あの日交わした約束をいつまでも忘れない
――2――
カビの生えたパンを、塩すらかけてないおかゆにつけて食べた。喉を通るだけの食事は何の味もせず、沈黙した空気だけがキッチンに漂った。
今はもう朝の10時過ぎ。以前の私なら忙しく働いている時間だったけれど、もう早くに起きる必要もない。だがその代償として私はこの狭いアパートにずっと閉じこもり、意識のない『アレ』の世話を続けなければならなかった。
(……パンも米も、なくなっちゃった。そろそろ……買い出しに出かけないと)
食べていたパンがなくなったことに気づいた私は、今度はスプーンを手に取りおかゆを掬おうとする。だが既におかゆもなくなっていた。いつの間にか、とっくに食事を終えていたのだ。スープ皿の底にスプーンがぶつかり、カラカラと音が鳴った。
(私は、いつからこうなったんだろう……あの娘のご飯、まだ運んでない……)
義務と化した役割が、脳裡で虚ろに囁かれる。だけど、体は全く動こうともしなかった。あの娘はもう意識など残っていない。『人間』と呼べるかすら怪しかった。私の時間は、全てあの小さな肉の塊に奪われていた。
何ヶ月も、何ヶ月も、私はあの植物人間と一緒だった。わずかな食事を無理矢理飲み込ませ、新しい服とベッドシーツを交換して清潔を保つ。まるでそれは、自分自身が燃え尽きてしまわないよう火をくべるように。
だけど、それに何の意味があるのだろうか?
空になった皿底でスプーンをかき回し、同じ煩悶を繰り返す。職を失い、娘への愛情も消え、生きがいすらなくなった。ただいつ終わるかもわからない『介護』という牢獄に閉じ込められている。
――あの時、いっそ全てを終わらせていればよかったのかな?
そんな人でなしの後悔が、何度も頭の中を過った。……今からでも遅くはない。あの娘の首を絞めて、私も死ねば――
だがそこではたと、思考を止める。
(……食事を運ぼう。それ以外私にやるべきことなんてない。これ以上考えてたら、本当にあの娘を殺してしまう)
私は立ち上がり、わずかに鍋に残っていたおかゆを皿に盛る。もう薬を飲ませる必要もない。そんなことをしても、とっくに治る見込みなどなかった。
キッチンを出て、部屋の廊下へと進む。じめじめとした埃っぽさが家全体に漂っていた。だけど私は気にも留めず、ブリキ人形のように足を運ぶ。
ガチャリ
部屋の主に呼びかけもせず、扉を開ける。以前の私なら『マウル』と呼びかけノックしていたが、それをする必要性もなくなっていた。そして今室内に踏み入ると、辺り一面に鼻を突く異臭が漂っていた。
(…………)
私はその臭いを嗅いで押し黙る。これであの娘が大便を漏らしたのは何度目になるだろう? その度に私は汚れ仕事を請け負い、何時間も取れない臭気と格闘しながら身体とベッドを清潔にしなければならなかった。
(……めんどくさいなぁ)
私は汚物を触る不快感や拒絶感すら湧かず、ただそんな呟きが頭に浮かんだ。何のやりがいもなく負担だけがのしかかる。繰り返された疲労は体中を嫌気で蝕んでいた。
(……やりたくない)
そして私は踵を返し、異臭を放つ部屋から出た。あの娘の顔さえ見るのが苦しい。あの時後悔した衝動さえ再び込み上げそうになっている。それを避けるために、私は逃げた。リビングルームをそのまま抜け、できるだけあの娘から遠ざかろうと自分の部屋に入った。
久しぶりに入ると、ここも酷い惨状だった。出しっぱなしの仕事道具が散乱しており、辺り一面に埃が羽虫のように舞っていた。天井の角には蜘蛛の巣すら張っている。……まるで廃墟だ。あの娘の介護が始まってから、私はロクに掃除すらしなくなっていた。
(……私は、いつからこんな風になったんだっけ? 仕事をしなくなってから、私は本当に廃人になってしまった)
