の中へと姿を消した。



 翌日から私は厨房での作戦を実行に移した。

 メイド長の目を盗み、こっそりと赤い茶の試作を繰り返す。

 狙い通り、焦燥に駆られていた上位の侍女が、私の淹れた茶の香りに気づいた。


「ちょっと、今の香りは何? あなたが淹れたの?」


 高飛車な声で私を問い詰めたのは、セレスティアの新しいお気に入りだという侍女だった。

 私はおどおどした下働きを演じながら深く頭を下げた。


「は、はい。私の故郷ではよく飲まれるお茶でして……」


 侍女は私の淹れた茶を一口飲み、驚きに目を見開いた。

 渋みが一切なく、芳醇な香りが鼻を抜ける完璧な仕上がりだったからだ。


「……あなた、茶会の日は厨房の奥でこのお茶の準備に専念なさい。いいわね?」


 彼女は自分の手柄にする気満々だった。

 私は心の中で冷たく嗤いながら、承知いたしましたとだけ答えた。


 これで舞台裏への潜入は確実となった。

 あとは茶会の進行に合わせて表舞台に躍り出るタイミングを計るだけだ。



 いよいよ茶会の前日となった。

 王宮はかつてないほどの緊張と華やぎに包まれている。


 私は西の塔の厨房で膨大な茶器の準備に追われていた。

 ふと窓の外を見ると、ルシアン殿下が近衛兵を連れて中庭を歩いているのが見えた。

 彼もまた明日の決戦に向けて準備を進めているのだろう。


 私たちの目は一瞬だけ空中で交差した。彼が微かに頷くのが見えた気がした。



 その夜、私は自室の粗末なベッドの上で静かに目を閉じた。

 明日の今頃、私の運命は大きく変わっているだろう。

 セレスティアの破滅か、それとも私の二度目(・・・)の死か。


 恐怖はない。

 私の心は研ぎ澄まされた刃のように冷たく澄み切っていた。

 処刑台の冷たい雨の記憶はもう私を脅かすことはない。

 私は黒い薔薇として、あの女の完璧な庭を内側から食い破るのだ。


(待っていてください、セレスティア殿下。あなたの()が、絶望をお届けします)


 夜明けの光が小さな窓から差し込んでくる。

 復讐の幕が開く朝がやってきた。

 私は目を見開き、ゆっくりと立ち上がったのだった。



 *



 西の塔の厨房は、早朝から戦場のような有様だった。

 磨き上げられた銀の盆が次々と並べられ、甘い菓子の香りが充満している。


 私は部屋の隅に追いやられ、ただひたすらに茶葉の選別を命じられていた。

 上位の侍女たちは美しいドレスに身を包み、鏡の前で念入りに身だしなみを整えている。

 彼女たちの関心はいかにして特使や王族の目に留まるかということだけだ。


 私は粗末な綿の服のまま、手元の赤い茶葉に熱湯を注ぐタイミングを計っていた。


「アイリス、お茶の準備はできているわね?」


 先日私に茶を淹れるよう命令してきた侍女が、高飛車な態度で厨房に現れた。

 私は顔を伏せたまま深く頷いた。


「はい。特使様がお望みの温度に合わせて準備しております」


「失敗したらあなたの首が飛ぶわよ。よく覚えておきなさい」


 彼女は冷酷に言い捨てて厨房を出て行った。

 私は心の中で静かに嘲笑う。首が飛ぶのは果たして誰だろうか?


 私は茶器の横に小さな陶器の小瓶を忍ばせた。

 中にはかつて、セレスティアが好んで使っていた特殊な香油が入っている。

 これこそが彼女の罪を暴く最後の鍵となるのだ。


 窓の外からは楽団が奏でる優雅な音楽が聞こえてきた。

 いよいよ隣国の特使が到着したようだ。


 私は厨房の小窓から、西の塔の薔薇園を見下ろした。

 真紅の薔薇が咲き誇る庭園の中央に。純白の天蓋が張られている。


 セレスティアは目を見張るほど美しい深紅のドレスを身に纏っていた。

 まるで、彼女自身が一番美しい薔薇であるかのように振る舞っている。


 特使は恰幅の良い壮年の男で、傲慢そうな笑みを浮かべて彼女の対面に座った。

 少し離れた席にはルシアン殿下の姿もある。

 彼は冷ややかな視線で二人の様子を観察していた。


(さあ、喜劇の始まりよ)


