壊れてしまった偽り
――4――
医者探しがまた空振りに終わった夕暮れ、私はアパートに帰り、台所でひつじの肉を刻んでいた。マウルが大好きだった、特別な日にはいつも二人で食べていた料理。細切れに食べやすく切り分けると、おかゆのダシにしてマウルの部屋に運んだ。
「マウル、ご飯できたよ」
部屋の中に入ると、マウルは天井を見つめたまま固まっていた。その瞳はぼーっとしており、部屋に入ってきた私を一瞥だにしない。それでも私は机の上におかゆを置くと、スプーンにひつじ肉の残骸をすくってマウルの口元に運んだ。
「マウル、食べて」
「…………」
けれどマウルは返事すらせず、私とは反対側のベッドの壁際に顔を背ける。一瞬だけ合った目の色は警戒していた。それはまるで赤の他人のような冷たさだった。
「食べて! これはマウルが元気になるためなんだから!」
無視するマウルに思わず私は声を上げた。最近になって、マウルは反抗的になっている。その度に私は焦りを感じ、母娘の関係をわからせようと口調が強くなってしまった。
「……っ!」
幼い肩がビクッと震え、慌てたようにスプーンに口が飛びつく。少しだけもごもごと頬を動かすと、すぐに食事を飲み干した。大好物を食べているはずなのに、まるで味わう様子もない。
「マウル、今度はお薬だよ。飲んで」
半分残った食事を下げると、私はコップと包み紙を手に取って差しだす。だがマウルはまた顔を反対に背け、静かに拒絶を示した。
「……いらない」
「マウル! 我が儘言わないで! ママの言うことはちゃんと聞きなさいって言ってるでしょ!?」
私はまた怒鳴り声をあげてしまう。これでマウルに怒鳴ったのは何度目になるだろう? 一ヵ月前マウルの記憶があんな風になって以来、すっかり私は苛立つことが多くなっていた。
「……おねえさんは、おかあさんじゃない」
そして今、マウルはまた他人行儀な呼び名を口にする。
「おねえさん」と呼ばれる度に、母親でないと否定される度に、胸の中がキュッと締め付けられた。まるで私が大事に抱えていた宝物が、少しずつ削り取られるような鈍い痛みが走った。
「おかあさんにあいたい……おかあさんは、どこにいるの?」
細い喉から小さな声を漏らし、とび色の瞳から涙が伝い落ちた。
私のことなど見えていない。ただマウルは、ベッドの上で空想の中の母を追い求めた。
――あんなに、私たちは仲が良かったはずなのに。
嫉妬にも似た感情が奥歯をギュッと噛みしめる。それでも私は落ち着いた声でマウルに言い聞かせた。
「マウル……あなたの本当のお母さんはもうお星さまになってて、今は私があなたのママなんだよ」
「……おねえさんは、私のおかあさんじゃない」
「頼まれたんだよ。あなたのお母さんに。マウルが独りぼっちにならないように、私があなたの新しいママになったの」
デタラメな嘘をついた。そんなことを頼まれていないどころか、マウルの母親と会ったことすらない。私が今やっていることは、ただの母親ごっこだった。そんなこと、身に沁みるほどわかっていた。
それでも私は辛抱強く向き合い続け、マウルの『本当の母親』だった頃を取り戻そうとする。こんな風に騙してでも、マウルとの繋がりを捨て切れなかった。――やっと手に入れた『家族の絆』――それを失うことが、何よりも怖かった。
「マウル……薬を飲んで。あなたのお母さんも、マウルの病気が治ってほしいって願っているから」
私は今度はおかゆのダシをスプーンにすくい取り、少しずつくぼみの中に薬を溶かした。薬を嫌がるマウルが少しでも飲みやすくするための工夫だった。そんな『母親』らしく振る舞う私を、マウルは曖昧に横目で見遣っている。私が薬入りのダシを無言で運ぶと、諦めたように小さな口がスプーンを含んだ。
「……苦い。もう飲みたくない」
やっと薬を飲み込んだマウルは結局毛布で顔を覆った。本当はあと半分ほど飲まなければならない量が残っていたけれど、これ以上マウルの負担にならないように薬をしまった。……何より、これ以上マウルに嫌われて私が『母親』であることを拒絶されたくなかった。
「じゃあ……そろそろ私は行くね。お仕事で預かってた本を今夜中に終わらせないといけないから」
「……おかあ、さん」