自分の落ちぶれた姿を自覚した瞬間、いてもたってもいられなくなった。せめてもの抵抗をするために、私は部屋の掃除を始めた。
ガサゴソ、ガラガラ、シャッ、シャッ、シャッ
忙しなく音を立てて、私は単純な作業に没頭する。それが楽しいとすら思えてしまった。綺麗になっていく部屋は、まるで儀式の場を整えているようだった。
だが、それはただの逃避だった。こんなことをしてもあの忌まわしい存在が消えるわけでもない。それでも義務や疲労を一時的に忘れることができた。
しかし時間が経つにつれ、片付けをする物はあっという間になくなっていく。作業の終わりが近づくにつれ、私は現実に引き戻された。
(……これが終わったら、またあの娘のお尻を綺麗にしないといけない。でも、あの部屋にはもう戻りたくない)
せっかく部屋を綺麗にしたばかりなのに、あの汚らしい娘のことを思い出すと、また憂鬱と嫌気がのしかかる。あの娘の介護をするのが母親の役目。けれど私はもう、自分を母親などと思えなくなった。
それでも手持無沙汰になった手は、いつものように机の引き出しを開けた。あの娘に慈悲があるわけでもなく、ただ何もしない時間が苦痛で仕方なかっただけだった。
だけど、引き出しの中にはもう写本に使っていた原稿用紙は残ってなかった。そういえば一昨日汚物を処理した時に切らしてしまったのだ。その事実を思い返し、私は自分で自分に呆れてしまう。あんなに大切だった職人の誇りを汚すことに、もはや何の疑問も躊躇いも生まれなくなってしまったのだ。
途端に、私は笑いが込み上げてくる。部屋の中で声を立てて独り笑い、何もかもがどうでもよくなる。そして私は壁際に置かれた本棚まで移動し、埃被った本たちに目をつけた。
(こんなもの、どうせ読まなくなったんだ。尻を拭く紙なんて何だっていい!)
そして私は犠牲にする本を見繕う。そこには人間の叡智に対する尊重も、職人の誇りに対する敬意もない。ただみんなゴミを処分する紙切れでしかなかった。どうせこの紙束たちも、全部尻ぬぐいのために捨てられていくんだ!
(…………!)
そして、私は一つの本に目が留まる。
『英雄カルシスの伝説』
あの娘が大好きだった、あの娘が大切にしていた本だ。カルシスはあの娘にとって憧れであり、あの娘が会いたがっていた英雄だった。
『あなたを大切に思ってくれる人が必ずいる。あなたを愛してくれる人が必ずいる。だから、あなたも人を愛しなさい。あなたが誰かを労わることで、あなた自身も大切な人を見つけられるから』
頭の中にカルシスの教えが思い起こされる。
あの言葉があったからこそ、私はあの人と絆を結んだ。
私がお母さんに捨てられた事実を知って泣いた時、あの人は私の手を握ってくれた。だが、それがどうしたというのだろう?
『いないなら、私がなってあげるよ。エルザの大切な人に。エルザのお母さんと同じぐらい、私があなたの大切な人になるから。……だから、もう泣かないで』
『言ったでしょ? 友達がほしいからだって。ずっと忘れることができないような、大切な人がほしいの。だからエルザも、私のことを忘れないで』
遠い過去の記憶が鮮明に蘇ってくる。
だけど一つ一つ言葉を追う度に、笑いしか込み上げなかった。
あの人は今、私を忘れてずっと眠りこけている。今さらそんな優しい言葉を思い出しても、私の心には何一つ響かなかった。
(先生……あなたの言ったことは、全部綺麗事でしかなかったよ)
運命の皮肉めいたものを感じ、私は乱暴に『英雄カルシスの伝説』を掴み取った。意趣返しのような、暴力的な嗜虐心が脳裡を支配する。――この本で尻を拭ってやろう。どうせあなたはこんな本のことも忘れてるだろう!――
バサバサバサッ!