 私は静かに息を吸い込み、茶器を載せたワゴンを押して厨房の出口へと向かった。

 庭園へと続く回廊の陰に身を潜め、茶会の成り行きを見守る。


 セレスティアは甘い声で特使に話しかけ、巧みに場を和ませていた。

 彼女の笑顔は完璧で、微塵の隙も感じさせない。

 やがて特使がわざとらしくため息をついた。


「素晴らしい庭園ですが、我が国の赤い茶がないのは寂しいですね」


 その言葉を待っていたかのように、上位の侍女が前に進み出た。

 彼女の持つ銀の盆には私が淹れた赤い茶が載っている。


「特使閣下のためにご用意いたしました」


 侍女は得意げに茶を特使の前に置いた。

 特使は満足そうに頷き、ティーカップを口に運ぶ。

 しかし次の瞬間、彼は顔をしかめてカップを乱暴にソーサーに戻した。


「なんだこの温い茶は。香りは良いが淹れる作法が全くなっていない!」


 特使の怒声に庭園の空気が一瞬で凍りついた。

 侍女は顔面を蒼白にしてその場にへたり込む。


 セレスティアの美しい顔にも微かな焦りの色が浮かんだ。

 赤い茶は温度が少しでも下がると独特の渋みが際立ってしまう。


 哀れな侍女は、厨房から庭園まで運ぶ間の時間計算が全くできていなかったのだ。

 セレスティアは冷たい目で侍女を見下ろした。


「……下がってちょうだい。目障りよ」


 無機質な響きだった。

 侍女は泣きそうになりながら逃げるように庭園を去っていく。

 特使は不機嫌そうに腕を組み、セレスティアを睨みつけた。


「我が国との友好を望むと仰りながら、随分と杜撰なもてなしですな」


「申し訳ございません。すぐに別の者を……」


 セレスティアが弁解しようとしたその時だ。

 私はワゴンを押して静かに庭園へと足を踏み入れた。

 足音を殺し、ただ滑るように特使の横へと進み出る。


「特使閣下。本場の作法にて、淹れ直させていただきます」


 低くかすれた声でそう告げると、場にいる全員の視線が私に集中した。

 セレスティアは私の粗末な身なりを見てあからさまに眉をひそめる。


「誰の許可を得てここに出たの。薄汚い下働きはすぐに下がりなさい」


 彼女の冷酷な言葉が私の胸を鋭く叩く。

 しかし私は全く動じず、手元の茶器に熱湯を注ぎ始めた。

 特使は私の流れるような手つきを見て興味深そうに目を細めた。


「待たれよ、殿下。この娘の所作は本国の茶人そのものだ。……続けなさい」


 特使の許可を得て、セレスティアは忌々しそうに口を閉ざした。

 私は完璧な温度とタイミングで赤い茶を特使のカップに注ぎ入れる。

 芳醇な香りが庭園の空気に溶け込んでいく。

 特使はカップを手に取り、ゆっくりと一口飲んだ。


「……素晴らしい。これほど完璧な茶は本国でも滅多に味わえない」


 特使の顔に深い満足の笑みが広がった。

 セレスティアはほっと胸をなでおろしたようだが、私への不快感は隠しきれていない。


「ご満足いただけて何よりです。……さあ、本題に入りましょうか」


 セレスティアは私を空気のように無視して特使に向き直った。

 私はワゴンを押して下がるふりをしつつ、ルシアン殿下の席の近くに留まった。

 殿下は微かに顎を引き、私に先を促す合図を送る。

 いよいよ密約書の調印が始まるのだ。


「我が国南部の銀山に関する特別な取り決めでございます」


 セレスティアは艶やかな笑みを浮かべ、傍らのテーブルから一冊の古い詩集を取り出した。

 私がダミーの密約書を仕込んだあの本だ。


 特使の目が強欲な光を帯びて詩集に釘付けになる。

 セレスティアは優雅な手つきで詩集の表紙をめくった。

 くり抜かれたページの中から封印された羊皮紙を取り出し、テーブルの中央に置く。


「この条件でよろしければ、ここにサインを」


 特使は羽ペンを手に取り、羊皮紙の封を切った。

 そして内容に目を通し始めた瞬間、彼の顔色が劇的に変わった。

 先ほどの柔和な笑みは消え失せ、激しい怒りで顔が赤黒く染まっていく。


「……セレスティア殿下。これは一体何の冗談ですかな?」


 特使は震える手で羊皮紙をテーブルに叩きつけた。

 セレスティアは何が起きたのか理解できず、目を白黒させている。


「冗談とは……? 事前の取り決め通りの条件のはずですが」


「ふざけるな! 採掘権の譲渡費用が当初の十倍に跳ね上がっているではないか!」


 特使の怒鳴り声が薔薇園に響き渡った。

 私はルシアン殿下から預かっていた偽の書類の数字をさらに書き換えておいたのだ。

 隣国が決して呑むことのできない法外な条件へと。


 セレスティアは慌てて羊皮紙を手に取り、その文面を凝視した。

 彼女の美しい顔から血の気が完全に引き、蒼白になっていく。


「そ、そんな馬鹿な……。これは私の書いたものではありません!」


 彼女はパニックに陥り、周囲の侍女たちを金切り声で怒鳴りつけた。


「誰よ! 誰がこんなふざけたすり替えを行ったの!」


(あなたが見下している、この薄汚い下働きですよ)


