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エルザのことを忘れない  作者: 区隅 憲
後編 ~大人になった執着~
17/22

さびれゆく時の中で

―5―



「よしっ、やっと全部見直しできた! 作業完了っと!」


 写本の紙束を作業台で整えながら、私は自室で勝ち鬨の声を上げた。

窓辺からは既に眩しい朝の日射しが降り注ぎ、夜更けから続いた降り雪はとっくに収まっている。


 その光景を目にした瞬間、私は大きなあくびをひとつかいた。

相変わらず冬の季節は忙しい時期で、仕事を持ち帰って残業することも日課になっていた。それでも、仕事をやり遂げた後の高揚感は何ものにも代えがたい。私は「う~ん」と唸りながら背伸びをし、職人としての誇らしい余韻を十分に堪能した。


(さて、後は店長さんに写本を届けるだけだ。そろそろ朝の支度も始めないと……)


 時計を見上げると、もう6時を回っていた。仮眠を取っている暇はもう残っていない。それでも始業時間の8時まで十分余裕がある。私は悠々と机の上を片付けながら、今朝のメニューを考えた。


(う~ん今日は……トマトのリゾットにしよっかな? 具材をくたくたになるまで煮込んで、シンプルに塩で味付けして。そうすれば、きっとマウルも食べやすいはず。なるべく栄養を摂らせて早く元気になってもらわなくちゃ!)


 私は眠気が残る頬をパンパンと叩き、今日も娘のためにキッチンへと足を運んだ。鼻歌混じりに具材を切って鍋に放り込み、スープとご飯が真っ赤になるまで温める。グツグツと煮え立ったところでスプーンを口に含めると、目が覚めるような甘酸っぱさが広がった。


(よしっ、完璧! やっぱり私って天才!)


 私は自画自賛に膝を打ち、ほかほかの手料理をお皿に盛り付ける。

トレイに食器を乗せてリビングを通り抜けると、私は扉をノックして開いた。


「あっ! おはようママ! おしごとおわったぁ?」


 部屋に入った瞬間、ベッドからマウルの満面の笑みが目に飛び込んだ。

目深に被っていた毛布が跳ね除けられ、幼い足がよちよちと私の元にまで駆け寄ってくる。


「うん、昨日の夜のうちに全部終わらせたよ。あとは店長さんに完成した写本を届ければ、それでお仕事も完了だから」


「そっか~、おつかれさま! 『シャホン』ってよくわからないけどママはすごいんだね~」


「フフッ、当然だよ。なんたってママは街で一番大きな本屋さんで働いてて、その中でも一番優秀な職人さんだって認められてるんだから」


 私は得意になって鼻を鳴らし、食事を置こうとベッド際の机の前まで進もうとする。するとその瞬間、いきなりマウルが背後から抱きついてきた。

熱っぽい身体の温度が、私のくたびれた体の芯にまで伝わってくる。

一緒に暮らしてもう六年。マウルの背丈はすっかり私の腰回りまで小さくなっていた。


「こらもうっ、そんな風に飛びついてきたらご飯がこぼれちゃうでしょ? マウルは風邪なんだからちゃんとベッドで寝てなさい」


「むぅ~っ! 私ゲンキだも~ん!」


 リンゴのように頬を赤くしたマウルを窘め、私は食事を置きそっとベッドに押し戻す。ふくれっ面のまま毛布を被ったマウルは、ブイっと拗ねた様子でそっぽを向いた。けれどトマトリゾットのスプーンを顔に近づけると、あっさりとこちらに振り返った。


「わぁ~! トマトのごはんだぁ!」


「うん、チーズも乗せてあるよ」


 私は目をキラキラさせるマウルの口元に、熱く湯気立ったリゾットを運ぶ。

パクリ、とカエルのように口が飛びついた。もごもごと頬をいっぱいに動かし、今にもとろけ落ちそうなほど目尻を緩ませる。そんな娘の幸せそうな顔を見て、私も自然と笑みが零れた。


