砕かれた真実
―17.5―
「じゃあ次。『カルシスはリヴァスの商人の家に生まれ、貧しい人々に施しを与えて暮らしていました』って書いて。まずは10回」
「ええ~っ、また10回も書くの~!? もうへとへとだよ~」
フウリの部屋で私が文字の書き方を指導してやると、チビはまた泣き言を喚いた。露骨に眉尻を下げてペンを放り投げ、だらしなく椅子にもたれかかる。けれど私はバンッと背中を叩き、まるでやる気のない弟子に発破をかけた。
「文句言わない! フウリが『字の書き方教えて』って言い出したんでしょ? わざわざ朝早くからずっと付き合ってあげてるんだからありがたく思いなさい!」
「は~い……エルザちゃんは厳しいなぁ」
フウリはしぶしぶとペンを握り直し、『英雄カルシスの伝説』の書き写しを続ける。けれど目がショボショボとしており、相変わらずミミズが走ったように字が汚い。かれこれもう勉強をはじめてから4時間以上経っている。それでも私は容赦なく叱りつけた。
「ほらそこっ! 書き順間違ってる! ちゃんと正しい順番で書いて」
「ええ~、字なんて読めればなんでもいいじゃ~ん」
「フウリが読めても他人が読めなかったら意味ないでしょ? アパートとかそういうの借りるとき、字が汚かったら困るんだから」
「……エルザちゃん、アパートなんて借りたことないくせにぃ」
泣き声とも不平ともつかない弱音がまたフウリの口から漏らされる。
窓辺からは昼の日射しが差し込み始め、すっかり冬の季節も遠ざかろうとしていた。
私がフウリに勉強を教えることになったのは、一ヵ月前のことだった。
『より美味しくなるトマトスープの作り方』を部屋で読んでいたら、突然あの強引教師がフウリを連れてやってきたのだ。
『ほらエルザちゃん! 約束通りフウリちゃんに文字の書き方教えてあげてね』
そう押しつけるように言い渡すと、さっさとあの人はフウリを置いて出ていった。取り残されたフウリはただ私をじっと見つめ、切実そうに瞳を潤ませたのだった。
――本気でフウリの勉強見させるつもりだったのかよ!――
その時私は心の中で叫ばずにはいられなかった。
仮にも先生なのに、生徒に教育を任せるなんて滅茶苦茶すぎる!
私は字の書き方を苦労して覚えたばっかりなんだぞ! いきなり誰かに勉強を教えろって荷が重すぎるだろ!
……そう文句を言いたかったけれど、あの人の中ではこれはもう決定事項だった。どうせ勉強を教えるのを断っても、あの人はまた私の部屋に居座って「はい」と返事をするまで圧力をかけてくる。
……あの先生には、頭が上がらない。
私はあの人に夜遅くまで勉強を教えてもらったのは事実だし、勉強する楽しさに気づけたのもあの人のおかげだから。
だから私は仕方なく、フウリに勉強を教えることを決めたのだった。
「ああ~、やっと書き終わったよ~。エルザちゃん……これで、どうかな?」
正午を過ぎた頃、ちょうど『騎士となったカルシス』のエピソードが終わった。
真っ白だったノートはすっかり黒い文字で埋め尽くされ、努力の跡が滲んでいる。
「……うん。文法的な誤りもないし、ちゃんと正しい綴りで書けてる。今日の分はこれで終わりかな?」
「やった~っ! やっと終わった~。もうお腹ぺこぺこだよ~」
フウリは全身の力が抜けたように背もたれにぐったり倒れ込む。
勉強が終わった後の高揚感、それを一心に浸っている様子だった。
情けない泣き言ばかり繰り返していた唇は、すっかり緩み切って満足そうな笑みに変わっていた。
「ねぇねぇエルザちゃん、もうすぐお昼だよ? 今日は蜂蜜入りのパンケーキなんだって。一緒にリビング行こうよ!」
フウリは今にもよだれが出そうなほど相好を崩し、私に誘いをかけてくる。
「ああうんわかった。私もそろそろ休憩にしようと思ってたところだから」
そして私は自然と頷きを返し、二人並んで階段を降りていった。
*****
「ああ~生き返る~! やっぱり勉強の後のご飯は最高だね! マウル先生のパンケーキ、すごくおいしいよぉ!」
リビングで昼食の時間になると、さっそくフウリはご馳走のおやつにかぶりついた。頬の筋肉がとろけたようにほぐれており、幸せいっぱいと顔中に書いてある。私はパンケーキの甘い食感に集中しながら、適当に相槌をかえした。
「まぁうん、あの先生料理はそこそこ上手だから」
「もうっエルザちゃん! 『そこそこ』なんてものじゃないよ! マウル先生のパンケーキはお店で出されてもおかしくないぐらい絶品だよ! エルザちゃんももっと素直にマウル先生のこと褒めたらいいのにぃ」
「べ、別にっ、私は思ったこと正直に言ってるだけだし」
とっさにムキになって言い返す。
けれどフウリはそんな私のふくれっ面を見ると、楽しそうにまた口角を上げたのだった。
「えへへっ、エルザちゃんってば本当にあまのじゃくさんだよね。でも本当はエルザちゃんがマウル先生と仲良しなの知ってるよ? マウル先生が家事のお手伝いしてって言ったら、絶対エルザちゃん断らないもんね」
「そ、それは、孤児院の決まりだから仕方なくやってるだけだし……」
私は口ごもりながら言い訳を返す。その度にフウリは訳もなく笑い返してくる。
いつものとりとめのないやり取り。フウリは事あるごとにあの人の名前を出しては、私におしゃべりを持ちかけてきたのだった。
(あれ? 私、いつの間にこいつとおしゃべりするようになったんだっけ?)