 私は内心で冷たく嗤いながら、ゆっくりとセレスティアの前へと歩み出た。

 周囲の近衛兵たちが不審な動きをする私を制止しようと動く。


 しかしルシアン殿下が片手を上げて彼らを制した。

 私はセレスティアの目の前で立ち止まり、静かに口を開いた。


「殿下はご自身の書かれた暗号の法則をお忘れになったのですか」


 私の低くかすれた声が静寂に包まれた庭園に響く。

 セレスティアは信じられないものを見るような目で私を睨みつけた。


「あなた、何を言っているの……。下働きの分際で私に口答えする気?」


「この羊皮紙の右下をご覧ください。そこには殿下特有のサインがあります」


 私は羊皮紙を指差し、淡々と事実を告げる。

 そこには確かにセレスティアの美しい流麗なサインが記されていた。


 だがそれは私が彼女の筆跡を完璧に模写したものだ。

 長年彼女の代筆を務めてきた私にしかできない芸当である。


「偽造よ! こんなものは私が書いたものではないわ!」


 セレスティアは必死に否定するが、特使は疑念の目を彼女に向けている。

 私はあらかじめ用意しておいた陶器の小瓶を取り出した。


「殿下は重要な書類を封印する際、必ずこの特殊な香油を蝋に混ぜ込まれます。月下香と白檀を極秘の配合で調合したものです」


 私は小瓶の蓋を開け、その香りを特使の方へと漂わせた。

 特使は鼻をひくつかせ、羊皮紙の蝋印の残骸を手に取って匂いを嗅いだ。


「……確かに、この小瓶と同じ香りがするな」


 特使の言葉にセレスティアは完全に言葉を失った。

 彼女の瞳孔が開き、信じられないというように私を見つめている。


 なぜ下働きが自分の極秘の習慣を知っているのか。

 その疑問が彼女の頭の中で渦巻いているのが手に取るようにわかった。


「なぜ……。なぜあなたがそれを知っているの?」


 震える声で問うセレスティアに、私は冷酷な微笑みを返した。

 顔に塗った染料は落としていない。

 声もかすれたままだ。

 しかし私が浮かべたその微笑みは、かつて彼女が「姉」と慕ったセリアのそれと同じだったはずだ。


「幼い頃からあなたの傍にいて、すべてを管理してきたからです」


 私の言葉にセレスティアは息を呑んだ。

 彼女の足がもつれ、その場に崩れ落ちそうになる。

 私は一歩前に踏み出し、彼女の耳元に顔を寄せた。


「私を切り捨てれば、すべてが思い通りになるとでも思いましたか?」


 氷のように冷たい声で囁く。

 セレスティアの全身が恐怖で激しく震えるのがわかった。

 彼女はようやく目の前にいる下働きの正体に気づいたのだ。

 自分が死に追いやったはずの、筆頭侍女の亡霊に。


「ひっ……! あ、あなた、生きて……」


 セレスティアが悲鳴のような声を上げようとした瞬間だった。

 ルシアン殿下が静かに席を立ち、特使の前へと歩み出た。

 彼の銀髪が陽光を反射して冷たく輝いている。


「特使殿。我が姉の不手際、深くお詫び申し上げる」


 殿下は恭しく一礼し、懐から一通の羊皮紙を取り出した。

 それこそが私がセレスティアの私室から盗み出した本物の密約書である。


「誠に嘆かわしいことに、姉は国を売り、私を暗殺しようと企てていたようです。これがその決定的な証拠です」


 特使は本物の密約書を受け取り、その内容を険しい表情で確認した。

 そこには隣国にとって極めて有利な条件と、軍事協力の要請が記されている。


「ああ、『まったくもって嘆かわしい! 両国の関係に亀裂を入れかねない、重大な背信行為ではないか!』……これで宜しいですかな?」


 特使の言葉は決定的な破滅の響きを持っていた。

 セレスティアの目論見は、完全に崩れ去ったのだ。


「……貴殿のほうが一枚上手だったようですな、ルシアン殿下。殿下とは懇意にしたいものです。ぜひ、またの機会(・・)を」


「ええ、両国が今後とも友好的(・・・)な関係にあることを願っております」


 白々しい言葉の応酬の影で、セレスティアは庭に跪いていた。

 隣国との密約も破談になり、自らの罪だけが白日の下に晒された。


「嘘よ! それは偽物よ! 私は嵌められたの!」


 セレスティアは地面に這いつくばるようにして叫んだ。

 その顔は涙と脂汗で汚れ、かつての美しさは見る影もない。


「誰か! この者たちを捕らえなさい! 私は第一王女よ!」


 彼女は近衛兵たちに命令を下すが、誰一人として動こうとはしなかった。

 すでに近衛兵の指揮権はルシアン殿下の手によって掌握されていたのだ。


 彼女は自分が完全に孤立していることにようやく気づいた。

 狂乱する彼女を見下ろしながら、私の心はどこまでも静かだった。


 処刑台で感じた絶望も怒りも、今は嘘のように消え失せている。

 ただただ、目の前の惨めな女の姿が滑稽に思えた。


(これがあなたの本当の姿。権力に縋るだけの哀れな子供)


