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エルザのことを忘れない  作者: 区隅 憲
後編 ~大人になった執着~
18/22

止まってしまった記憶

―5―



 街外れの古ぼけた診療所の中、私は祈るように待ち続けていた。

薬草棚が並ぶひっそりとした待合室で、永遠とも思えるほどの時間の空白を耐え忍ぶ。朝日はもうとっくに昇り切っていた。けれどその清々しい一日の始まりは、私の霧がかった頭の重みを決して晴らさなかった。


(マウル……どうか無事でいて)

 

 分厚い白木でできた隣室の扉に目を凝らし、今も眠ってるはずのマウルの姿を思い描く。帰宅間際の馬車を無理矢理呼び止めた昨夜、私は高熱のマウルを抱いて病院を駆けずり回った。だが深雪の夜更けに開いている病院はなく、どこの扉を叩いてもうんざりした顔で門前払いされた。途方に暮れた私は結局この診療所のことを思い出し、藁にも縋る思いでもう一度御者(ぎょしゃ)に頭を下げたのだった。


「…………っ!」


 突然、閉ざされた部屋の奥から、キィィ、という軋み音が鳴った。

反射的に椅子から腰を浮かすと同時に、白木の扉がゆっくりと開かれる。


「バーダガ先生っ!」


 その姿を目にした瞬間、私は声を上げ急いで駆け寄った。

黒衣で全身を包んだ、鳥のくちばしが伸びたマスク。

その異様な格好をした人物こそ、かつてマウルが頼りにしたと記録に残していたバーダガ医師だった。

 

「……お待たせしました。マウルさんの容態はひとまず安定しました」


 マスクの内側から低い声を漏らし、バーダガ医師はそっと尖った帽子を被り直す。そんな落ち着きある頼もしい態度に緊張が解け、私はほっと一息ついた。


「そうですか! よかった! マウルは無事なんですね!」


 頬を緩ませ、私は溶かされたように笑みを漏らす。

けれど直後に返ってきたのは、小さく首を振る仕草だった。


「……いえ、無事ではありません。マウルさんは心臓病を患っています」


「……えっ?」


 急所を突くような診断が耳に届き、私はサッと頬をまた強張らせる。

『心臓病』、『心臓病』、『心臓病』……そんな今まで聞き馴染みのなかった単語が、何度も頭の中で反響する。その病名が持つ重みがどれほど深刻なものか、医学の素人の私でも一瞬で理解できてしまった。

  

「先ほど脈拍を測ったところ、マウルさんの鼓動は一般的な子供のものよりもだいぶ弱まっていることがわかりました。手足の体温が異常に冷たく、胸に血瘤けつりゅうも見られる。……はっきり申し上げれば、もう長くはありません」


「そんなっ……」


 淡々とした説明が脳の深くまで浸透し、瞬間、私はバーダガ医師の肩を飛び掛かるように掴んだ。鳥のくちばしが額に刺さりそうなほど、真っ黒な仮面に顔を迫らせる。


「何かっ……何か治す方法はないんですか!? お金ならいくらでも支払います! だから、どうか娘のことを――」


「いえ、ありません。彼女の年齢は本来70歳なのです。寿命を迎えたとしてもおかしくない頃合いでしょう」 


「…………っ!」


 必死に縋りついた十本の指先が、わなわなと力をなくしてずり落ちていく。

目前に突きつけられた現実を受け止めきれず、今にも大声を出して取り乱しそうになる。じっとその場に留まることすらできなくなり、私はバーダガ医師を押しのけ隣室の施療室に駆け込んだ。


 部屋の中央に設置された手術台の上で、マウルは静かに眠っていた。

呼吸の乱れが収まっており、けれど顔は腫れたように真っ赤だった。

私は指を強張らせたまま、マウルの頬に手のひらを当てる。

焼けつくような皮膚の感触と、冷え切った汗の湿りが同時に伝わった。


(本当にマウルは……もういなくなってしまうの?)


 私は同じ疑念を繰り返し、確かめるように小さな口元へと手を翳す。

細い糸を縫うような吐息の温もりが、わずかに命を主張していた。


「……私も、マウルさんの奇病については長年調査を続けてきました」


 いつの間にか隣にはバーダガ医師が立っており、マウルの顔をじっと見下ろしていた。その仮面の下に隠された表情は読み取れず、けれどどこか達観したような悲哀が滲み出ていた。


