汚された手
――3――
冬闇の街を駆ける馬車の中で、私は祈りを捧げていた。普段は信じすらしていない神様に向かって、ただ一つの願いを祈り続ける。
(……マウルを、マウルをっ、どうか助けてください!)
腕の中に我が娘を抱きしめ、途切れてしまいそうな命を必死に繋ぎ止めようとする。灼熱のように熱かった体が、凍えるように冷たくなっていた。数時間前にアパートに帰った深夜、マウルの呼吸が止まっていた。慌てて胸に手を当てると、かろうじて心臓が虫の息のようにトクトク鳴っていた。
(マウル……お願い。死なないで!)
願いをかける脳裡には、マウルとの思い出ばかりが流れた。仕事から帰る度に駆け寄ってくれた笑顔も、「仕事に行かないで」と駄々をこねてきた我が儘も、全部鮮明に覚えていた。まるでそれは走馬灯のように……私はここでマウルとの思い出を終わらせたくないっ!
「お客さんっ! バーダガさんの診療所に着きましたよ!」
その時、車箱の外から大声が響き、馬車が急停止する。
私はすぐにマウルを抱いて出ると、お金を御者に押しつけた。
「お客さんっお釣り!」と叫んだ声も無視して、私はバーダガ医師の診療所に向かう。マウルの息は止まったままで、生きているのか死んでいるのかもわからなかった。
*****
診療所に飛び込むと、バーダガ医師はまだ眠っておらず、ランプを灯して薬の調合をしていた。だが私の腕の中のマウルを一目見ると、彼は幼い身体を引き取りすぐに手術に取り掛かった。
(マウル……どうか無事でいて)
私は仄暗い待合室に残され、ただ静かに治療を待ち続けた。薬の匂いが充満した部屋の中で、夜が更けても、朝日が昇っても待ち続けた。手術は何時間にも及んでおり、施療室の扉が開く気配は全くない。まるでこの世界の時間が全て止まってしまったかのようだった。
けれど、先が見えなかった時の流れは突如として終わりを告げる。正午が過ぎ、夕暮れが過ぎ、そして夜が訪れた頃、やっと施療室の扉が開かれた。
「バーダガ先生っ!」
私は椅子から腰を上げると、飛び掛かるようにバーダガ医師の元に駆け寄る。そんな半ば錯乱している私を、彼は鳥の仮面越しに見下ろした。
「マウルは……娘は、無事なんですか!?」
私はすぐに肩を掴んで問い質す。バーダガ医師は私の手を払いのけもせず、ただ淡々と結果を報告した。
「……何とか一命は取り留めました。呼吸が止まっていましたが、処置を施したところ正常なレベルまで呼吸を取り戻しました」
その言葉を聞いて、私は全身の力が抜けたように胸を撫でおろす。思わず頬の筋肉が綻び、バーダガ医師に飛びついていた手を慌てて離した。
「そうですか……っ! よかっ――」
「ただし、意識は戻っておりません。呼吸が止まった影響により、脳に血流が行き届かず溢血も見られました。意識を司る大脳皮質が損傷し、もはや回復の見込みはありません。……マウルさんはもう、二度と目を覚ますことがないでしょう」
「えっ?」
その瞬間、全身の皮膚が一瞬で凍りついた。世界の景色がグニャグニャと歪み始め、声も出せず、泣き喚くこともできず、ただ思考の全てが麻痺する。
意識が、戻らない? マウルが、目を覚まさない?