 私はワゴンを引き寄せ、静かにその場を立ち去ろうとした。

 私の役目は終わった。


 彼女の罪を暴き、その仮面を特使とルシアン殿下の前で剥ぎ取ること。

 復讐は完璧に成し遂げられたのだ。


「待って! セリア!」


 背後からセレスティアの悲痛な叫び声が聞こえた。

 彼女はドレスの裾を引きずりながら私にすがりつこうと手を伸ばしてくる。


「私を助けて! あんなことはしたくなかったの! あなたしか頼れないのよ!」


 あの雨の日と同じ言葉。

 私を処刑台へと追いやった偽りの涙。


 私はゆっくりと振り返り、彼女の顔を冷たく見下ろした。

 私の瞳に同情の色は欠片もない。


「申し訳ございません、殿下。私はアイリスというしがない下働きでございます」


 私は深く、完璧な侍女の礼をとった。

 そして一切の感情を排した声で冷徹に告げる。


「殿下のおっしゃる『セリア』は、数ヶ月前に国を売った罪で処刑されたはずです」


 私の言葉がセレスティアの胸に突き刺さるのがわかった。

 彼女はあえぎながら地面に崩れ落ち、ついに声にならない絶叫を上げた。


 自分が切り捨てたものがどれほど大きかったのか。

 今さら気づいてももう遅いのだ。


 私は彼女に背を向け、迷うことなく歩き出した。

 真紅の薔薇が咲き誇る庭園に、彼女の悲鳴だけが虚しく響き渡っていた。



 *



 茶会から十日ほど。

 王宮の空気は驚くほどすっかりと入れ替わっていた。


 第一王女セレスティアの失脚は瞬く間に国中へと知れ渡った。

 彼女の罪は国家を危機に晒した反逆罪として厳重に裁かれた。


 かつて彼女が愛し狂った真紅の薔薇は根こそぎ刈り取られている。

 華麗な西の塔は、今や主を失って不気味なほど静まり返っていた。


 私は王宮の北の果てにある、古びた石造りの塔を見上げていた。

 そこは重罪を犯した王族を永遠に幽閉するための施設だ。


「北の鳥籠」と呼ばれるその塔には窓すらほとんどない。

 高い位置にある小さな窓にはめられた太い鉄格子が冷たく光っている。


 セレスティアはあそこに一生閉じ込められることが確定したのだった。

 王族としての地位も名誉もすべて完全に剥奪された。


 見事なドレスも美しい宝石も取り上げられ、今は粗末な麻布を纏っているという。

 狂乱し、毎日私の名前を叫びながら冷たい石壁を掻き毟っていると噂で聞いた。


(もう、私の声があの方に届くことは永遠にないわ)


