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エルザのことを忘れない  作者: 区隅 憲
後編 ~大人になった執着~
22/22

【最終回】あなたをずっと大好きなままでいる

――1――



 コンコン コンコン


「マウル、朝ごはんできたよ」


 扉を優しくノックしながら、私は部屋の中にいるマウルに呼びかけた。

トレイに乗せた湯気立つオニオンスープは、わずかな量でも香ばしいにおいが漂っている。朝の眠気はすっかり晴れていた。けれど部屋の中から返事はかえらない。私はそっとドアノブを回し、冬の寒さが和らいだ日射しがさす室内に入った。


「おはようマウル。体の具合、大丈夫かな?」


 私は食事のトレイを運びながら、今もベッドで眠るマウルの元に歩み寄る。

辺りは徹底的に掃除され、清浄な空気が流れていた。余計なものが一切片付けられ、すがすがしいほど閑散とした二人きりの空間だった。


「じゃあまずは、脈拍を見てみるね。その後お熱が出てないかも確認するから」


 机にトレイを置き、マウルの腕を手に取る。

汗一つ掻かない無表情。目を覚ます気配はやっぱりない。


 少しめくれた毛布からは、顔の幅ほどしかない小さな両肩が覗いていた。

茶色の髪の毛もたくさん抜けて、今はまるで男の子のように短い髪しか生えていない。


 ――マウルはすっかり赤ちゃんの姿になっていた。


「……うん、脈拍も熱も落ち着いてるね。じゃあちょっとご飯にしよっか? 私が食べさせてあげるね」


 いつもの体調チェックを終えると、くたくたに煮込んだ微塵切りの玉ねぎをスプーンで掬い取った。私はマウルの鼻をつまんで顎を上げさせ、自然と開いた口の中にそっとスプーンを差し入れる。ずっと体が動かずにいたマウルは、無意識にオニオンスープを飲み込んだ。


「よし、今日もちゃんとご飯食べれたね。美味しかった? ちょうど市場で玉ねぎが安く売られてたから、ついいっぱい買ってきちゃったんだ。……今週は、玉ねぎづくしになっちゃうかも」


 ちょっとした日常会話をしながら、私は残りのオニオンスープを自分で食べる。胡椒の辛味と玉ねぎの甘味が混じった、ちょうどいい温かさのスープだった。これならきっと、マウルも美味しいと思ってくれるはず。――そうだったらいいなと、私は願った。


「あのね、マウル。今日はね、ずっとベッドにいたままじゃ退屈だと思うから、本を読んであげようと思うんだ。何の本だと思う? 


 答えは――『英雄カルシスの伝説』! マウルが大好きだった本だよ! カルシスはあなたの生まれ故郷リヴァスの英雄で、すごくかっこいい人なんだ」


 私は食事と一緒に運んできた『英雄カルシスの伝説』を両手に持ち、マウルの目の前に掲げる。マウルは目を閉ざしているから、きっとカルシスの本は見えていない。もう赤ちゃんの姿になっているから、言葉を理解してるかすらもわからない。


 ――それでも私は、この声がマウルに届いていると信じようとしていた。


「じゃあ、早速読んでいくね。


『カルシスはリヴァスの商人の家に生まれ、貧しい人々に施しを与えて暮らしていました。カルシスはその良き行いから人々に愛されて、やがて英雄と呼ばれるようになりました。そんな偉大なるカルシスの歴史を記したのが、この伝記なのです』」


 私がやっていることはただの自己満足なのだろう。

意識を失ったマウルに読み聞かせをしても、意味なんてないのかもしれない。

奇跡が起こらないことは、もうとっくにわかっていた。


 それでも、例え意識を失っても、記憶を失っても、心というものが人間の内側にはきっとある。私がこうして語りかければ、目に見える形でなくてもマウルの中で変化が生まれているはずだ。


 ――マウルは夢の中で、失われた記憶を呼び覚ましている。

私はそう願って、マウルに一つずつ言葉を語りかけることを決めたのだ。


「じゃあ、続きを読んでいくよ。


『その時、少年カルシスは騎士に向かって叫んだのです。<この街を守るために僕に剣術を教えてください!>。ボロボロに傷ついても立ち上がったカルシスの姿に、騎士は驚いて目を丸くしました。そして真っすぐな少年の瞳を見つめ続けると、諦めたように彼の入隊を許可しました』」