フウリに勉強を教え始めてから、私は自然に誰かと会話ができるようになっていた。少し前までなら他人のことなんて無視していたのに、今は雑談に夢中になっている自分がいる。そういえば最近になって、こいつと一緒に食事するのも当たり前になっていた。
(……こういうのって、もしかして友達っていうのかな?
あの先生がしつこく言ってたみたいに、友達ができるっていいことなのかな?
……ちょっと今は、判断できないけど)
私はパンケーキを頬張り続けるフウリを眺めながら、物思いにふける。
改めて顔を合わせると、どこか胸がむずがゆくなって、さわさわと温かな風が吹き抜ける感覚をおぼえた。
その正体を掴みきれず、私はもう一度胸の中の感情を咀嚼しようとする。
けれど思考の渦に沈みかけた時、コツ、コツ、と、こちらに向かって近づく足音が聞こえた。
「エルザ、エルザ。ちょっといいかしら?」
ハッとなって振り返ると、そこには院長先生が立っていた。
どこか厳しい表情を作っており、じっと私を見下ろしている。
「何? ……じゃなくて、何ですか?」
「お前に大事な話があるの。ちょっと私の部屋まで来てくれるかしら?」
重みのある声音で院長先生が呼びかける。
額の皺がさらに深く刻まれ、断ることを許さない雰囲気だった。
「……わかりました。フウリ、私のお皿片付けといてくれる?」
「あっ、うん……」
私はまだ食べ残しのあるパンケーキのお皿をそのままにして、静かに席を立つ。
不安そうな顔をするフウリに見送られながら、院長先生とともにリビングルームを出た。
*****
「……エルザ、お前がなぜこの部屋に呼ばれたかわかっているわね?」
対面の席に座ると、開口一番院長先生は確認の言葉を切り出した。
院長先生の部屋には一切無駄なものがなく、閑散とした重々しさが漂っている。
「…………」
けれど、私は口をつぐむ。
本当はここに来る前から何の話かはわかっていた。
それに対して、私は何の答えも用意できていない。
ただ押し黙る私をじっと見つめたまま、院長先生は静かに言葉を紡いだ。
「……最近のお前はよく頑張ってるわ。食事もみんなと一緒に取るようになったし、家事の手伝いもするようになった。勉強会にも顔を出すようになったし、いい成績を収めている。
――でもね、エルザ。お前がこの孤児院を卒業しなければならない日はもうそこまで迫っている。私は何度もそれを忠告したはずだわ。わかっているわね?」
「…………」
私は何も言い返せない。顔を俯けたまま、ただじっと沈黙を貫いている。
けれど院長先生は、答えに窮する私を決して見逃さなかった。
「エルザ、そろそろ決断しなければならない時だわ。お前も孤児院を卒業したら、働いて独り立ちしなければならないのよ。どこか行く宛てはあるの?」
「…………」
その詰問にも私は答えられない。将来のことなんてこれっぽっちも考えてなかった。そんな私の浅はかさを見抜くと、院長先生ははぁ、と深いため息をついた。
「やっぱり、何も決めてないのね」
院長先生は見かねたように肩を落とす。
長年の苦労が積み重なったような目尻には、深い皺が刻まれる。
けれどその両眼はすぐに鋭く光り、真っすぐに私を射抜いた。
「エルザ、この孤児院を卒業した子供たちはみんな立派に働いているわ。自分で住む場所を見つけて、自分でお金を稼いで、自分一人の力で生きている。いつまでも孤児院の世話になって、ずっとここにいることはできないのよ。
……今日から仕事を探しなさい。でなければ、お前は野垂れ死にすることになる」
核心に迫る言い渡しが、ついに振り下ろされる。
鋭く、冷たく、心臓が凍りついて何も反応できない。
――お前は野垂れ死にすることになる――
そんな本の世界でしか知らなかった言葉が、脳髄に深く染み渡った。
冬の寒さに凍え、空腹も満たせず、誰の助けも借りられないまま路上に倒れる。
次々と刃物のような空想が過り、無意識のうちに全身から冷や汗が流れた。
――死にたくない――
腹の底から、そんな本能の叫びが打ち上がる。
その時はじめて、私は自分の切迫した状況を思い知った。
もう決断から逃げることはできない。
けれど私は激しく頭を揺さぶり、全ての思考を振り払った。