 私は静かに目を伏せて深く息を吐き出した。

 胸の中で燃え盛っていた憎悪はすでに溶けて消えている。


 あとに残ったのは微かな寂しさと、確かな解放感だけだった。

 私が命を懸けて守ろうとした、無邪気な少女はもうどこにもいない。


 あの美しい日々はすべて幻だったのだと、ようやく心から受け入れることができた。


 冷たい秋の風が吹き抜け、私の黒く染まった髪を大きく揺らす。

 私はきびすを返し、迷うことなくその場を立ち去った。


 私の歩むべき道は、もう過去には存在しないのだ。



 王宮の長い回廊を歩く私の足取りは信じられないほど軽かった。

 粗末な下働きのメイド服は、すでに暖炉の火にくべて燃やしている。

 代わりに身につけているのは、濃紺の簡素だが上質なドレスだ。


 動きやすく無駄のない装いは、文官たちが好んで着るものだった。

 特殊な薬で変えていた目の色も、本来の鮮やかな緑色に戻している。

 名前だけは「アイリス」のまま名乗ることに決めていた。


 かつての筆頭侍女セリアは、あの雨の日の処刑台で死んだのだ。

 これからは新しい自分として、自分のために生きていく。


 向かった先は、本宮の中心にあるルシアン殿下の広大な執務室だった。

 重厚な木製の扉をノックすると、中から落ち着いた低い声が入室を許可した。


 扉を押し開けると、インクと古い羊皮紙の匂いが鼻をくすぐる。

 壁際の巨大な書棚には膨大な歴史書や法典が隙間なく並んでいた。


 部屋の中央にある執務机にルシアン殿下が深く腰掛けている。

 彼は山積みになった書類から顔を上げ、私を見て微かに目を細めた。


「来たか、アイリス。随分と待たせたな」


「はい。お呼び出しいただき光栄です、殿下」


 私は優雅に、しかし従属する侍女としてではなく、一人の臣下として礼をとった。

 殿下は羽ペンを置き、立ち上がって私の方へとゆっくり歩み寄ってくる。


 彼の鋭い蒼い瞳は、以前よりもずっと穏やかな光を湛えていたのだ。

 セレスティアという強大な政敵を完全に排除したことで、彼の肩の荷も少しは下りたのだろう。

 窓から差し込む秋の柔らかな日差しが、彼の美しい銀髪を眩しく照らしていた。


「姉上の最終的な処分が確定した。北の塔から生きて出ることは二度とないだろう」


 殿下の口調はひどく淡々としていた。

 肉親を冷たい塔へ幽閉することへの感傷は見受けられない。

 王宮という恐ろしい伏魔殿で生き抜くためには必要な冷酷さだ。

 私は黙って彼の言葉に深く頷いた。


「マリーは無事に王都の外にある修道院へ向かったそうだ。彼女が新しい人生を歩めるよう手配しておいた。本人の希望次第では王宮に戻ることもできるだろう」


 その報告を聞いて、私は心から安堵の息を漏らした。

 私が唯一心残りだった、巻き込んでしまった後輩の未来は守られたのだ。


 彼女ならきっと、新しい場所で笑顔を取り戻してくれるはずだ。

 殿下の細やかな配慮に私は深い感謝を覚えた。


「隣国との関係も、一旦は落ち着いている。我が国の腐敗を一掃し、外交の立て直しを図るのが急務だ」


「殿下の見事な手腕であれば、すぐに事態は好転するでしょう」


 私がそう言うと、殿下はふっと短く、しかし確かに笑った。


「他人事のように言うな。お前にもたっぷりと手伝ってもらうぞ」


 彼は机の上から小さなビロードの箱を取り出し、私の前に差し出した。

 私は戸惑いながらもその箱を受け取り、ゆっくりと丁寧な手つきで蓋を開ける。


 中に入っていたのは、銀の細やかな細工が施された美しい万年筆だった。

 そしてその下には、王室直属の文官であることを証明する銀の徽章が添えられている。


