変わらないあなたがいた
―11―
雪が降りしきる深夜過ぎ、アパートに到着すると窓辺から光が見えた。
まるで蛍火のように消えてしまいそうな灯火は、そのくせ人の存在を主張している。
(あの娘、まだ起きてるの? さっさと寝ればいいのに)
私はランプ代が無駄になったことに舌打ちし、そのままガラリと玄関の扉を開けた。
「あっ、お姉さん……」
リビングテーブルの椅子に案の定あの娘がいた。
ランプに照らし出されたその顔は項垂れており、発せられた声もか細いものだった。
「…………」
けれど私は気にも留めず、さっさと自分の仕事部屋へと向かった。
鞄の中には仕事先で預かった書きかけの写本の写しがまだ残っている。
もう店も戸締りの時間だからと帰されたから、続きを自宅で進めることに決めたのだ。明日中に終わらせなければいけない。それが私自身が課したノルマだった。
「お姉さん、お腹すいた……」
だが、ふいに袖元が引っ張られる。あの娘が私の傍まで近づいてきたのだ。
見下げるとその瞳は弱々しく、雪明かりの中泣き出しそうになっていることに気づく。だけど、今さらそんな顔をされても何の憐憫も湧いてこない。私が料理を作っても感謝すらしないくせに、都合のいい時だけ子供面しないでほしかった。
「……今朝作り置きしたパンがキッチンの戸棚に入ってるでしょ? それ食べといて」
私は振り返りもせず冷たく言い放つ。
だけどあの娘は袖を握ったまま放さなかった。
「あれだけじゃ足りないよ。羊のお肉が食べたい……」
「贅沢言わないでよ。お肉だって高いんだから我慢して」
「毎日パンばっかりじゃん。他のものが食べたいよ。私、育ち盛りの子供なんだし……」
「あなたはもう成長なんてしないでしょ? 記憶もないくせに」
皮肉をこめて言い捨てると、私は腕を揺さぶって手を振り払った。
「あっ」と消え入りそうな声が耳に入ったが、それを無視してさっさと部屋の扉を開けた。
「私は写本の仕事がまだ残ってるからあなたはもう先に寝てて。食事ならまた朝に用意してあげるから仕事の邪魔しないでくれる?」
最低限必要なことだけ告げると、私はバタン! と扉の鍵を閉めた。
その間際、相手が恨めしそうな視線を寄越した気がしたが、わざと気づかない振りをした。
*****
仕事部屋に戻り、私は書きかけの手稿にペンを走らせていた。
『失落と福音』の写本にはもう二週間以上取り掛かっている。
だけどそろそろ作業も終わりに差し掛かっており、筆写にも熱が入っていた。
「……うっ!」
だがその時、稲妻に打たれたような激痛が走った。
視界には砂嵐のような白い粒がチラつき始め、グワングワンと周りの景色が揺れた。
(くっ、また頭痛が……。あともう少しで完成なのに、なんでこんな時に限って……)
私は崩れそうになる頭を左手で支えながら、痛みが収まるのをじっと待つ。
だが一向に不調がやわらぐ気配がない。思えばこの頃徹夜続きで、かなり体にも無理をさせてしまっていた。
(でも、頑張らなくちゃ。フェノメノン製本店も今が正念場だし、私が支えないと店が回らなくなっちゃう。新刊は次々入荷してくるんだから、それに間に合うように写本を仕上げなくちゃ!)
私は鉛のように重い頭を無理矢理奮い起こし、また机に齧りつくように向かい合う。けれど目の焦点が上手く合わせられず、なかなか集中を取り戻すことができない。完成まであと一歩なのに……私は眉間を力ませながら、何とかペンを握り直そうとした。
ガチャン!
その時、背後からいきなり乱暴な物音が立てられた。
ハッとなって振り向くと、そこにはあの娘が立っていた。
確か鍵なら閉めたはずなのに――思わぬ闖入者の登場に私はピタリと作業の手を止める。
「あなたっ! どうしてここに? 仕事の邪魔をしないでって言ったでしょ!?」
薄暗闇の中、相手がさっと片手をあげる。
目を凝らしてよく見ると、その手には鍵束が持たれていた。
「ちょ、ちょっと! それ、私の部屋から持ちだしたの? 勝手に仕事場に入るなっていつも言ってるでしょ!?」
私は椅子を蹴って声を張り上げる。
だが相手は押し黙ってズンズンとこちらに迫ってきた。
あっという間に作業台の前まで来たかと思うや、いきなり開けっ放しのインク瓶が持ち上げられた。
「あっ!!」
バシャンッ!
制止する間もなく、机一面にインクがぶちまけられた。
作業中だった用紙は真っ黒に染まり、もはや何も読めなくなる。
バシャンバシャンッ!
そして今度は、完成間近だった写本の写しにもインクがぶちまけられた。
砂の城を蹴り砕くように、何のためらいもなくその暴力が振るわれた。
空になった瓶は床に投げ捨てられ、そのままゴロゴロと壁際まで転がっていく。
――何度も見直して、何度も修正して、あと少しで終わりだったのに……っ!