「あ~おいしかった! やっぱりトマトのごはんってサイコ―だね!」


「フフッ、そうでしょ? 何せママが腕によりをかけて作ったんだからね」


 朝食を平らげたマウルの食べっぷりを見て、私はほっと胸を撫でおろす。

風邪を引いていても、やっぱりこの娘の食欲は衰えていない。

そんな元気な姿を確認し終えると、私はそっとベッドの前から立ち上がった。


「それじゃあ、そろそろ時間だからママはお仕事に行ってくるね。リビングにトマトリゾットの作り置きがあるから、ちゃんとお昼になったら食べるんだよ」


「ええ~っ! またおしごといっちゃうの~!? ヤダッ、もっとママといっしょがいい!」


 途端にマウルはぐずりだし、私の腕をベッドからぐいぐいと引っ張ってくる。

そんな娘の甘えっぷりに私は困り眉になり、けれど胸がくすぐったくなった。

――本当なら私だって、このままずっとマウルと一緒にいたい。


 けれど、しつけはしつけ。

マウルの健やかな暮らしを守るためにも、今日も私は仕事に行かなければならない。名残惜しさを胸に抱きながらも、私は心を悪魔にして言い聞かせた。


「ダメ! ちゃんとママが働いてお金を稼がないと、マウルのお薬も買えなくなっちゃうでしょ? マウルは病気なんだから大人しく寝てなさい」


「ヤダッ! だって昨日はぜんぜんママとあそべなかったんだもん! 今日はずっといっしょがいい!」


 マウルはガシリと私の腕を掴み、強情に駄々をこねてくる。

この娘は一度こうだと決めたら、梃子てこでも動かせない。

私は骨が折れそうな予感を抱きながらも、それでも何とか説得を試みようとする。


「ママが帰ってくるまで我慢しなさい。明日は週末でお休みだから好きなだけ絵本読んであげる」


「ヤダッ! 私ベッドにいるのもうあきちゃったもん! ママといっしょにおでかけしたい!」


「マウル、あなたはいま風邪でしょ? そんな体の具合じゃ外になんて出られないよ」


 私は娘の我が儘っぷりを諭しながら、やっぱりこうなったか……とため息を吐く。こういう時はいくらダメだと叱っても、かえって事態が悪化するからじっと待つしかない。始業時間が迫っていることを気にかけながらも、私は穏便な解決の糸口を探った。


「う~ん、じゃあ……もしマウルがちゃんといい子にして風邪を治せたら、マウルが行きたいところどこでも連れてってあげる。マウルがちゃんと元気になってからママと一緒にお出かけしようね」


「えっ、ホント!?」


 途端にマウルはキラキラと目を輝かせる。好奇心旺盛で自分に正直で、この娘の反応はホントにわかりやすい。


「うん。その代わり、お薬は毎日欠かさず飲んでしっかり寝てなきゃダメだよ? 悪い菌は体を安静にしてないといつまでもやっつけられないんだからね」


「うんわかった! ママのいうとおりちゃんとお薬のんでねる! ……私、リヴァスにいきたい」


「えっ?」


 思いがけない地名が飛び出し、私は目をパチクリとさせた。

リヴァス――それはファーグリンの街からずっと遠い所にある街だった。

昔見た地図の案内によれば、確か馬車で一週間近くかかるという。

そしてその場所は、マウルの本当の生まれ故郷――

けれどその記憶はすっかりマウルから抜け落ちていたはずだった。


「ママ、本でよみきかせしてくれたでしょ? リヴァスにはすごいエイユウがいるって。私、カルシスにあいたい」


 真剣な眼差しで私を見上げながら、マウルは切実な声で訴えかけてくる。

その瞳はしっとりと濡れていて、同時にどこか深い翳りを見せていた。


「……マウル。カルシスは50年前の戦争で活躍した歴史の人物で、もう亡くなってるんだよ? カルシスはお空のずっと高いところにいって、マウルとは絶対に会えないの。……この前本を読んであげた時もそう教えてあげたでしょ?」