 私の考えは、きっとただの信仰だ。理由を並べて祈ることで、自分自身の気持ちを整理したいだけなのかもしれない。やっぱりこれはマウルのためというよりも、自分自身の心を慰めるための儀式だった。


 それでも私は『英雄カルシスの伝説』を読み続ける。私たちが共有した、大切な思い出の物語。この本に出会えたからこそ、私は勉強をする喜びを知り、マウルと再会するきっかけにもなった。


 ――私とマウルの繋がりは、この本があったからこそ生まれたんだ。


「次のお話はね、特に私たちが大好きなエピソードだよ。マウルも覚えてるかな? この章を読み聞かせしてあげたら、マウルったらすごく泣いちゃって。私も、すごく心に残ってるんだ。じゃあ、早速読んでいくよ?


『荒れ果てた街の中、カルシスは戦争で母親を亡くした婦人の前に立つと、そっと手を差し伸べ、ひたむきに言葉を送ったのでした。


<あなたを大切に思ってくれる人が必ずいる。あなたを愛してくれる人が必ずいる。だから、あなたも人を愛しなさい。あなたが誰かを労わることで、あなた自身も大切な人を見つけられるから>』」


 一つ一つ丁寧に読み上げると、私は『英雄カルシスの伝説』からフッと顔を上げる。マウルは穏やかな無表情のままベッドに横たわっていた。その姿は相変わらずピクリとも動かない。それでも私は、微笑んでその姿を見届けることができる。


 ――例えあなたがどんな姿になっても、受け入れると決めたから。

そして私は今さらのように、つい先ほど気づいたことを伝えた。


「……この『婦人』って、マウルのことだったんだね。どうしてそんなにカルシスのことが好きなのかってちょっと疑問だったけど、実際にカルシスと会ってたんだね。……だからあなたは、自分を救ってくれたカルシスに憧れて、私にカルシスの言葉を教えてくれた」


 そして私はゆっくりと本を閉ざし、膝の上に乗せる。本を見なくても、その教えを暗唱することができた。受け継がれた言葉は、体の奥深くまで刻みつけられていた。


「『誰かを労わることで、あなた自身も大切な人を見つけられる』。

本当にその通りになったよね? 先生だった頃のあなたが私の傍にずっといてくれたから、私ももう一度誰かを信じることができた。


 ……忘れてないよ、ずっと。あなたが私の『大切な人になる』って言ってくれたことも。この関係が『私とお姉さんみたいだね』って言ってくれたことも。ひどい喧嘩をしたこともあったけど、私たちはお互いのことを大切な人だと想い合えたよね? ――あなたがずっと私を見守ってくれたから、私もあなたを守れたんだ」


 語り掛ける感謝と告白が、とめどなく泉のように溢れてくる。あなたに慈しまれた過去も、あなたを慈しんできた今も、全てが宝物のように大切だった。例えどちらかの意識が錆びれても、意思疎通すらできなくなっても、『絆』というものは潰えない。そんな考え方を受け入れることが、やっと今になってできるようになった。