「出会った当初の彼女は、自身の病気についても前向きに捉えていました。例え今は何もわからなくても、きっと治る方法が見つかるだろうと。

『私も早く普通の人間になりたい』。それが彼女の口癖でした」


 静々と医師が語る言葉の裏には、長い闘病の跡が垣間見えた。

『早く普通の人間になりたい』。そのたった一言にマウルの人生が滲み出ている。

70年もの間ずっと奇病と向き合う中で、どれだけ深い傷を負ってきたのか計り知ることもできなかった。


「ですが、彼女の病気についていくら過去の文献を遡ってみても、症例数があまりにも少なすぎたのです。結局私はいくら研究を重ねても、病の全容を把握することができませんでした。わかったことと言えば、年齢が若返って子供になればなるほど、患者の体も弱っていくということ。そして同時に記憶も徐々に失われてしまうということ……これらは一般的な老化と同じ現象です」


 改めて現実を認識させるように、バーダガ医師は事務的な声で病状を説明する。まるでそれは死神の宣告だった。そんな他人事のように突き放した医師の態度に、思わず私はグッと奥歯を噛みしめてしまう。


「それでも彼女は諦めきれず、何人もの高名な医者の元を尋ね回りました。彼女には母親が遺した遺産があり、それを頼りに街を転々としたのだそうです。だが結局、最後には私の元に戻ってきた。奇病について研究をする医者が私しかいなかったからです。……もしあなたがマウルさんと同じことをしようと考えているのなら、それはきっと徒労に終わるでしょう。人間は、神から与えられた天寿を決して覆すことはできない」


「…………っ」


 静かに下された結論に、私は何も言い返せず喉を詰まらせた。

その専門家としての厳格な諦観が、私に拒絶しようのない理解を強制させる。

浅く胸を上下させるマウルを見下ろしながら、私はただ拳を震わせた。


「では、本日の診察はこれで終わりとします。あと30分ほどで馬車の定期便が来る予定ですので、そちらでお帰りください」


 追い返すように、バーダガ医師は手短に帰りの手続きを述べる。

私は静かな激情を燻らせたまま、マウルの体を抱き起こしのっそりと背負った。


「……娘のことを診てくださりありがとうございました。お代は後日そちらに送金させていただきます」


「ええ。もし何かあった時はすぐに私のところへ連れてきてください。できる限りのことはやりましょう」


 バーダガ医師は最後まで医者としての振る舞いを崩さなかった。

けれどそのもっともらしく聞こえる台詞が、もはや空虚なものにしか響かない。

私は黙したまま頭を下げ、診療所を去っていく。背中に当たる人肌は火傷しそうなほど熱いのに、その温もりは蜃気楼のように薄く感じられた。



*****



 バーダガ医師の診療を終えアパートに帰宅すると、マウルはゆっくりと目を覚ました。午前の陽光が差し込む部屋の中、祈るようにベッドの前で座っていた私は、ガタリと椅子を蹴って立ち上がった。


「マウル! よかった! 目を覚ましたんだね!」


「……ママ」


 勢いづいて顔を覗き込む私を、マウルはぼんやりと見上げた。

頬はリンゴのように真っ赤に染まっていて、振り向く動作もかなり鈍いものだった。それでももう一度「ママ」と呼ぶ娘の声を聞けて、私は胸の奥から温かな安堵が込み上がった。


「マウル、お腹すいてない? 今日は仕事もお休みにしてもらうつもりだから、また絵本読んであげよっか?」


 日常を取り戻そうと、私はマウルに朗らかな声で尋ねかける。

『心臓病』という深刻な病名が頭を過ったけれど、それでも私は母娘の温もりを繋ぎ止めようと、普段通り優しい母親を振る舞った。


「……おトイレいきたい」


 けれどマウルが口にしたのは、そんな生理的な欲求だった。

こちらに振り向いた視線をそわそわと迷わせ、わずかに体を身じろぎさせている。


「そ、そう? じゃあ行っておいで。部屋を開けてすぐ前の扉にあるでしょ?」


「からだ、おもたい……」


「えっ?」


 しかしマウルはベッドから動こうとせず、代わりにそっと呟いた。

どこか恥ずかしそうに眉尻をひそめ、じっと見つめる私から目を背けた。


「なんか、手がヒリヒリするの。足も、ヒリヒリする。うごいたら、胸がビクってしてイタい」


 そんな娘の訴えかけを聞き、私はしばらく答えに窮した。

そんな症状、昨日まではなかったはずなのに……ただの風邪だったはずなのに……。急速な病の進行を目の当たりにして、否が応にも残された時間を意識せざるを得なかった。


「……わかった。じゃあ、一緒にいこっか? 無理しなくていいからね。ママが抱っこしてあげるから、一緒におトイレ行こうね」


「……うん」


 努めて何でもないような素振りを見せながら、私はベッドからマウルの体を抱き起こした。普段なら軽く感じるはずの幼い体が、やけに重くのしかかる。


 ――マウルはもう、私がいないと生きていけないんだ。

そんな直感が過った瞬間、この娘の存在が、何倍にも、何倍にも、抱えきれないほど大きく膨れ上がる。私はこの娘の母親で、この娘を失いたくない。


 私はマウルをトイレに連れていき、用を足させ、また部屋のベッドに運び入れる。そのままマウルは、張り詰めた糸が切れたように眠ってしまった。それを見届けると、私は病人用の食事のメニューを考える。