だが、カルシスの本を引き抜こうとした瞬間、勢いあまって他の本も落ちた。床の上に無造作に散らばったそれらは、私の眼下に飛び込んでくる。
それを見た瞬間、私は呼吸を止めた。ごちゃごちゃの床の上で、『英雄カルシスの伝説』と同じぐらい古ぼけた本が視線に留まった。
『マウル・ジェニエイバの日記』
綺麗な筆致で記されたその表題は、私の沈み切った記憶を刺激した。
かつての私が大切にしていた本。あの人との思い出が刻まれた記録。
もうとっくに何が書かれていたかなんて忘れていた。
何度も読み返したはずなのに、記憶は遠い彼方に飛んでしまっていた。
それでも、この日記があの娘を引き取るきっかけになったことだけは覚えている。私は吸い寄せられるように手を伸ばし、その分厚い日誌を拾い上げた。
(……マウル)
私は開かれた本のページをめくり直し、最初のページから読み直す。
何か目算があったわけでもなく、ただ無意識に黒く滲んだ筆跡を追う。
そして私はもう一度、あの人の記憶の渦へと沈み込んだ。
*****
『〇〇年〇〇月〇〇日
明日はとうとう、ファイウェル孤児院に入所する日がやってきた。
そこで孤児院の先生として働くことになる。けど本当の目的は、私が子供になって記憶を失った時に、世話をしてくれる人が必要だったからだ。
でも、そんな都合のいい考えが上手くいくかどうかわからない。
子供の頃から病気のせいで差別を受けてきた私を、孤児院のみんなは受け入れてくれるだろうか?』
『〇〇年〇〇月〇〇日
今日はファイウェル孤児院に入所し、そこで子供たちと仲良くなった。
よかった。ひとまずは私のことをみんなに受け入れてもらえている。
でも、病気のことは最後の最後まで隠し通さなければならない。
私の化け物みたいな正体を知ったら、きっとみんなから拒絶される。
だから私には、私の病気ごと受け入れてくれるような大切な人が必要だった』
(…………)
はじめに飛び込んできた日記の記述には、あの人のエゴが詰まっていた。自分が老人から子供になっていき、最終的には赤ん坊になり、そしてその過程で記憶も失われていく。だから自分を世話してくれる人が必要なのだと打ち明けていた。
その立場には、確かに同情できる部分もある。きっとあの人だって、自分の奇病のせいで相当苦しんでいたはずだ。……だけど、その苦労を他人に押しつけるなんて身勝手すぎる。あの人は、残された側の人間のことを少しでも考えたことがあるのだろうか?
――やっぱり、この紙も尻ぬぐいに使ってやろうか?――
そんな反発を抱きながら、私は日記を読み進めた。
『〇〇年〇〇月〇〇日
エルザちゃんという、ちょっと孤独な感じの女の子とお話した。
彼女はお母さんに捨てられてしまい、それでも、お母さんが戻ってくると信じて待ち続けている純粋な子だった。
エルザちゃんは繊細で、不器用で、お母さん以外の人のことを信じられない。そのせいで誰にも心を開くことができず、自分の部屋の中に閉じこもってしまっていた。
私も、お母さんを戦争で失ってしまったからわかる。
唯一の自分の味方がいなくなるって、本当に世界の色が変わってしまうぐらい辛いことだった。
だから私は、エルザちゃんを助けてあげたい。
かつての私と同じ境遇にいるあの子を、どうしても放っておけなかった』
『〇〇年〇〇月〇〇日
エルザが今日泣いていた。
お母さんに捨てられたトラウマを思い出し、世界中の全てを憎んでいた。
あの頃の私と同じだ。
私もお母さんが死んでしまった時は自暴自棄になり、後を追うことさえ考えていた。病気の私を受け入れてくれる人なんて、もうどこにもいないと諦めてしまっていた。
だから、エルザの気持ちがわかってしまう。
私もいつも寂しさを抱えていて、誰かが一緒にいてくれないとすぐに壊れてしまうから。だから私は、エルザの大切な人になると決めた』
(…………)
あの人が私に近づいたのは、あの人が私に対して同じものがあると感じていたからだった。かつての私はあの人に優しくされたことが嬉しくて、だからあの人に気を許せた。そして私もあの人と同じように、あの人にすっかり依存しきっていた。
