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エルザのことを忘れない  作者: 区隅 憲
前編 ~孤児院時代の喪失~
7/22

懐かしい面影をもう一度重ねて

―17.9―



 字が書けないことがバレたその日の夜、私はあの人の部屋で唸り声をあげていた。隣に座る教師役が本を朗読するのに合わせて、ノートに字の書き写しをさせられている。時刻はもう11時過ぎ。夕食が終わった6時頃に連れ出されたので、かれこれもう5時間以上ぶっ通しだった。


「ほらほらエルザちゃん! 次は『英雄カルシスはリヴァスの街に生まれ、彼の地を救いました』って書いてみて。このエピソードは基本的な単語だけで構成されてるから」


「めんどくさいなぁ……早く寝かせてよ」


 私はあくびをかみ殺しながら、ミミズが走ったような文字をノートに書く。

昼間に貸すと言っていた『英雄カルシスの伝説』が教材だった。

カルシスの生い立ちとか偉業とか、そういう歴史が長々とつづられている。

けど、大昔の人間のことなんてどうだっていい。それよりもさっさと解放してほしかった。


「あっ、それまた書き順が間違ってるよ! 正しい書き順で書かないと綺麗な字にならないんだから!」


「別に書き順なんてどうでもいいでしょ……形になってれば」


 私は再三再四繰り返された小言に、うんざりして弱音を吐く。

けれど相手はキッと眉を吊り上げ、ウトウトする私の背中を叩いた。


「ダ~メっ! 字が汚いと読む人の信用もなくなっちゃうよ! 『文書を偽造するときは絶対綺麗な字で書け!』って、私もさんざん指導されたんだから!」


「私、そんな嘘つかないといけない後ろめたいことしてないし……」


「大人になったら必要になるかもしれないじゃん! ほらほら、文句言わないでもう一度書き直す!」


 やけにこの人は綺麗な字にこだわってくる。ひとつひとつの文章につき10回以上は書かされた。のほほんとした見た目とは違って、かなりスパルタだ。


「はぁ……なんで私、文字の書き方なんて今さら勉強してるんだろう?」


「友達を作るためだって! フウリちゃんに字を教えてあげられるようになったら、きっとフウリちゃんともっと仲良くなれるよ!」


「別に私、あいつと友達になりたいわけじゃないし……」


 いくらぶつくさ文句を言っても、この強情な教師はずっと私に張り付いてくるので、勉強を投げ出すこともできない。瞼を閉じようとしたら体を揺すってくるし、逃げ出そうとしたら追いかけられて引っぱり戻される。


 もう何度同じ文章を書かされて、文字を見るのが嫌になったかわからない。

けっきょく私は重い頭を抱えながら、『英雄カルシスの伝説』と向き合い続けた。


「は~い! ちょうど『商人の息子と騎士の出会い』まで書き終わったし、そろそろおしまいにしよっか? 基礎的な文字はもうお手本を見なくても書けるようになったし、よく頑張ったねエルザちゃん!」


 パチパチと隣で拍手の音が鳴る。

時計を見るともう深夜2時を回ってるのに、バカみたいな元気さだ。

私は達成感というより疲労感のほうが勝っており、もう半分夢の中だった。


「……あっそう。もう部屋に戻っていい?」


「うんいいよ! まずは文字の基礎がマスターできたし、本格的な文法の勉強は明日にするよ。夕方6時になったらまた呼びに行くからね!」


「え……またやるの……」



 それから毎晩のように文字の書き取りをみっちりやらされた。

3日が過ぎ、7日が過ぎ、地獄のような2週間が過ぎた。

汚い字だとやり直しだし、眠りかけると叩き起こされるし、テストは絶対100点を取らないと次に進まないし……


 ページを数えるのもバカらしくなるほど、ノートを字で真っ黒にした。

疲労がもはやなまりのように体中に溜まり、指が真っ赤に腫れてじんじんと痛む。

何度逃げ出そうとして失敗したかわからない。

しかしそんな苦行を耐え続けて、3週間が過ぎた頃だった。



「すごい! 私が読み上げた文章、全部お手本なしで書けるようになってるね!