「じゃあ、今日はそろそろ終わりにするね。マウルも少し長話を聞いて疲れたでしょ? ゆっくり休んでね」


 私が語りかけを終えた頃、ちょうど夕暮れの時刻になっていた。冬の薄闇と春の光が混じり合った、不思議な季節だった。


 私は食事のトレイと『英雄カルシスの伝説』を手に取り、マウルの部屋から去っていく。このなだらかな時間がいつ終わりを迎えるのかはわからない。


 それでも私はマウルの手を、最後まで握り続けようと決意していた。



*****



 コンコン コンコン


「おはようマウル。体の具合、どうかな?」


 今日も私はマウルの部屋を訪れ、マウルに優しく声をかけた。

部屋の主の返事はいつものようにかえってこない。

それでも私はゆっくりと傍まで歩み寄り、眠りにつく穏やかな姿を確認しようとする。近づくと、ぷーんと鼻を突く臭いがした。


「……うん。また漏らしちゃったんだね。ご飯を食べてるんだから、当然だよね。待っててマウル。すぐ体をキレイにしてあげるから」


 そして私はキッチンへ向かい、体を洗うものと体を拭くものを用意する。

元の部屋に戻り着替えやベッドシーツをクローゼットから取り出すと、いつものようにマウルの服を脱がせて洗体を始めた。


「よし、体キレイになったねマウル。後は服を着替えて、ベッドに戻ろうね」


 既に手慣れた作業はあっという間に終わった。

服を着せてマウルを抱き上げると、そっとベッドに寝かせ毛布を被せる。

一通りの作業に区切りがつくと 私は椅子を引いてベッドの前に座った。


「今日はね、マウル。ちょっと昔話をしてみようと思うんだ。昔話っていうのは、私たちが出会った頃の話で。また長くなっちゃうと思うけど」


 脈拍と熱を測りながら、私はまたマウルに話しかける。

体調は落ち着いているはずなのに、やっぱり意識だけが戻らない。

それでも私は、この思い出話が大切な記憶の一つになると信じていた。


「最初に孤児院で出会った頃は、すごく最悪だったなぁ。だってあなたってば、お母さんに捨てられた私の気持ちも考えないで、いつもいつも部屋に押し入ってばっかりきたんだもの。全然デリカシーなんてなくて、私が何度追いかえそうとしてもお構いなしで。ホント、厄介な先生が来やがったって思っちゃった。


 でもあなたは、そんな私のことを何度も部屋から引っ張り出してくれたよね? 料理を教えてくれたり、文字の書き方教えてくれたり、あげく、友達を作れって何度もしつこく迫ってきたり。


 最初は鬱陶しかったけど、いつの間にかあなたといると楽しいって思えるようになった。少しずつあなたに心を開いて、少しずつ誰かと会話ができるようになって。……それから私は、あなたのことを『先生』って呼ぶようになった。私にとってあなたは、本当に憧れの恩師だった」


 一つずつ過去を話し始めると、どんどんと思い出が溢れてきた。嫌な気持ちになったことも事実だけど、そんなあなたに感謝している気持ちも本当で。


 強引に手を引かれ、やがてあなたと一緒にいることも当たり前になった。その時抱いた想いも、包み隠さず目の前のあなたに打ち明けた。


「あなたが私の『大切な人になる』って言ってくれた時は、正直怖いって思ったんだ。また誰かに見捨てられたら、本当にもう心が壊れてしまうって自分の殻に閉じこもってた。でも、あなたが私の手を握ってくれて、あなたが私の頭を撫でてくれたから、私は温かくなって心が溶かされたんだ。


 あなたも手が震えてたよね? でもそれがかえって、信じるきっかけになったんだと思う。今ならわかるよ? あなたが本当は人間関係に臆病な人だったんだって。強引でいつも明るいフリをしてたのは、そうしないと誰も自分の事を受け入れてくれないって考えてたからだよね? でも、そんな寂しがり屋で傷つきやすい人柄だからこそ、私たちは惹かれ合ったんだと思う」


 今振り返れば、はっきりと共感できることがあった。病気のせいで誰とも友達になれなかったあなたの境遇は、お母さんに捨てられ心を閉ざしていた私と重なっていたのだと理解できた。――私自身も寂しい傷跡を抱えていて、あなたに懐かしい面影を重ねていた。


「……だから私は、孤児院を卒業してからも、あなたのことが忘れられなかった。あなたと積み上げた思い出が大切すぎて、私はあなたから心が離れることができなかった。


 だから、あなたが私の記憶を全部失っても、私はあなたを孤児院から引き取った。あの頃の絆を取り戻したくて、何度もあなたの記憶を呼び戻そうとして。でも、それが余計に何も覚えていないあなたを傷つけてしまって……。


 でもあなたは、私をもう一度大切な人だと認めてくれた。あなたと喧嘩して、あなたと仲直りして、それから、私はあなたの母親になった。……嬉しかったよ。初めてあなたが『お母さん』って呼んでくれた時は。あなたみたいな素敵な大人になれたんだって、その時自分で自分を誇りに思えた。……例え立場が逆転しても、あなたと私はかけがえのない絆を結ぶことができたんだって、自信を持てた」