あの人は、確かに私を救ってくれた。
だけどそれも、純粋な善意から生まれたものじゃない。
あの人は自分が記憶を失う肩代わりに、私に自分の記憶を押しつけたのだ。
――私もあの人も、独りぼっちだから寂しかっただけ。
寂しい者同士で傷を舐め合って、けどどちらかが消えてしまえば破綻する脆い関係だった。
『〇〇年〇〇月〇〇日
今日はエルザと一緒に部屋を掃除した。「掃除なんて面倒くさい」って言うから菌のことを教えたら、エルザってばすごく怯えちゃって。ちょっと可愛いって思っちゃった』
『〇〇年〇〇月〇〇日
今日はエルザと一緒に買い物に出かけた。ふと目を離したらエルザが迷子になっちゃって。その時はすごく不安になった。でもその後お肉屋さんでエルザを発見したら、ものすごくキラキラした目でお肉を見てて。何だかもう全部許せちゃった』
続けて読んだページには、あの人との思い出が綴られていた。
文章から嬉しさが伝わってきて、私もその時確かに幸せだった。
それを思い出した瞬間、何故か勝手に目に涙が溜まってきた。
こんな記憶、今さら思い出したって意味なんてないはずなのに……
それでも私の胸の内には、温かなものが込み上がらずにはいられなかった。
『〇〇年〇〇月〇〇日
エルザが今日、孤児院を卒業してしまった。
やっと大切な人ができたのに、私はまた独りぼっちになってしまった。
それでも、私はエルザと出会えてよかった。
たとえ病気が進行して記憶が曖昧になったとしても、エルザとの思い出は私の一番の宝物だから。
私は、エルザのことを忘れない』
「……せん、せい」
埋もれていたはずの想いが、思わず言葉に零れてしまった。
あの頃の日々は確かに私たちの宝物で、本当に、本当に、お互いのことが大切だった。
だからこそ、あの人は『忘れない』と力強く約束したのだ。
きっとその瞬間は、本当に『忘れない』と心に深く刻みつけたのだろう。
だけど――私はもう、この日記の続きを思い出していた。
『〇〇年〇〇月〇〇日
あの子の名前、なんて言ったっけ?
また私はあの子の名前を忘れてしまう。
エルザ
エルザ
エルザ
エルザ
エルザ
日記を読み返して、何度も書かれている名前を真似して書いてみる。
でも、思い出せない。何か大切なことを忘れているような気がする。
エルザ
エルザ
エルザ
エルザ
エルザ
その名前を書く度に、何故か涙が溢れて止まらなかった』
その独白は残酷で、私の胸の奥をもう一度叩きのめした。
やっぱりあの人は病気に抗えず、私のことを忘れてしまった。
――あの約束が、嘘になった瞬間だった。
その守られなかった誓いは今もなお尾を引き、だからこそ、私をずっと苦しめている。
『エルザ、ごめんなさい。忘れないって言ったのに、記憶喪失のこと黙ってて』
日記の続きをめくると、最後にそんなメッセージが記されていた。
涙の跡が滲んだ、あの人の懺悔の言葉。
――忘れてしまうぐらいなら、あんな約束してほしくなかった――
今となっては、あの人の軽率な宣誓の言葉を恨んでしまう。
そのせいで私は、あなたを引き取らなければならなかったんだ。
*****
あの人が書いた最後の記録を読み終えると、私はゆっくりと顔を上げた。
過去に私が日記を読んだ記憶では、ここで記述が終わっている。
これ以上読んでも、何も書かれていない。
結局あの人が記憶を忘れてしまった事実を再確認しただけで、何かを得られるわけでもなかった。傷口にもう一度悲しみを刷り込まれただけだった。
(もう、いい……この日記も、捨ててしまおう)
私は冷め切ったため息を吐き、あの人の記憶をゆっくりと閉ざそうとする。
だけど、傾けられた本のページがさらさらとめくれ、ふいに違和感に気づいた。
日記を読んでいる最中、思い返すとやけに滑らかにページがめくれたのだ。長い期間開かれていない本は、通常ならページ同士が引っ付いてめくりにくくなる。
私はこの日記を何年も読んだことがない。だとしたら、私以外の誰かがこの日記を最近まで読んでいたのだ。
(まさか……!)