何度も頭の中で反響を繰り返す診断結果に、奈落に突き落とされたように言葉を失った。
「あれほど脳に出血が広がってしまっては、もはや手の打ちようがありません。これ以上出血がひどくならないように傷口を止血するのが手一杯でした。あと数時間だけ早く来ていただければ、何とか意識を回復させる見込みもあったのですが……」
その言葉を受けて、完全に視界が真っ暗に染まった。昨日の夜は店長に写本を依頼され、それを引き受けたのだった。彼は別に仕事を強制したわけではない。私の意志で写本の仕事をやると決めたのだ。
『あと数時間早く来れば、マウルは意識を取り戻せたかもしれない』
医師が告げた仮定の現実が、鋭い槍のように脳髄を貫く。
――マウルのために、マウルのために、お金を稼がなくてはならない――
その切迫した考えで頭がいっぱいになっていた私は、完全にマウルのことを放ったらかしにしてしまっていた。
「……なんとか、ならないんですか?」
私は動揺を隠しきれず、押し寄せる罪悪感から逃げたくて声を震わせた。
「いえ、もうどうすることもできません。私ができることは全てやりました。マウルさんが意識を取り戻すことは二度と叶わず、どんな手術や薬を施しても無駄でしょう。……ですので、今後私の診療所にマウルさんを連れてきたとしても、もう何もして差し上げることができません」
バーダガ医師は完全に匙を投げた。詰ることも、食い下がることも、私はできなかった。立ち尽くす私にバーダガ医師は背を向け、沈黙したまま施療室へと向かう。扉を開けるとこちらに振り向き、中へ入るように仮面の嘴を揺らした。私は亡霊が浮遊するように歩き、ゆらゆらと施療室の扉をくぐる。
手術台の上で、マウルは頭に包帯を巻かれて眠っていた。その顔は普段よりも真っ白で、汗を一滴も掻いていない。不気味なほど穏やかな表情で、娘が生きているのかどうかすら判然としなかった。
(…………)
白いシーツに包まれたマウルの胸元に、私は吸い込まれるように手のひらを置く。
ト……ト……ト……
まるで秒針を刻むような律動がかすかに指先に伝わった。けれどその音は儚いほど弱々しく、いつ途切れてしまうのかわからなかった。
「マウルさんはまだ生きています。ですが、もう長くはありません。これからは治療を目指すのではなく、マウルさんの最期を看取ってあげてください」
バーダガ医師は帽子を目深に被り直しながら、せめてもの慈悲と言わんばかりの言葉を送った。仮面の表情は隠れていたが、ひどく悲しんでいるようだった。長年付き添った患者の命の終わり、それに対して彼自身も何か感慨を抱いているのかもしれない。
そんなほんの少しの人間らしさを見留めた私は、何も言葉を返すことができない。けれど、もうここには来ないことだけは確信していた。手術台の上でただ眠り続けるマウルを、私はのっそりと背負う。
「……バーダガ先生、今まで娘の治療をしてくださりありがとうございました」
そして馬車の定期便がいつ来るか尋ねもせず、何の感情も浮かばないまま施療室を出ていった。
*****
夜明けが過ぎ、早朝となった頃、ようやく定期便の馬車が窓の外に現れた。私は診療所を出て御者に料金を払い、「労働者区域まで」と手短に依頼する。背中に背負ったマウルをチラリと見た御者は、ただ黙ってお金を受け取った。先ほど壮絶な手術を受けたばかりの青白い顔は、もしかすると死んでいるように見えたかもしれない。
馬車でアパートに帰宅すると、私はベッドにマウルを寝かせた。表情さえ失った顔には一切の苦しみも滲んでいない。私はしばらく見下ろすと、鼻先にそっと手をかざす。――確かにわずかな呼吸が指先に触れた。けれどその事実に喜びも悲しみも生まれなかった。
(……マウル)
その名前を胸の内で呼んでみる。だがその名前は雨ざらしになった灰のように冷たくなっており、燃え尽きたように意味を失っていた。
(……マウル)
あんなに必死に娘の病気を治そうとしていたのに、何故かもう遠い過去の記憶のようになる。はじめから無駄だとわかっていたのに、どうして私はあんなに躍起になっていたのだろう?