 一度は離れ離れになった二人の繋がり。それでもやっぱり、ずっと忘れることができなかった。あなたと積み重ねた親子にも似た関係は、本当に、私の人生そのものだった。剥がれ落とすことのできない半身。喜びも悲しみも写し鏡のように共有した。――だから今でも、私はあの頃の記憶をあなたと分かち合いたかった。


「……トマトスープ、本当に美味しかったなぁ。あなたが私にはじめて料理の作り方教えてくれたよね? あなたが先生だった頃たくさん作ってくれて、何回おかわりしたかもわからないや。


 それに、覚えてるよ?

大人になった私が仕事で疲れ切って倒れた時、子どものあなたは代わりに朝ごはんを作ってくれたよね? 小さな女の子が料理したとは思えないほど美味しくて、涙まで出てきちゃって――本当に、懐かしい味がした」


 最後の感想には、二つの意味が込められていた。一つは先生だった頃のあなたとの記憶。そしてもう一つは、あなたに重ねてしまったずっと遠い過去の記憶。今でもずっと、忘れられない。だってそれは、あなたに繋がりを求めた私の根底にある望みだったから。


「……うん、もう正午過ぎだね。まだ朝食食べてなかったよね。そろそろまたご飯にしよっか?


 そうだ。せっかくだから、今度は私がトマトスープ作ってあげるよ。今じゃあなたに負けないぐらい料理上手になったし、もしかしたら美味しすぎて、あなたもびっくりして目を覚ましちゃうかも」


 私はフフッと笑いながら、冗談交じりに言ってのける。

……本当にそうだったら、いいのにな。

でも、そんなことはあり得ないことも知っていた。


 それでも私は意気揚々と席を立つ。

大切なあなたにご飯を作れることに喜びを感じていた。


「じゃあ、ちょっとだけ待っててねマウル。トマトを切らしてたから買い出しに行って、その後美味しいトマトスープ作ってあげる。先生だった頃のあなたなら、私の料理褒めてくれるかな?」


 私は懐かしい光景に想いを馳せながら、あなたが眠る部屋を後にした。



*****



 コンコン コンコン


「マウル、おはよう。もうすっかり春になったね」


 燦々と朝の日射しに照らされた部屋に入り、私はいつものようにマウルに声をかけた。今日も穏やかに流れる二人きりの時間。繰り返された日常にもすっかり慣れ切って、ただ私は眠り続けるマウルに歩み寄った。


「じゃあ、いつも通り体の具合からチェックするね。その後朝ごはんにするから」


 私は小さな腕を取り、その手首に自分の人差し指を当てる。


 ト…………ト…………ト…………………ト………………ト…………………


 その律動は、普段のものとは違っていた。

弱々しく、不安定で、そしていつもよりも冷たかった。

心臓に手を当て直しても、鼓動が鳴っているかどうかすら曖昧だった。


「……そっか。もう〝その時〟が近いんだね」


 私はふぅ、と一息ついて肩を落とす。けれど不思議なほど冷静に受け止めていた。〝その時〟が来ることは、ずっと前からわかっていた。でもそれは痛みが伴う覚悟とは少し違う。ずっとマウルに語りかけ、心を整理したからこそ生まれた、世界を包み込むような優しい心境だった。


「……じゃあ、最後にまた私の話に付き合ってくれるかな? ちょっと持ってくるものがあるから待っててね」


 そう伝えると、私は自分の部屋へと踵を返した。本棚から一冊の本を取り出し、そして胸に抱えたままマウルの部屋へと戻る。


「マウル、準備できたよ。これはあなたの日記だよ。七十年間生きてきたあなたの気持ちが全部詰まった、大切な思い出の足跡。……もしかして、あなたは自分の日記とか読まれるの恥ずかしかったりするのかな?」


 私は半分冗談を言うように、笑いながら尋ねかけてみる。

やっぱりもう、返事はかえってこない。

それでも私は小さな手をそっと握りしめ、わずかに残る体温を感じ取ろうとした。


「でも、私は全部伝えるよ。あなたが病気でずっと独りぼっちだったことも。あなたがけっこう打算的な人だったことも。……それから、あなたが私のことを愛してくれてたことも」