それに思い至ると、私はもう一度最後の謝罪のページを開き、また1ページだけめくってみる。それは『最後』のページではなかった。その日記には続きが記されていた。
子供が書いたような拙い字。読みにくくて、まるでミミズが走ったかのようだった。それでもそこには、確かに懸命にペンを走らせた意思が残されている。
私はハラハラと瞳を輝かせながら、もう一度記憶の渦へと沈み込んだ。
*****
『お姉さんが読み聞かせをしてたこの日記に、私もこっそり日記を書くことにした。お姉さんいわく、この日記を書いたのは私自身らしい。
でも、ぜんぜん記憶にのこってない。
これが私だっていわれても、知らない人の日記を読んでるみたいだった。
でも、この日記を書いた人が、どれだけお姉さんのことが大好きだったかって気持ちはわかる。本当にこの人はお姉さんのことが大切で、病気になってもそれは変わらないんだって気持ちがすごく伝わってくる。
もし私が本当にこの人なら、なんていうか、すごく嬉しいな。
お姉さんと出会ってからまだ数ヶ月しかたってないけど、それでも私も、こういう関係に憧れちゃう。
私も、お姉さんのこと忘れたくないな』
何気ない口ぶりで書かれた文章は、確かにあの娘の言葉だった。
私があの娘と再会してから間もない頃、私とあの娘は喧嘩してしまった。
あの娘は家出をし、私はあの娘と一緒にいる資格などないのではないかと悩んでしまった。
だけど、あの娘は戻ってきて、最後には照れながら私を母親だと認めてくれた。それが嬉しくて、温かくて……だから私はずっとあの娘の傍から離れないと決めた。
そしてその気持ちは、あの娘にとっても同じだったのだ。
『今日はお姉さんといっしょに街に買いものに出かけた。街には人がいっぱいいて、おいしそうな匂いもいっぱいした。
お姉さんってば、あいかわらず私にお母さん面ばっかりして、私と手を繋ごうってグイグイ引っぱってきた。もうっ、私そんなに子どもじゃないのに!
でもなんかこういう感じ、前にもあった気がする。なんだかそれが嬉しくなっちゃって、けど照れくさくもなっちゃって。だから私はわざとお姉さんの手を離れてお肉屋さんにかけよった。
あの時のいのししのソーセージ、すごくおいしかったな。
「全く誰に似たんだか」ってお姉さんがつぶやいてたけど、もしかしてマウル先生のことなのかな? お姉さんが大好きだった、私自身だったっていう人。
私はもうマウル先生じゃないけど、それでも私、お姉さんのことが大好きだよ。
お姉さんのこと、もう忘れたくない』
マウルともう一度仲直りしてから、私とマウルはずっと一緒にいるようになった。わがまま放題で、甘えん坊で、それでも優しい気持ちも持っていて……。
変わってしまった所もあったけど、あの頃と変わらない所もたくさんあった。
私のことを大好きだと伝え、私のことを「忘れたくない」と願っていた。
『お姉さんが読んでくれた『英雄カルシスの伝説』、すごくカンゲキしちゃった!
とくに戦争でみよりがないおばあちゃんにいった台詞、あれすごくかっこいい!
<あなたを大切に思ってくれる人が必ずいる。あなたを愛してくれる人が必ずいる。だから、あなたも人を愛しなさい。あなたが誰かを労わることで、あなた自身も大切な人を見つけられるから>
はじめて聞いた言葉なのに、なぜかものすごくスラスラかけちゃう!
まるで昔からずっとカルシスのことを知ってたみたい!
あれ? 私、このセリフお姉さんに言ったことがある気がする。
いつだったかな? 私がマウル先生だったころに言ってたのかな?
でももしそうだとしたら、カルシスの言葉ってホントだった!