「あれ? そうだっけ?」


 何度も教え諭した説明を、私はまた最初からやり直す。

私が『英雄カルシスの伝説』を読み聞かせする度に、マウルはカルシスに会いたがった。だけど、すぐに忘れてしまう。マウルは自分が発言した記憶さえももう曖昧になっていた。


「うん、そうだよ。カルシスはお星さまになって、リヴァスにはもういないんだよ?」


「うん……でも私、リヴァスにいきたい」


 涙ぐんだか細い声が、また部屋の中でささめかれた。

ベッドから天井を見つめるその瞳は、まるでもっと遠い景色を見通しているかのように。


「どうして、マウルはリヴァスに行きたいの?」


「わからない。でも、リヴァスにいきたい……」


 同じ言葉を繰り返し、マウルはただじっと閉ざされた天井を眺め続けた。

その呟きはどこかおぼろげであり、まるで他の誰かの言葉をなぞっているようだった。けれどそのぼんやりとした瞳には、冷たくて固い意志が秘められている。

そんな差し迫った娘の眼差しに、私は胸が締め付けられるほど寂しい共感を覚えた。


「……わかった。マウルの風邪が治ったらリヴァスに絶対連れてってあげる」


「ホント? ホントだよね? ママ」


 陰で覆われたマウルの瞳が、再び爛々と光を取り戻す。

この純粋な眼差しで見つめられたら、もう断ることなんてできなかった。


「うん、約束する。だって私はマウルのママなんだもの。あなたが叶えたい願いは全部叶えてあげる」


 そう力強く指切りすると、マウルは安心したように小指を離し、深く瞼を閉ざした。その穏やかな表情を見届けると、私はマウルの部屋を去りフェノメノン製本店へと急いだ。



*****



(リヴァスか……かなり遠いな……)


 積雪が残る通勤路を歩く中、私は曇り雲に包まれたように頭を唸らせていた。

ファーグリンの街を出て馬車で一週間。その旅路にはどう計算しても莫大な費用がかかってしまう。貯金ならある程度あったが、贅沢できるほどの余裕はない。往復で二週間。現実的に考えてそんな長旅をするのは無理があった。


(勢いに任せてあんな口約束をしたけれど、全く無計画だった。……やっぱり私はマウルの前だとどうしても母親面をしてしまう)


 途方もない大言をいってのけた自分自身に、深いため息をついてしまう。

もし本気でリヴァスに行くのなら、二人分の旅代を工面しつつ、長期間仕事を休む理由を説明しなければならなかった。この旅は飽くまで私用にすぎず、そんな頼み事を店長が認めてくれるかはわからない。……事と次第によっては、仕事だって辞めなければならないかも。


 そんな考えに行き当たった途端、私はずっしりと両肩が重くなる。

今まで仕事に励んでせっかく高い評価を受けてきたのに、それを棒に振ってしまうような真似はしたくない。写本の仕事は私の誇りであり、今さらそれ以外の生き方なんて想像すらできなかった。


 でも、だけど――

 

(……あの時のマウルの顔は、すごく寂しそうだった)


 今朝耳にした覚束ない願いが頭の中に蘇る。

唐突にリヴァスという名前を口に出し、何度も行きたいとせがんできた。

ベッドから天井を見上げる瞳には、もうファーグリンの街が映っていないかのように。


 ――無意識のうちにマウルは故郷へ帰りたがってるのかもしれない。

そんな直感が過ったからこそ、私はなあなあに聞き流すことができなかった。

私自身もお母さんに捨てられてしまい、ずっと村へ帰りたいと願っていたから。


(あの人は、今何をしてるんだろう? もう私のことなんて忘れちゃったのかな?

でも、会えるものなら会いたいよ。私はこんなに立派な大人になれたんだって、ちゃんとあの人に伝えたい。……マウルのことを話したらあの人はどんな顔をするんだろう?)