(……マウル)
それでも、頭の中の呼び声を止めることができない。いま目前にある現実に怒り狂うことも、悲嘆することもできず、かといって無視することもできない。私はその日を境に生ける屍となった。
……チッ……チッ……チッ……チッ……
ぼんやりとした意識の中に、やけに規則的なリズムが鳴り響く。振り向いて見上げると、壁際にはいつもの位置に時計が置かれていた。7時40分。気がつけば、もうフェノメノン製本店が開店する始業時間が迫っていた。私はただ無意識のうちに、体をゆっくりとベッドから反転させる。
(早く……仕事に行かないと……)
まるでねじが回されたブリキ細工のように、いつもの習慣をなぞって行動を起こす。私は最低限の身支度を整えると、フェノメノン製本店へ出勤した。
*****
「エルザ! 一体君は何をしていたんだ!?」
フェノメノン製本店に到着すると、いきなり大声を上げる店長と遭遇した。いつもの柔和な顔が消えており、かなり苛立っている様子だった。
「店長……どう、したんですか?」
「どうしたもこうしたもないよ! 君は昨日無断欠席してただろ!? それに一昨日君に任せた写本も誤字脱字だらけで、とても商品として売り物に出せる物じゃなかった! 普段ならこんなつまらないミスはしないはずなのに、一体どうしたって言うんだい!?」
「その、すみません……えっと、あの……」
私は途端に言葉に詰まってしまう。昨夜あった出来事が心の中で消化しきれず、上手く説明することができない。それでも、いつもの優等生の習性から「何か言わなければ」と義務感に突き動かされ、ただ一言つぶやいた。
「娘が……重い病気でして……」
「重い病気? 確か風邪を引いたって聞いてるけど、それももう治りかけてたんじゃなかったのか?」
「…………」
詰問する店長に、私はやはり上手く答えられない。店番をしていた売り子たちも、ハラハラとした瞳で私たちの様子を窺っている。その視線に気づいた店長は、気詰まりそうに辺りを見渡すと、顔を近づけて私に囁いた。
「とにかく、話はオーナー室で聞くことにする。僕についてきてくれ」
耳元から顔が離れると、店長は店のみんなに「そのまま仕事を続けてくれ」と命令する。慌てたように売り子たちが自分の仕事に戻った。それを見て取ると、店長は黙って店の奥へと進んでいき、私もその後についていった。
「それで、どうして昨日は仕事を休んだんだい? 娘さんが重い病気だって言ってたけど」
席に着くと、店長は声のトーンを押さえて、けれど私から目を離さず問い質した。私は椅子の上で項垂れたまま、深いため息とともに口を開く。
「すみません店長……。私、嘘をついていました」
「嘘?」
「はい……その、娘が風邪だと伝えたのですが、アレは嘘だったんです。実は……娘は心臓病を患ってて、もう長くはないと言われました。それで一昨日の夜、意識も失いました……」
「…………」
訥々《とつとつ》と私は一つずつ真実を打ち明ける。自分でも驚くぐらい声が震えていた。こうして事情を吐き出す度に、自分自身がどれほどショックを受けているのか肌身全身で理解できた。
「そっか……そう、だったんだ……」
店長は私の言葉を受け、ゆっくりと瞼を閉ざす。眉尻が垂れ下がり、まるで哀悼を捧げるように苦渋の表情を浮かべていた。けれど店長の目はしばらくするとスッと開かれ、意を決したようにまっすぐ私を見つめた。
「エルザ、君の事情はわかった。娘さんがそんな状況じゃ、仕事に身が入らないのも仕方ないことだろう。君の立場には同情する……だけど、僕自身も店を守らないといけない立場にあるんだ」
そう切り出すと、深く息を吸い込んで、吐き出し、ゆっくりと肩を落とす。一拍だけ沈黙が置かれた後、淡々とした声で店長は私に告げた。
「……エルザ、残念だけど、今日限りで仕事を辞めてもらう。今の君では翻訳の仕事も写本の仕事も、とても任せられる状況じゃない」
「えっ?」
途端に、今まで俯いていた顔が跳ね飛ぶように起き上がる。おぼろげだった頭の中に、一気に鋭利な刃物が突き刺さった。
仕事を……辞める? 十年間ずっと我武者羅に頑張ってきた仕事を、今日で辞める?
「その……正直、僕も心苦しい。娘さんがそんな重篤な状態なのに、いきなり君をクビにするだなんて。君にとっては僕が悪魔に見えてるかもしれない。きっと君は僕のことを許せないだろう。でもその代わり、長年働いてくれた分の退職金は十分出す。そのお金でしばらく生活して、落ち着いたら新しい仕事を探してくれ」
店長は私に向かって深々と頭を下げた。その後具体的な金額を提示し、退職の手続きについても説明する。確かに十分すぎるほど十分な額だった。だけどその値の大きさが、二度とこの店で働くことができない手切れ金なのだとはっきりと伝わった。
「……わかり……ました……」
喉を押し潰したような声で承諾すると、すぐに退職金が用意された。
手渡された袋の中には、今まで見たこともないような大量の銀貨が入っている。
それを目の当たりにすると、もうこの店から出ていかざるを得なくなった。
私は椅子から立ち上がり、フラフラとオーナー室の入口まで歩いていく。
「……娘さんの看病、大変だろうけど頑張って……」
最後に店長は独り言のように励ましの言葉を呟く。
けれど私は、それが罪滅ぼしに発せられた同情なのだと理解できてしまった。
*****
冬の太陽がまだ昇り切らない日射しの中、私は閑散とした帰り路を歩いた。
今は午前9時過ぎ、街の人々はみんな働いている時刻だった。
(こんな早くに家に帰るのは、いつぶりだろう?)