マウルは天井を見上げたまま、寂しげに母親の名前を口にする。だけどその言葉の中には私の姿はもう含まれていない。
それでも私は――マウルの傍にずっと居続けたかった。
*****
翌日となり、夕方が過ぎて夜が近づいた頃、私はフェノメノン製本店の一人部屋でウサレス語を勉強していた。二か月前、店長に外国の書物の翻訳を頼まれた時から引き受けた仕事だった。この研修が終わり実際に翻訳を任せられるようになれば、私の給料も倍になる。
心臓の専門医が見つからなかった私は、結局バーダガ医師の診療所に戻った。だがその診療代や薬代も馬鹿にならず、最近になって貯金にも手をつけ始めた。この暮らしは長くは続かない。だからどうしても今、お金が必要だった。
(マウル……)
頭を押さえてウサレス語を書き写しする最中、記憶を失ってしまったあの娘のことを思い返す。孤児院で引き取って以来、ずっと一緒だった。最初は嫌われていたけれど、それを克服してもう一度仲直りできた。やがてあの頃と同じように大切な人だと想い合い、私たちは本当の家族になれた。
(私は、マウルの笑顔のためならどんなことだってやってきた。叱ることも、甘えられることも、全部嬉しくてたまらなかった。それが私とマウルの新しい絆の形で、二人でずっと一緒にいることが一番の幸せなのだと信じていた。だけど――)
今のマウルは、私と一緒にいて幸せなのだろうか? 私の顔を見ても、マウルはいつも怯えた視線を彷徨わせて顔を背けてしまう。あの娘の瞳にはもう私の姿は映っていない。その愛しい唇からは、もう二度と「ママ」と呼ぶ声は発せられない。
(私は、何のためにマウルの傍にいるんだろう? 私は本当の母親になりたくて、マウルのことを六年間ずっと見守ってきた。だけどあの娘はもう、「おねえさん」がどうして自分と一緒に暮らしているのかすら理解していない……)
バーダガ医師の診断によれば、マウルはもう寿命を迎えようとしている。だったら、このまま静かに看取ることが正解なのだろうか? 私に残された役割は、ただ『諦める』ことだけなのだろうか?
(……ダメっ、私はマウルの母親なんだから、最後まで希望を捨てちゃダメ。マウルの病気を治す方法はきっとあるはず。……あの娘がいなくなったら、私には何も残されていない)
疑念に苛まれる頭を振り払い、私はようやくペン先が止まっていたことに気づく。入門書に視線を戻し、慌てて勉強を再開した。仕事をサボってるなんて店長にバレたら、どんな目で見られるか……せっかく重要な仕事を任せてもらえるようになったのに、その地位を失うわけにはいかなかった。
(私はフェノメノン製本店で一番の職人として認められてるんだ。……その実績に恥じないように、仕事中は仕事に集中しないと)
私は見慣れない言語が並ぶ文章を頭に叩き込み、ノートに書き写しをし直そうとする。するとその瞬間、背後で扉が開かれる音がした。サッと振り返ると、ちょうど店長が見回りにきたのだった。私は慌てて椅子から立ち上がり、兵隊のように背筋を伸ばした。
「やあエルザ! 調子はどうだい? 勉強はどのぐらい進んだかな?」
今日も二号店に出張していた店長は、いつものように気さくな声で尋ねかけてくる。そんなやり手で働き者な彼の期待に応えるべく、私はキビキビと返事をかえした。
「はい店長! 今『ウサレス王朝の誕生』の書き写しをしている最中です。だいぶウサレス語の文法にも慣れてきましたし、後もう少しで翻訳の仕事にも取り掛かれると思います!」
「そっか! もうウサレス王朝の歴史にまで進んだのか! いや~エルザ、やっぱり君に翻訳の研修を受けさせて正解だったよ」
店長は満足そうに頷き、私に笑いかける。仕事の研修が順調に進んでいることが認められ、私は胸に誇りを感じた。――やっぱりこの仕事は、私にこそ適任だ。しばらく自己肯定感に浸った後、そのまま頭を下げて席に戻ろうとした。
「あっ、ところでさエルザ。ちょっと話しておきたいことがあるんだけど……。最近、君は仕事を早退することが多くなったよね? もしかして何かあったのかい?」
柔和だった店長の表情が、いきなり疑り深い真剣なものに変わった。途端に私は心臓がビクッと跳ね上がる。店長は一見穏やかな人柄だが、仕事に関しては決して妥協しない人だ。……厄介事に巻き込まれることは極力避けたがる。私は慎重に言葉を選び、納得のいく説明を紡ぎ出した。