 雪にうずもれる足を運びながら、私はさびれてしまった過去を追憶する。

幼い頃の幸せだった日々。それが何度も頭の中を錯綜して、決して癒えることのない傷口から眩しさと暖かさが滲み出す。裏切られた悲痛よりも、与えられたもののほうが大きかった。


(けっきょく私は大人になっても、お母さんのことが忘れられないんだな……)


 いつだってずっと待ち焦がれていた。

孤児院にいた頃も、孤児院を卒業した後も、お母さんの温もりが欲しかった。

私が今これほど娘との約束に固執しているのも、その幼い願いに私自身の姿を投影しているからなのかもしれない。


 かつてあのベンチで離れ離れになってしまった、もう一つの「忘れられない」約束。それを今でも、私はあの娘に――


(ママ……ママ、か……。マウルはいつから私をそう呼ぶようになったんだろう? そう呼べるのが、羨ましいって思っちゃうな)



*****


 

 フェノメノン製本店に出勤し、私は今日も夜遅くまで働いていた。

今年の冬も例年通り繁盛期を迎え、相変わらずこの店はほっと一息入れる暇もない。リヴァスへ遠出する悩みも頭の隅にしまい込み、ただひたすらペン先に意識を集中させた。


「やぁお疲れエルザ。写本はどのぐらい進んだかな?」


 机からパッと顔を上げると、ランプを持った店長が目の前に立っていた。

肩にはうっすらと雪の跡が残っており、さっきまで二号店に出張していたことが窺える。一年前に二号店を開業して以来、彼は貴族の社交パーティにも顔を出すようになっていた。


「あっ、はい店長! ちょうど今『ペストとその悲劇の歴史』を書き終えたところです」


「そっか、相変わらず君は優秀だね! このペースなら、後三日ほどで新刊が出せそうだよ」


 いつも通り店長は満足げに頷き、私は胸に誇りを感じる。

この仕事は私の天職だ。やっぱりここを辞めたくない。


「あっ、ところでエルザ。ちょっと大事な話があるんだけど……君、翻訳の仕事をやってみる気はあるかい?」


「えっ、翻訳!? 私がですか?」


 突然聞き慣れないフレーズが耳に飛び込み、思わず私はオウム返しに尋ねかえす。翻訳……翻訳……他国の言語で書かれた文章を、私たちの言語で書き直す作業だ。ファーグリンの街から一歩も出ていなかった私は、しばらく言葉の意味を飲み込むのに時間が掛かってしまった。


「そう、翻訳。外国の本を仕入れて、それを新しい写本にして売り物にするんだよ。このところファーグリンの街も南国の商人の往来が盛んだし、今は熱帯地方の書物が流行してるんだ」


「で、ですが店長。私、外国語なんて全くわかりませんよ? 翻訳の仕事を任されてもお役に立てるとは思えないのですが……」


 私はおそるおそると断りを入れる。

「こんな返事をして評価が下がったらどうしよう?」そんな心配が本気で過った。

けれど店長の態度は変わらず気さくで、いつものように期待の眼差しを私に向けてくる。


「うん、それはわかってるよ。だから君には外国語の研修をしてもらおうと思ってね。君は仕事の飲み込みも速いし、勉強熱心だし、きっと外国語の習得もすぐできるよ。もちろんそのための教材はこちらで用意するし、研修期間中の手当も出す。もしこの仕事を引き受けてくれるなら、今の給料も二倍にするよ」


「……!!」 


 その提案を耳にした瞬間、私は高速で頭の中で計算を組み立てた。

――それだけの報酬がもらえるのなら、リヴァスへ行く目途も立つかもしれない。

私は一筋の活路を見出し、マウルと手を繋いで旅に出る絵本みたいな光景を思い浮かべた。


「じゃあ、返事は休み明けの三日後にくれればいいからさ。おやすみエルザ。来年も良いお年を」



*****



 雪が降りしきる夜更けの帰路、私は懸命に考えを巡らせていた。

翻訳の仕事を引き受けるべきかどうか……本当にそれが最善なのか何度も未来の地図を広げてにらみ合う。


(研修期間中も給与をもらえるなら、決して悪い話じゃない。でももし引き受けたら今まで以上に忙しくなっちゃうかもな……)