勉強の成果が出てるんだよ。この調子なら、もう少しで文法の基礎もマスターできるよ!」


 相手が大げさに肩を叩いて私を励ます。

しかし私は日頃の疲れでへとへとで、返事する気力すら湧かなかった。


「じゃあ次は『カルシスはリヴァスの商人の家に生まれ、貧しい人々に施しを与えて暮らしていました』って書いてみて。それが終わったら主語と述語に関するテストに答えてもらうよ」


「まだ続くの……」



 それから引き続いて、今度は自分で作文する練習を叩きこまれた。

あの人が『英雄カルシスの伝説』を読み上げるのに合わせて、そのエピソードの感想を書く課題をやらされる。


「カルシスが15歳で剣の大会で優勝するのはすごいと思った。カルシスが賞金を全部孤児院に寄付するのはお人好しすぎると思った。それから、え~っと……」


 自分で考えて文章を書くのって難しい。頭が知恵熱で沸騰しそうだ。

それほど私は作文に頭をこねくり回し、夢にまでペンを走らせる自分の姿が出てくるぐらいだった。


 けれど、そんな最中―― 


(あれ? この本、こんなにスラスラ読めたっけ?)


 ある日の昼間の時間、私は自分の中で起こった新しい変化に気づいていた。

それは難しくて読めなかった本が、いつの間にか読めるようになったということだ。


 今まで惰性でページをめくっていたのに、ちゃんと内容が理解できればすごく面白い。気がつけば何時間も読書に没頭して、読み終えたらすぐ次の巻を書庫から引っ張り出す。そんな体験が何度となく繰り返され、私は「もっと読みたい! もっと読みたい!」と好奇心に駆られるようになった。


『勉強って、こんなに楽しかったんだ……』


 最初は鬱陶しいと思っていたはずなのに、そんな感情が芽生え始める。

私は夜の勉強会にも進んで取り組むようになり、勉強を始めてからあっという間に二ヵ月が経った。



「おめでとうエルザちゃん! これで『英雄カルシスの伝説』の第一章は全部終わりだよ! よく頑張ったね!」


 今日も勉強をやり終え、隣からいつものように拍手が送られる。

私は『英雄カルシスの伝説』をゆっくりと閉じ、高揚感でいっぱいになった。


「うん、やれるだけのことはやったよ。……カルシスの伝記、けっこう面白かったし」


「そう言ってくれると私もすごく嬉しいよ! カルシスの本はリヴァスじゃ教科書にもなるぐらい有名だし、多分基本的な言語はマスターできたんじゃないかな? フウリちゃんにもきっと文字の書き方教えてあげられるよ」


「……うん、そうかもね」


 ニコニコと太鼓判を押す笑顔につられて、私は自然と頷きを返す。

さんざん気にしていた勉強のコンプレックスが、今ではすっかり誇らしい気持ちに様変わりしていた。


「それにしてもエルザちゃんはすごいよ! たった二ヵ月で文字の書き方を覚えられたんだから。実は執筆の才能とかもあるんじゃない? 将来は小説家になったりして」


「お、大げさだよ。別に私は自分で本を書きたいとか考えてないし」


 手放しで褒められ、私は頬がじんわりと焼ける。

けれどそれ以上に、最後まで勉強をやり遂げた達成感のほうが体中を熱くしていた。


「あ、あの……先生」


「ん? なぁに?」


 私は好奇心を抑えきれず、ボソボソと声をかける。

けれど気恥ずかしさから次の言葉がなかなか出てこない。

『もし断られたらどうしよう?』そんな不安もあった。

けれど最後には意を決して、思い切って頼んでみた。


「私に、『英雄カルシスの伝説』貸してくれないかな? その、続きが気になるから……」


「えっ?」


 自分の気持ちを伝えると、先生はとび色の目を丸くした。

けれどその瞳は次第に細められ、口元がおもむろに緩み出す。

やがて全身がプルプルと震えた後、はち切れたような満面の笑顔が溢れた。


「うん! もちろんいいよ! 私の大切な本だから大事にしてね!」



 それから、私は『英雄カルシスの伝説』を毎日読書するようになった。

第二章の物語はどんどん波乱を増し、カルシスはたくましく試練を乗り越えていく。ページをめくる度に胸がドキドキして、ハラハラして、そして時には涙で瞳が潤んだりもした。


 先生、本当にいい趣味してるな。



 ――あれ? 私、いつの間にあの人のことを『先生』と呼ぶようになったんだろう? あれほど他人と関わることが嫌いだったはずなのに、私はあの人と一緒にいることを当たり前のものだと受け入れている。まるでそれは、生まれてからずっと同じ故郷で暮らしてきたように。



『ねぇねぇお母さん、もっと絵本読んで!』

『ふふっ、しょうがないわねエルザ。でも今日はもう夜も遅いから、あと5分だけね』

『ええ~っ!? まだ全然ねむたくないよ~!』



 過去に見失った懐かしい光景が、思いがけず蘇る。

そういえば私、ずっと前から本が好きだった。

それをもう一度あの人は思い出させてくれたんだ。



 ――お母さん――



 私の心の中に、くすぐったくなるような憧憬の感情がせめぎ合う。

幸せだった頃の残像に、あの人の笑顔が重なった。


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