まるで他人事のように、私は疑問を浮かべる。
白夜の雪原のように頭が真っ白だった。何かを考えようとしても、途中ですぐに思考が停止してしまう。
舗装された道を歩くたびに、右手に持った袋からジャラジャラと音が鳴った。それは重くもなく、かといって軽くも感じられない。ただ、その一介の労働者には不釣り合いな大量の銀貨が、私がついさっき仕事をクビになった証拠品として残っていた。
(私は、これからどうしていくんだろう? 何か、私に当てなんて残されてるんだろうか?)
不思議なほど自分のことを俯瞰視して、今の状況を整理した。
元々お母さんに捨てられ孤児院出身だった私には、身寄りも仕事の宛てもない。
けれどその事実に対して、自分でも驚くぐらい焦りを感じられなかった。
(あっ……)
ふと顔を上げると、自分のアパートに到着していた。
長年住み続けた古びた建物は、特に何も変わっていなかった。
玄関の隣の窓辺に立つと、一人の若い女の顔が映し出された。
少しやつれているような、そうでもないような無表情。
私は窓の前で笑顔の練習もせず、そのまま家の中に入った。
(食事、食べてなかったな……あんまり食欲はないけど、食べた方がいいのかな?)
そして私は、靴を脱いでキッチンへと向かった。
あまり料理をする気分でもなかったので、作り置きのパンを探すことにした。
戸棚を開き、埃っぽい棚板に並べられた生活用品を物色する。
(あっ、薬……こんなにまだ残ってる)
常備していた薬が大量に目に入った。
鎮心薬や解熱剤、どれもバーダガ医師から処方されたものだった。
――この薬にどれだけお金を使ったんだろう?
いつもの癖で、私は二種類の薬を取り出した。
(そういえば私、まだマウルに薬を飲ませてない……)
そう気づくと、私は急に昨夜までの出来事を思い出した。
マウルは確か、呼吸が止まったことが原因で脳に出血をしてしまったのだ。
――意識がなくても、ちゃんと薬を飲ませられるんだろうか?
私は問題に行き当たる。そもそも今さら飲ませる意味があるのだろうか? でも他にどうしようもなくて、コップに水を入れてマウルの部屋へと向かった。
部屋の廊下に差し掛かると、扉が開けっ放しになっていた。
一瞬マウルが部屋から飛び出したのかと思ったが、何のことはない。今朝私が扉を開けっ放しにして出ていっただけだった。そういえば、玄関の扉の鍵すらかけてなかった気がする。
(……不用心だな。何やってるんだろ私?)
息が抜けるような笑いが込み上げ、ククッと声を出しながら廊下を進む。
だが扉に近づくにつれ、鼻を突くような異臭が漂い始めた。
(うっ……この臭い……)
そこで私は急激に現実に引き戻される。思わず片方の手を放し、鼻を押さえた。
バランスを崩したトレイは床に落ちそうになり、寸でのところで持ち直す。
眉をひそめながら部屋の中に入ると、すぐ異臭の正体を掴もうとした。
部屋の中で、マウルは静かに眠っていた。
目を閉じ、口を閉じ、耳すら閉じているような徹底した昏睡状態だった。
そして臭いは、ベッドに横たわるマウルから発せられている。
私はトレイを机に置くと、バサリと毛布を捲り上げた。
マウルの股間が茶色く染まっていた。その股の周囲のベッドシーツも同様に汚れていた。よく観察すると、マウルの尻の辺りがガチョウの卵のように膨らんでいる。人間としての尊厳もなく、恥じらいもなく、ただそこには生物としての汚らわしさだけが残っていた。
(マウルはもう、自分でトイレに行くことすらできなくなったんだ……)
その事実を目の当たりにした瞬間、摩耗したはずの感情がゾワリと震えた。
ただ見ているだけで、喉の奥が詰まるいたたまれなさを覚えてしまう。
そして今さら気づいたように、私がマウルの母親であることを思い出した。
(何か……拭くものを用意しないと)
辺りを忙しなくキョロキョロと見渡す。
けれど、この部屋にはあまり有用そうなものは見当たらない。