「あっ、はい……実はその……娘がしつこい風邪にかかってしまって。だいぶ長引いてしまってるので、なるべく傍にいて世話をしてあげないといけないんです」
「風邪? ……そっか。この季節になるとやっぱりそういうのが流行るよね」
私は半分嘘を吐いた。ここで真実をありのまま白状したら、余計な心配をかけさせてしまう。……仕事の評価にだって影響してしまうかもしれない。俯けた顔をそっと上げると、店長は眉をしかめて黙りこくっていた。自分の保身がバレたのではないかと疑った私は、慌てて弁明を付け加えた。
「あっ、でも大丈夫です! 最近娘の病気も快方に向かっていますので、すぐ元通り仕事もできると思います!」
「あれっ、そうなの? ならよかったよ! いや~、もし君が何か複雑な事情を抱えてるなら、別の職人に翻訳の仕事を任せようと思ってた所だったんだ」
そのさり気ない言葉を聞いて、心臓がますます縮み上がった。店長は仕事にシビアで、私の異動も考えていたようだった。……やっぱりマウルのことを打ち明けるわけにはいかない。お金を稼ぐために、私は何が何でも翻訳の仕事を請け負わなければならなかった。
「あっ、ところでエルザ。今日は急ぎの写本の依頼が入ってきたんだけど、今夜残れないかな? 娘さんが病気だし無理にとは言わないけど……」
「いえ、是非やらせてください! ちょうど写本の腕が鈍っていないか心配だったし、仕事を任せてもらえるのは光栄です!」
私は優等生を演じ店長に媚びを売る。なるべく仕事の量を増やし、少しでも給与を上げたかった。マウルのために私は働かなければならない。それが『母親』である私にできる、精一杯のあの娘への思いやりだった。
*****
写本の残業が終わると、既に深夜を回っていた。私はシンシンと雪が降り積もる中、くたくたに疲れ切った頭を抱えて帰り道を歩く。
(マウルは、まだ起きているんだろうか?)
仕事の忙しさから解放された私は、やっとあの娘のことを考える余裕が生まれた。記憶を失う前までは、いつもあの娘は私の迎えを待ってくれていた。それが肌寒い冬の季節だったとしても、辺りが真っ暗な夜更けすぎだったとしても、マウルは私の顔を見るまで眠ろうとしなかった。
(それからあの娘は、いつも『英雄カルシスの伝説』を読んでとせがんできた。あの娘が大切にしていた、あの娘が大好きだった物語……)
思い出を振り返ると、温かな記憶がやまびこのように記憶を呼び覚ます。カルシスの本があったからこそ、私はあの娘に会おうと思い立ち、そしてあの娘ともう一度絆を結び直すことができた。
あの娘は今でも、カルシスのことを忘れていない。ときどきうわ言のように「カルシスにあいたい」と呟くことがある。もう伝説上の人物なのに、それだけカルシスはあの娘にとってかけがえのない存在だった。
……正直、悔しいという気持ちもある。
だけど、またカルシスの物語を話してあげれば、あの娘はもしかしたら、記憶を思い出すかもしれない。
(今は一つでも可能性を信じたい……。帰ったら、少しだけマウルに『英雄カルシスの伝説』を読んでみよう)
そしてアパートに到着する。
いつものように笑顔を作って、私は玄関の扉を開けた。
「マウル、遅くなってごめん! 今帰ったから。起きてる?」
私は急いで靴を脱ぎ、ランプを手に取り真っ先にマウルの部屋へ向かった。記憶を失っても、やっぱりあの娘は私の娘だった。カルシスの話を聞かせる前に、一目見て安心したい。私は部屋の扉を開けると、逸る気持ちを抑えながらベッドに近づいた。
「……マウル?」
ランプでそっと周囲を照らすと、マウルは静かにベッドの上で眠っていた。いつものように天井と平行になって身体を仰向けにしている。
――だけど、様子が変だった。
いつもならなだらかに上下するはずの胸が動いていない。顔が高熱で歪んでいたはずなのに、今は全くの無表情だった。まるでそれは、ねじが止まったブリキ細工のようで……。
(……っ!!)
瞬間、私は顔を真っ青にしてマウルの口元に手を翳す。
皮膚の温もりは残っている。けれど呼吸が感じ取れなかった。