 言葉にしてみると、少しだけ声が上擦った。

「愛してる」なんて台詞を口にするのは、生まれてはじめてだった。


 それでも、私はその言葉を受け入れることができた。

ずっと長い時間を共に積み重ねてきた過程が、私とあなたの関係を素直に肯定できた。


「じゃあ、1ページずつ読んでいくね。あなたは七十年前リヴァスで生まれて、そして生まれつき重い病気を患っていたの」


 私は静かに重いトーンで口を開き、日記の最初のページを読み上げる。


『子供の頃から病気のせいで差別を受けてきた私を、孤児院のみんなは受け入れてくれるだろうか?』


 ファイウェル孤児院に訪れたあなたは、孤児院のみんなと仲良くなった。

でもそれには打算があって、自分がどんどん若返って子どもになった時に、自分の世話をしてくれる人が必要だったから孤児院に入ったのだった。


「あなたは病気のせいで、ずっと誰からも受け入れてもらえなかった。

だから本当のあなたはすごく寂しがり屋な性格になってしまって、誰にでも明るく振る舞って他人に好かれようとしていた。


 そんなあなたを私は鬱陶しいって感じてた。

どうせ何か下心があって近づいてきてるんだって考えてたら、案の定その通りで。


 ――でも、そんな偽善があったからこそ、私とあなたは仲良くなれた」


 そして、続きのページをめくり、また読み上げる。


『だから私は、エルザちゃんを助けてあげたい。

かつての私と同じ境遇にいるあの子を、どうしても放っておけなかった』


 孤独だった私のことを知ったあなたは、自分自身を投影した。

唯一自分の味方でいてくれたお母さんを戦争で亡くし、後を追おうとするほど世界に絶望していた。そんなトラウマを抱えていたからこそ、自分と同じようにお母さんがいなくなった私に仲間意識を抱いていた。


「あなたは、私の部屋に何度も押しかけてきたよね? 『出ていけ』って言っても出ていかないし、勝手に部屋には居座るし……でも、そんな強引なあなたにけっきょく私は救われたんだ。あなたは寂しいから私に近づいて、私も寂しいからあなたに惹かれて。……けっこう危ない関係だったんじゃないかって思う。でも、あの頃あなたと一緒にいた絆は、本当に宝物のように大切だったよ。……それからあなたは、あの時私と約束を交わしてくれた」


 あの頃抱いた想いをありのまま伝え、私はまたページを繰り、読み上げる。


『それでも、私はエルザと出会えてよかった。

たとえ病気が進行して記憶が曖昧になったとしても、エルザとの思い出は私の一番の宝物だから』


 孤児院を卒業する時、二人で思い出を語り合った。

時間が経つのも忘れて笑い合い、夕暮れになって別れが訪れた頃、二人でずっと泣き合った。あの瞬間は私たちにとって、ずっと忘れられない思い出になった。


「……でも、あなたは記憶を忘れてしまった。あなたは生まれつきの病気のせいで、記憶もどんどん失われてしまって、あの約束さえ忘れてしまった。……本当に、あなたは残酷な人だった。記憶喪失になるってわかっていながら、あんな約束を交わしたんだもの。私はあなたに裏切られて、また大切な人においてけぼりにされたんだって恨んでしまった」


『あの子の名前、なんて言ったっけ?

また私はあの子の名前を忘れてしまう』


 その文面を読み上げると、やっぱり胸の傷が疼いてしまう。

忘れられることは、私にとって大きなトラウマだった。

その深い傷口を埋めるために、子どもになり記憶を失ってしまったあなたを、私は強引に連れ去った。


「……でも、あなたは完全に私のことを忘れたわけじゃなかった。

子どもの姿になっても、例えあの頃の記憶を失くしていても、あなたはこの日記を書き続けていた。あなたはずっと心の奥深くで、私との思い出を刻みつけていた」


 私はまたページをめくり、拙い文字で書かれた日記を読み上げる。


『私はもうマウル先生じゃないけど、それでも私、お姉さんのことが大好きだよ。

お姉さんのこと、もう忘れたくない』


「私を『お姉さん』と呼ぶようになったあなたは、必死で自分の病気と抗っていたんだ。たとえ記憶が失われても、もう一度大切な思い出を塗り直そうとしていた。私はそれが嬉しくて、温かくて、だからもう一度、あなたを愛することができた」