 そうなれば、マウルと一緒に過ごせる時間は確実に減ってしまう。

ただでさえあの娘はいま病気のせいで心細いというのに、また寂しい思いをさせることになる。私は仕事の忙しさにかまけて、マウルにずっと我慢ばかり押しつけていた。――けれど、私が一緒にいるだけで本当にマウルは幸せなのだろうか?


(マウルは「リヴァスに行きたい」と何度もせがんできた。あの目はただの気まぐれなんかじゃない。例え記憶を失っても、やっぱりリヴァスはマウルにとって大切な故郷なんだ。……帰りたいと願う気持ちは、私にも痛いほどわかる)


 その望みを叶えることは、私の過去の傷の埋め合わせでもあった。

この街に捨てられてしまって以来、私はずっと故郷へ帰りたかった。

その満たされなかった欲求を、今あの娘に重ねてしまっている自分がいる。


 それでも六年間、ずっとあの娘と一緒に暮らし続けた日々は、嘘偽りなく宝物のように大切だった。やっと手にすることができた『家族の絆』。私はその温もりを手放したくない。あの娘が思いっきり笑ってくれるなら、それが今の私にとっての幸せだった。


(もしリヴァスに連れて帰れば、あの娘の一生の思い出になるかもしれない。きっとあの娘にとってリヴァスは大切な場所のはずだから……もしかしたら、何かのきっかけで記憶だって取り戻せるかもしれない)


 そんな予感とともにあの頃の懐かしい景色が蘇る。

それはもうあの娘の中から潰えてしまったけれど、やっぱり私にとっては忘れられないくさびだった。


 もしかしたら、もしかしたら、また会えるかもしれない。

ずっと記憶の底に沈んでいた希望が、ふつふつと水面みなもから這い上がる。


 ――翻訳の仕事、引き受けよう――


 ちょうどアパートの扉の前に到着した時、私はその決断を下した。

エゴと愛情が混じり合った、完璧な正しさなどない答え。

それでも私はあの娘の笑顔を守りたい。例えそれが自分自身を慰めるためであっても。


 だから私は今日も扉を開ける前に笑顔を作る。懸命に母親の姿を振る舞って、あの娘が待つ我が家の鍵穴を回した。


「マウル、ただいまぁ! ちゃんとご飯食べてくれたぁ?」


 玄関で靴と外套を脱ぎながら、私は明るい声で呼びかける。

夜更けの雪空から帰ったリビングは暖かさが残っており、そして暗闇に包まれていた。――もう眠ってしまったのだろうか? 返事は特になく、辺りはシンと静まり返っている。私はテーブルに置かれたランプを灯そうと、手探りで歩を進めた。



 ベチャリ



 その時、足の裏に何かがへばりついた。

粘り気がある粒状の物体と、ぬかるみのような冷たい液体。

しゃがみ込んで床に手のひらを置くと、それはトマトのリゾットだった。

すぐ傍で皿がひっくり返っており、スプーンが鈍く光沢を放っている。



 ――うつ伏せに倒れた真っ黒な人影――



 その正体に気づいたのは、ほんの数秒の後だった。


「マウル? マウルっ!!」


 べったりと汚れた手足を滑らせながら、私はマウルの体を抱き起こす。

――信じられないぐらい額が熱かった。浅い呼吸が途切れ途切れに繰り返され、顔中が大粒の汗でまみれている。半分だけ開かれた目からは、ただ虚ろな視線だけが彷徨っていた。


「ママ……おかあ、さん……」


 わずかな声量とともに瞼の糸がプツリと切れる。

その光景を目にした瞬間、残酷な秒針が迫る悪寒が脳裡を震わせた。


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