「殿下、これは一体……」


「お前は今日から、私の直属の特別文官だ。外交交渉の裏側を知り尽くした、その明晰な頭脳を無駄にする手はない」


 殿下の言葉に私は思わず大きく息を呑んだ。

 私の裏工作の能力や人脈が買われているのはわかっていた。


 しかし一介の女性が文官として、しかも外交の表舞台に近い場所に登用されるなど前代未聞だ。

 通常であれば名家の息女であっても、奥向きの仕事しか絶対に与えられない。

 私は箱を持ったまま殿下の顔をまじまじと見つめ返した。


「私のような素性の知れない者をいきなり重用すれば、殿下の足元をすくう口実にされかねません」


 私はあえて厳しい現実を言葉にして口にした。

 しかし殿下は全く気にする素振りも見せずに軽く肩をすくめ、小さく笑った。


「私の足元をすくえるような者は、今の王宮には一人もいない。もしいるとすればお前くらいだ」


 彼の言葉には絶対的な自信と、私への確かな信頼が込められていたのだ。


 無条件に己の命を捧げるだけの、歪んだ主従関係ではない。

 お互いの能力を正当に認め合い、目的のために理知的に協力し合う関係。

 私がずっと心の奥底で求めていた、健全な絆の形がそこにあった。


(私を都合のいい駒としてではなく、一人の人間として真っ直ぐに見てくださっている)


 冷え切っていた胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 処刑台の雨の中で一度はすべてを失い、絶望の底を這いずり回った私だ。

 誰かを信じることなど二度とできないと本気で思っていた。


 しかしルシアン殿下は私に新しい生きる意味と誇りを与えてくれたのだ。

 私はビロードの箱をそっと閉じ、自分の胸に大切に抱きしめた。


「ありがたくお受けいたします。このアイリスの知恵のすべてを、殿下とこの国のために捧げましょう」


 私が力強く宣言すると、殿下の美しい唇に確かな笑みが浮かんだ。


「期待しているぞ。まずは明日の会議の膨大な資料作りからだ。徹夜になるかもしれないが覚悟しておけ」


「お任せください。昔から複雑な書類整理と徹夜だけは誰よりも得意ですので」


 私の軽口に殿下は、声を上げて笑った。

 王宮の常に冷たい空気の中で、彼の笑い声がとても温かく響く。


 これからは影に隠れて惨めに床を磨く必要はない。

 自分の頭脳と経験を最大の武器にして堂々と光の中を歩いていけるのだ。


 ふと部屋の隅の優雅なサイドテーブルに目が留まった。

 そこには新しく用意された上質な茶器のセットが置かれている。


「殿下、もしよろしければお茶を淹れましょうか。徹夜の前のささやかな景気づけに」


 私が提案すると殿下はとても嬉しそうに頷いた。


「頼む。お前の淹れる茶は王宮一だからな」


 私は茶器の前に立ち、昔から慣れ親しんだ手つきで茶葉の準備を始めた。

 かつては絶対の義務として、あの残酷な女の機嫌を取るために淹れていたお茶だ。


 しかし今は全く違う。

 共に未来へ向かって戦うパートナーの疲れを癒やすために心を込めて淹れている。


 熱いお湯を注ぐと芳醇な香りが執務室の隅々までいっぱいに広がった。

 窓の外を見ると、高く澄み切った秋の青空がどこまでも美しく続いている。


 私を縛り付けていた過去の呪縛は完全に断ち切られた。

 私は黒い薔薇としての毒を捨て、新しい未来の扉を自らの手で力強く押し開いたのだ。

 カップに注がれた琥珀色の液体が、希望の光のようにきらきらと輝いていた。



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