 ページをめくる度に、文字はどんどん短くなり、幼く丸くなっていく。


『今日ははじめてお姉さんのこと、お母さんってよんじゃった。最初はすごくはずかしかったけど、お姉さんが体をムズムズしてわらってるのをみたら、私までうれしくなっちゃった』

『ママがかみの毛きってくれた。ちょっとへんなの』


「あなたは私を『お母さん』って呼んでくれたし、あなたは私を『ママ』って呼んでくれたよね? そう呼ばれるのがすごくくすぐったくて、だから私はあなたの母親になれたって胸を張れたんだ」


 確かな絆と誇りを感じながら、再びあなたが記した文字を読み上げる。そこにはいくつもの、あなたと私が歩んだ足跡が刻まれていた。どれも大切で、どれも手放せない、一つの糸で繋がれた記憶――。


 やがて日記を読み上げてから長い時間が過ぎ、春の夕差しが窓辺から差し込む。日記をめくり続けた私の手は、とうとう最後のページを開いていた。


『まま だいすき おいしいごはんつくってありがとう』


 最後の文章は、下手すぎて、読みづらくて、誤字まであって短い。

けれどその拙い想いを伝えようとする姿を思い浮かべると、何故かどんどん黒いインクがかすんでくる。


『わすれない わすれない いっぱいかいてある

わすれないって なんだろう』


 読み上げた文字は滲みはじめ、もはや判読することさえ難しくなった。

それでも私は、その拙い文字の続きをはっきりと覚えていた。


「『まま わたし』……私……っ!」


 ずっと平気だったはずなのに、その言葉に触れた途端、私はもう日記が読めなくなってしまう。それでも私は、日記に綴られた想いを最後まで振り絞った。


「忘れないッ!!」


 その言葉は自分自身の声と重なった。

ずっと秘め続けたあなたへの想い。ずっと堪えてきたあなたとの別れ。

せめぎ合う感情が全てない交ぜになり、日記の上には温かな雫がぽろぽろと零れ落ちる。瞳に映るものは全て曖昧な光の粒に変わり、開いている日記も、赤い夕差しも、何もかも見えなくなった。


「マウル……マウル……マウル……っ!」


 愛しさが込み上げ、その名前を何度も呼んでしまう。やっぱり寂しさは消えなかった。あなたを失いたくなかった。それでも、あなたとこうして思い出を辿る一刻一刻が、何よりもかけがえのない宝物だった。


「私は、幸せだった……。あなたが私の大切な人になってくれて、私があなたの大切な人になることができて……!


 たとえあなたの記憶が全部なくなっても、私はずっと覚えているから……今までもこれからも、ずっとあなたのこと大好きなままでいるから……!

だから……だからっ……




 私を忘れないでいてくれてありがとう、お母さん……ッ!」




 あの日、夕暮れのベンチで言えなかった想いが全て溢れ出した。

ずっと探し求めた温もりが、ずっと諦めきれなかった面影が、全て目の前の女性ひとに重なった。


 寂しさも孤独も、全部まとめて埋めてくれた。

優しさも喜びも、全部まとめて教えてくれた。


 だから、ありがとう。

あなたが私のお母さんになってくれて、本当に嬉しかった。


「…………っ」


 その時、眠っていたはずの瞼が、かすかにおぼろげに開かれた。

薄く淀んだとび色の瞳は、ただじっとこちらを見上げ、唇をわずかに動かしている。


「エ……ル……ザ……」


 やがてその瞳はゆっくりと光を失い、静かに力を失くして閉ざされた。


「……お母さん? お母さんッ!!」


 私は叫び、お母さんの左胸に耳を当てる。

もう心臓の鼓動はなくなっていた。

何も聞こえなくなった胸の中で、私は声を上げて泣き崩れた。



 それでも私は、幸せを噛みしめていた。

お母さんは最期の時まで、あの日の約束を守ってくれていたから。




『エルザのことを忘れない』


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