 ……そんな付き添いが、明日になっても明後日になっても繰り返された。仕事の時間以外はマウルの世話につきっきりになり、ただひたすらマウルが元気になる日を願い続ける。


 だがそれから月日がいくら経っても、マウルはほとんど寝たきりのままベッドから動けなくなった。



*****



 塩をふりかけただけのおかゆを作り、私は急いでマウルの部屋に足を運んだ。

時刻はもう朝の7時30分、フェノメノン製本店の始業時間まであと30分を切っている。マウルが心臓病と診断されてから、あっという間の2週間だった。昨日の夜更けから続く重い瞼をこすりながら、私は今日も頭を奮い起こして扉の前に立つ。


「マウル、ご飯できたよ」


 軽くノックを鳴らし、普段と違わないように明るく呼びかける。

けれど部屋の中に足を踏み入ると、マウルの姿がどこにも見当たらなかった。


(あれ? マウル?)


 途端に胸がざわざわと騒めき始める。

マウルは病気で動けないはずなのに……もしかして、もう天国に連れていかれてしまったんじゃ……。机の上に食事を置き、とっさに部屋の中をキョロキョロと見渡してしまう。


 だが背後でギィィィと扉が開く音がして、そんな馬鹿な妄想は一瞬で掻き消された。弾かれたように後ろへ振り向くと、そこには壁に手を伝いながらヨタヨタ歩くマウルの姿があった。


「マウル! どこ行ってたの!?」


 慌てて駆け寄ると、私はマウルの肩を支える。

今にも倒れそうになっているその体は、相変わらず火傷しそうなほど熱かった。


「……おトイレ」


 私の腕にしがみつきながら、マウルはただ一言受け答える。

だがその表情はやはりばつが悪そうで、私の顔から視線を逸らそうとしていた。


「トイレに行くなら私を呼んでくれればよかったのに。机の上に呼び鈴を置いてあるでしょ?」


「ううん、だいじょうぶ……一人で、あるけるから」


 そう首を横に振りながら、マウルは私の腕から手を離し歩こうとする。

だがすぐに「うっ!」と声を漏らし、胸を抑えて床にうずくまった。


「マウルっ、無理しないで! 今薬を飲ませてあげるから」


 顔を汗まみれに歪めたマウルを抱き上げ、私はベッドまで一歩ずつよろめきながら進む。たったこれだけの距離なのに、日々蓄積された疲労はどんどん重くのしかかっていた。……マウルは事あるごとに、自分で何でもやろうとしてしまう。その度に私はマウルに付き添い、先回りしてマウルの手足となっていた。


「……大丈夫。薬を飲めばすぐ元気になれるから」


 優しく諭しながらベッドに寝かせ、鎮心薬をマウルの口元に運ぶ。

何も言わず素直に飲み下したマウルは、やがて胸から手を離した。

苦痛にあえぐ表情が和らいでいき、私はほっと胸を撫でおろす。

だがその束の間の安らぎは、次の瞬間には霧のように消えてしまった。


「……ママ、私、いつになったらしんじゃうのかな?」


「えっ?」


「私、お星さまになったらカルシスにあいたい。カルシスにあったら、いままでありがとうってつたえたい」


「マウル……」


 上の空で呟かれたマウルの願い事に、私は返す言葉を失ってしまう。

マウルの瞳はやっぱりうろんとして、天井を眺めながらどこか遠くを見つめていた。それでも私は喉がツンと詰まる感覚を押し殺し、マウルに懸命に笑みを作った。


「……大丈夫。大丈夫だよ。マウルはカルシスのところに行かなくていいんだよ」


「……えっ?」


「病気のせいでマウルは弱気になってるだけ。大丈夫。マウルは元気になれるから。ちゃんとお薬を飲んで、ちゃんとご飯を食べてれば、きっとすぐ元気になれるよ。だから、病気が治ったら、今度こそママと一緒にお出かけしようね」