かといって普段利用している手ぬぐいも使えなかった。汚物で汚れた布を、家の中に残しておくわけにはいかなかったからだ。
(だったら……使い捨てにできるいらなくなったものを探さないと)
しばらく立ち止まって考えた末に、私は吸い寄せられるようにマウルの部屋を出ていく。そして自分の部屋へ――写本の執筆のために利用していた作業室へ移動した。
机の引き出しを開けると、大量にまっさらな原稿用紙が入っていた。
この何も書かれていない用紙には、本来なら一つずつ丹精を込めて文字が綴られ、一冊の本として世に送り出されるはずだった。そしてその職人の工芸品を仕上げることこそ、私の人生の誇りだった。
(…………)
私は数枚原稿を引っ掴み、もう片方の手のひらに乗せる。それでも足りない気がして、まるで己の魂を削り取るように、何枚も白紙を引っ掴む。一冊分の厚みになるほど紙の束を取り出し終えると、私は立ち上がって元の部屋へと戻った。
汚物の臭いは部屋の中に充満していた。毛布を捲りっぱなしにしたせいで、その刺激臭が隠しきれなくなっていた。私は臭いの原因である娘の傍まで近づくと、全く動かなくなった体をひっくり返す。そしてそのまま寝巻のズボンをずり下げた。
案の定、この娘は大便を漏らしていた。
尻の穴にべっとりとついたそれは、中途半端に水気があり、一度に紙に包んで捨てることは不可能だった。
私は用意した紙束をベッドの隅に置き、三枚ほど引っ掴むと乱暴に尻の穴に突っ込んで拭く。瞬く間に私の手が茶色く染まった。臭いまで染みついて、生理的な不快さがゾワゾワと脳みそにまでこびりつく。けれどそれ以上に我慢できなかったのは、長年私を支えてきた仕事道具たちが、こんな使い捨ての紙切れとして扱われる冒涜だった。
(この娘さえいなければ、私は仕事を辞めなかった……)
最低な作業を続ける中、頭の中が堪えがたい本心で支配される。大量の銀貨なんて欲しくなかった。身寄りのない孤児だった私にとって、あの店は自分を誇れる唯一の居場所だった。
(この娘さえいなければ、私は仕事を辞めなかったッ!!)
瞬間、バネのように両腕が跳ね飛んだ。気づいたら眠りこける喉元に十本の指が食い込む。――驚くほど強い力で絞め上げていた。茶色く汚れた両手には、汚物のぬめり気と、今にも途絶えそうな皮膚の温もりが同時に伝わる。このままもっと指を押し込めば、『それ』は簡単に終わりを迎えるだろう。
「……キュ……キュ……」
だがその時、鳥の鳴き声のような甲高い音が耳に入った。もう意識を失っているはずなのに、まるで子供の玩具のように音を鳴らした。
それは命の証明だった。確かに『それ』は生きているのだと主張していた。その事実を目の当たりにした瞬間、ゾクッと鳥肌が粟立つ。まるで灼熱に触れたように、首筋から汚れた両手を撥ね除けた。
「あ……ああ……ううっ」
石ころが詰まったような呻き声が喉元から出てきた。
汚れた手のひらを見下ろすと、ガクガクと指先が震えている。
――取り返しのつかないことをしてしまった――
その事実を否定したくて、ベッドに突っ伏して何度も拳を叩きつけた。
「う……うぅぅ……うぅぅ……」
やがてかすれた声は嗚咽に変わり、ドロドロと血のように涙が落ちた。
そのとめどない獣の唸りは、ずっと耐え続けた無力感で溢れ返る。
「うぅ……うぁぁ……うぁぁあぁぁぁっ……」
『終わらせること』を止めた理由。それは母親としての慈悲でもなく、まして人間としての尊厳でもなかった。ただ単に私には何も残されてなかった。仕事の誇りを失い、この娘の存在まで失えば、私は生きる意味のない燃え屑になる。それが怖くて、だから凶行をためらった。
「うああぁあぁぁぁっ……あぁぁっ……うあああぁぁぁあぁぁッ!!」
正気すら失い、喉をすり潰して慟哭を上げる。
あれほど強くあった『家族の絆』は、もうとっくに消え失せていた。