だって私も、お姉さんのことがすっごく大切だから。
私、この気持ちをいつまでも忘れたくない』
マウルは記憶を忘れたはずなのに、私に教えてくれた言葉を忘れていなかった。
たとえあの頃の記憶をほとんど失っていても、大切なことだけは覚えていた。
『忘れたくない』
『忘れたくない』
マウルは何度もその言葉を書き記し、私との絆を繋ぎ止めようと懸命に病気と戦っていた。
『今日ははじめてお姉さんのこと、お母さんってよんじゃった。最初はすごくはずかしかったけど、お姉さんが体をムズムズしてわらってるのをみたら、私までうれしくなっちゃった』
『今日は私のたんじょうびだった。おかあさんがひつじのお肉でごちそうをつくってくれて、すごくおいしかった』
『ママがかみの毛きってくれた。ちょっとへんなの』
日記のページの文字は、どんどん下手くそになっていき、短くなっていき、それでも書き続けることを止めなかった。どれだけ歩幅が小さくても、一歩ずつ足跡を残すように。その残された道標を誰かに伝えるように。
めくってもめくっても、古ぼけたページには私たちの思い出が埋め尽くされていた。その黒いインクの軌跡は、過去の絆も、今の絆も、一本の糸で結び止めていた。記憶を辿り続け、最後のページを開いても、刻まれた歩みはずっと止まっていなかった。
『まま だいすき おいしいごはんつくってありがとう
わすれない わすれない いっぱいかいてある
わすれないって なんだろう
まま わたし わすれない』
*****
そこには、マウルの想いが詰まっていた。
孤児院で出会ったばかりの頃のマウルも、アパートで一緒に暮らし始めた頃のマウルも、私を「ママ」と呼んでくれたマウルも、昔からずっと変わらない気持ちでいてくれた。
〝忘れない〟
託すように、願うように、その記たちが確かに日記の中で息づいていた。その記憶の痕跡を辿る度に、洗い流されるような熱が胸の底から込み上がった。
〝わすれない〟
記憶の底で眠っていたパズルピースは、一欠片ずつ一欠片ずつ組み上がって、懐かしい残像を映し出す。ずっと色褪せたままだった景色は光を取り戻し、やがて夕射しのベンチで交わし合った約束を思い出した。
「マウル……マウルっ!」
気がついたら、私はあの娘が待つ部屋へと駆け出した。
飛び込むように部屋に入ると、やっぱりマウルは眠っていた。
相変わらずむせかえりそうなほど異臭がして、残酷な現実は何も変わっていない。
――それでも、それでも、
私は伝えたかった。私は守りたかった。
『忘れない』と言ってくれたあなたの想いを。
『忘れないで』と言ってくれたあなたとの約束を。
「マウル……待ってて。すぐキレイにするから」
そう伝えるとすぐに部屋を出て、キッチンへ向かった。
温かいお湯を桶に張り、パンの包み紙を集め、手ぬぐいを濡らす。
そしてマウルの部屋へ引き返すと、着替えとシーツを取り出してベッドに歩み寄った。
「マウル、今からお尻の掃除するからね」
私は意識のないマウルを抱き上げ、慎重に服を脱がすと、包み紙で尻を拭った。
私の手は瞬く間に茶色く染まる。けれど、そんなこと全く気にならなかった。
一通り排泄物を拭い終えると、裸のマウルをお湯につけ、丁寧に洗い流した。
ずっとお風呂に入っていなかった身体は大量に垢が剥がれ落ち、髪も艶やかさを取り戻した。
やがてキレイになったマウルが水冷えしないよう手ぬぐいで拭き、服を着替えさせる。汚れたシーツも取り換え、清潔なベッドにゆっくりと寝かしつける。濁った残り湯をトイレに流し片付け終えると、私はベッドに戻りマウルの隣に座った。
「マウルはずっと……私のことを思い出そうとしてくれてたんだね」
毛布の隙間に手を入れ、その小さな手をギュッと握りしめる。
やっぱり、その手は冷たかった。意識を失ってもう長くはないことがはっきりと伝わった。
だけど、あなたと向き合うことからもう逃げない。
あなたがどれだけ変わり果てても、もう目を背けない。
あなたが記し続けた言葉が、ボロボロに諦めた私の胸を全部塗り替えてくれたから。
「ごめん、マウル……私、あんなに大切にしてたはずなのに、約束のこと、忘れてた。だけど、もう大丈夫。私ももう、マウルのことを忘れたりしない」