「……私は、孤児院を出ていくつもりはありません!」
「……!!」
気がついたら、大声で叫んでいた。
感情のままに、本音のままに、突きつけられた現実を否定する。
――お母さん――
すがりつくように過去の記憶を思い起こす。
窓辺から見えるベンチに、もう一度あの頃の面影が現れるのをずっと待ち焦がれていた。遠い過去の、幸せだった温もりを忘れた瞬間なんて一度だってない。
だから私は必死で叫び続けた。
「お母さんが、お母さんがっ、私を迎えに来るって約束したから! 『いい子にして待ってて』ってお母さんと約束したから! だから、私はこの孤児院を出ていかない! あのベンチでお母さんとまた会えるまで、私はずっとあの部屋で待たなきゃいけないんだ!」
「エルザ……お前はまだそんな言葉を信じて……」
私の過去を否定するような、呆れた声が返ってくる。
けれど私は耳に壁を作り、現実の音を遮断した。
失いたくなくて、手放したくなくて、私は必死に叫び続けた。
「だって約束したんだもの! 八年間、私はずっとお母さんの言いつけを守って待ってたんだもの! お母さんは絶対迎えに来てくれる! お母さんは絶対村へ連れて帰ってくれる! お母さんは絶対、私のことを捨てたりなんかしないんだ!!」
「いい加減におしエルザっ!! いつまでも子供じみたことを言って甘ったれるんじゃないよ!!」
その時、壁を打ち破るような怒鳴り声が耳に轟く。
その叫びの鋭さに全身がひるみ、ハッとなって意識が引き戻される。
院長先生は険しい顔つきで私を睨みつけており、けれど何か覚悟したような冷静さを瞳に宿していた。
「そこまで強情に駄々をこねるつもりなら、エルザ。私にも考えというものがある。……これはお前が傷つくと思ったから黙ってたんだけどね、私はお前の母親から手紙を預かってたんだよ」
「……えっ?」
予想だにしなかった事実を告げられ、氷水を浴びせられたように皮膚が硬直する。けれど院長先生は私に一切の説明をしないまま立ち上がり、真っすぐに机の前まで移動した。
「今ここで見せてあげるよ。お前の母親がどうしてお前を捨てたのか、その理由をね」
そして引き出しをガラリと開けると、中から一通の封筒を取り出す。
それを私の前に投げて寄越すと、突き放すように顎をしゃくった。
「その封筒の中身を見てごらん。そこにはお前に宛てた手紙も入ってるよ」
混乱しっぱなしな私をよそに、院長先生はただじっと私の行動を見守る。
私は手を震わせながら封筒を取り、開け口に指を差し入れた。
その古ぼけた封筒には、二通の便箋が入っていた。
遠い過去、私のお母さんがよく使っていた記憶がある。
『エルテ・ペート』
差出人の欄にはそう記されている。
紛れもなく、それはお母さんからの手紙だった。
『孤児院の先生方へ
この孤児院近くのベンチに5歳になる長い黒髪の女の子がいます。経済的な事情により私たちは娘を育てることができません。どうかエルザのことをよろしくお願いします』
とても簡潔な内容だった。
理由なんて、ただ一言しか書かれてなかった。
大切なお願いのはずなのに。大切な娘を預けようとしているのに。
その手紙には、私をまた迎えに来る予定なんてどこにも記されてなかった。
『エルザへ
エルザ、ごめんなさい。
お母さんたちはこれ以上あなたの面倒を見ることができないの。
私たち家族のことは忘れて、幸せになってください』
たった数十秒で、二通の手紙を読み終えた。
けれどかじかんだように震える瞳は、決して黒い筆跡から視線を外すことができなかった。
「嘘だ……こんなの、嘘だ……」
気がついたら、かすれた声が漏れていた。
目の前の景色が遠くなり、10本の指先に歪なほど力が入る。
握りしめられた二通の手紙は、くしゃくしゃになってもう読めなくなってしまった。
「…………ッ!」
皺だらけになった手紙を投げ捨て、私は逃げるように部屋から飛び出した。
「エルザ! エルザっ!!」
私を呼び止める声が背後から追いかけてくる。
けれど私は一瞬も立ち止まらず、階段を駆け上がって自室の中へと閉じこもる。
ずっと夢に描いていた面影は、粉々に打ち砕かれた。