 こちらへ首を捩らせたマウルに向かって、私は何度も励ましの言葉を送る。

祈りのように『大丈夫』と繰り返して。『祈り』ということにすら気づかない振りをして。


 だけどマウルはしばらく顔を見合わせた後、また天井に視線を固まらせた。

束の間の沈黙が流れた後、か細い声が唇から漏れる。


「…………うん」


 目を半分伏せたまま、マウルはわずかに俯いた。

その返事は曖昧で、まるで私の『祈り』を見透しているかのようだった。

――子供とは思えないほど、聡くて冷ややかな眼差し。


 そんな娘の人形のような面差しを目の当たりにした瞬間、頬の筋肉が引きつる。

それでも私は折れそうになる本心をひた隠しにし、強引な笑顔で真っ青な顔色を塗り潰した。


「じゃ、じゃあ、そろそろママは行くね。マウルのためにお金を稼いで、マウルのためにお薬買ってこないと。だからマウルも、病気になんか負けないで。約束だよ」


 私はいたたまれない空気を変えようと、半ば押しつけるように小指を差しだす。

マウルはしばらく私の指先と笑みを見つめた後、そっと小指を絡ませた。


「……うん、いってらっしゃいママ」


 わずかな声量が耳に届き、私は何度も、何度も、小指同士を揺すり合う。

ほのかに宿る温もりを確かめるように。ささやかな日常が戻ることを願うように。


 私はマウルに見送られながらアパートの扉から出ていく。

マウルはもう、「一緒にいたい」と我が儘すら言わなくなっていた。



*****



(ダメだ……やっぱり有名なお医者様って、なかなか見つからない……)


 仕事を早退した夕方の帰り道、私は修道院の入口の前で深いため息をついていた。もはや顔なじみになってしまった修道士の、うんざりとした説明が脳裡に蘇る。


(心臓病を担当するような医師は貴族の専属医がほとんどで、庶民の相手はしていない……か。望みがあるとすれば、たまに街にやってくる外国の医師を当てにするしかない。でもそのお医者様だって、いつここに訪れるかわからない……)


 マウルが心臓病と診断されてから、私はずっと著名な医師を探し回っていた。そのために医療施設を斡旋する修道院に、できるだけ毎日通い詰めて情報を集めていたのだった。


(……あの医者のことは信用できない。いくらマウルが長年世話になっていたからって、患者をあっさり見捨てるような奴に。『他の医者を探しても無駄』だなんて、そんなの探してみないとわからないじゃない。ちゃんとしたお医者様に診てもらえば、きっとマウルの病気だって……)


 あの奇妙な格好をした医者の忠告を無視して、私は修道院から前を向いて歩き出した。マウルは病気のせいですっかり弱気になってしまっている。だからこそ、私がしっかり気を強く持ち続けなければならない。私までここでくじけてしまっては、それこそマウルの命が終わってしまう。今のあの娘にとって、私だけが頼りなんだ。


(マウル……待ってて。ママが必ずあなたの病気を治してあげるから。そしたらリヴァスにだって、どこにだって、絶対連れて行ってあげる。……だから、負けないで)


 今日も空振りに終わった医者探しの帰路、私はまた『祈り』の言葉を捧げた。

神様なんて信じていない。だけど、こうして祈ることでしか時間の空白を埋めることができなかった。待てば待つほど、焦りと不安で胸が押し潰されそうになる。それでも私はあの娘との思い出を振り返り、その笑顔を支えに今の苦境を乗り越えようとした。


(アパートに帰ったら何を作ってあげよう? せっかく早めに帰ったんだから、なるべく美味しいものを食べさせてあげたい……)


 しばらく考えを巡らせていると、アパートの前にたどり着いた。

夕差しに反射した窓を見ると、疲れ切った表情をしている自分に気づく。

――こんな顔、マウルに見せられない。

私は慌てて窓の前で笑顔の練習をして、母親らしい気丈さを振る舞った。


「マウル、ただいまぁ」


 いつも通り、沈んでしまいそうな声を隠してマウルの部屋へ足を運ぶ。

わざと足音を鳴らして、私が帰宅したことを報せようとした。

ガチャリと扉を開けると、マウルが椅子に座っている背中が目に映った。


(あれ?)


 そこでふと、不審な点に気づく。

マウルはもうほとんど寝たきりで、いつもならベッドの中で過ごしているはずだった。それが今では、部屋の隅の机の前でポツンと背中を丸めている。


「マウル……どうしたの?」


 一歩ずつ慎重に近づくと、机の上には手つかずの食事と薬が置いてあった。

おかしい……病気を治すためにちゃんと飲むように言いつけてあったはずなのに。

いつものマウルなら、多少無理してでも食事と薬を摂っていたはずだ。


「マウル、ダメじゃない! ご飯と薬はちゃんと摂らなきゃ病気が治らないでしょ!?」


 思わず私は声を上げてしまう。

その大声に反応して、マウルはビクっと肩を震わせる。

そして今気づいたかのように、緩慢な動作で私のほうへ振り向いた。


「おねえさん、だれ?」


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