気がついたら私は飛び掛かり、あの娘の肩を引っ掴んでいた。
「何てことするのッ!? これは店長さんから預かった大事な商品なんだよ! この本を完成させるのに二週間以上もかかったのにっ……全部台無しになったじゃない!」
「そんなの知らないよ! 私はお姉さんと違って仕事なんて大嫌いだもん! そんなに仕事が好きならずっと本屋さんで働いてればいいじゃん!」
怒鳴り声をあげる私に対して、相手も怯むことなく睨み上げてきた。
とび色の瞳はキッと吊り上がり、むき出しの不満と怒りを露わにしている。
そんなこちらの苦労も知らない態度にヒクヒクと指が震え、私はますます頭に血を上らせた。
「あなたの生活費を稼ぐために働いてるんでしょ!? 自分一人じゃ食事の用意もできない居候のクセに! 仕事の邪魔するならもう出ていけ!!」
「出ていくよこんな家! 私はお姉さんにお世話してなんて頼んでない! 孤児院からいきなり連れ出したのはそっちのクセに! フウリお姉ちゃんに会いたいよっ!」
私の手を振り払い、相手は踵を返して仕事場から飛び出していった。
バタン! と、夜の静寂を破る乱暴な物音が鳴り響く。
しばらく時計の秒針だけが耳に流れ、気がついた時には私一人。
興奮した頭が冬の冷気に晒されて、少しずつ冷静さを取り戻していった。
「マウル? マウルッ!」
ハッとなって青ざめた瞬間、私は部屋から駆け出した。
リビングを抜けて玄関にたどり着くと、入口が開けっ放しになっていた。
あの娘の姿がどこにも見えない。夜空から雪がごうごうと吹雪いている。
(マウル……まさか、こんなひどい天気なのに!?)
私は急いで玄関口のコートとランプを引っ張り出し、そのまま靴を履くや家を出る。外の世界は痛いほど肌を突き刺し、容赦なく体温を奪っていった。
(マウル……いったいどこに行ったの? こんな寒さなのに外へ出るなんて、死んでしまうかもしれない……)
吹き荒ぶ吹雪の中、私は今にも消えそうなランプを手に夜の街道へと進み出した。革靴が積もり雪に埋もれ、かじかんだ足が何度も転びそうになる。
(マウル……マウル……)
それでも、私はマウルの捜索を止めない。
凍りつきそうな頭の中では、あの娘を引き取った時の記憶が蘇っていた。
失いたくなかった、取り戻したかった。その温もりを、その笑顔を。
だから私は冬闇の街を駆け回った。
(マウル……どこにいるの? こんなに街中を探してるはずなのに、全然見つからない)
大雪に体力が奪われ、とうとう私は息を切らせて立ち止まる。
あの娘が行きそうな場所、それに考えを巡らそうとする。けれど、全く思いつかない。私はあの娘のことを何も知ろうとしていなかった。
「そこのご婦人、止まりなさい!」
途方に暮れたその瞬間、ふいに鋭い声が耳にとどろく。
壁に手を預けながら顔を上げると、街を巡回する衛兵がガシャガシャとこちらまで走ってきたのだった。
「一体こんな雪の夜更けに何をしているのですか? まさかどこかの家に入って、盗みをしようなどと企んでいるわけではないでしょうね?」
甲冑越しの鋭い眼光が私を射抜く。
その迫力に気圧され、私はかすれた声で弁解を返した。
「い、いえ違います。その、マウルが……娘が、家出をしてしまったんです」
「娘?」
「その、女の子を見かけませんでしたか? 11歳ぐらいの、茶色の長い髪をした女の子です」
私が事情を打ち明けると、衛兵は顎に籠手を添えて考え込む。
「……いえ、特には。夜中に出歩く子供の目撃情報は本官の耳には届いておりません」
「そ、そうですか。なら、私はこれで。マウルを、探さないと……」
藁にも縋る思いだった私は、望んだ答えが得られず肩を落とす。
そしてすぐに胸がざわつき始め、フラフラと衛兵の横を通り過ぎようとした。
「お待ちなさい」
けれど、がっしりと肩を掴まれた。
その鎧の手の重さが、ずっしりと全身にのしかかり動けなくなる。
「こんな夜更けに家出した子供を探しても見つかる可能性は極めて低い。娘さんの捜索は本官に任せて、あなたは家に帰りなさい」
「でもマウルを……マウルを探さないと」
「最近街では泥棒被害が多発しており、厳戒態勢を敷いているのです。これ以上本官の指示に従わないつもりなら、あなたを兵舎まで連行します。
……あなたが娘を探すフリをした、盗人の可能性だってあるのですからね」
「…………」
その有無を言わせない脅しかけに、憑き物が落ちたように全身の力が抜ける。
けっきょく私は衛兵の命令に従い、アパートに帰らざるを得なくなった。
自分の住所を伝え、マウルの捜索願を出す。
後ろ髪を引かれる思いを抱きながらも、私は自室の仕事場へと戻っていた。
(…………)
消えていたランプの火を灯し直すと、机の上がインクで真っ黒になっていた。
相変わらず仕事道具が散乱しており、完成間近だった写本の写しはもはや売り物に出せなくなっている。
(……これ、明日までに届けるって店長さんと約束してたのに)
私は誰にも聞こえることのない深いため息をつく。
今までこんなつまらない失敗をしたことはなかったのに。
優秀な職人としての自尊心はガタガタに崩れ落ちていた。
(明日になったら何て言えばいいんだろう?
大事な仕事だったのに、予定が全部狂ってしまった……。
もう修復することはできない。だったら最初から書き直すしかない。
でも、今からやったところで間に合うの?)
疑念に苛まれながら、私は真っ白な用紙とインク瓶を引き出しから取り出す。
写本の原本を開き直し、もう一度作業台に向き直った。
けれど頭の中が燃え尽きたようにボーッとして、一文字すら書くことができなかった。
――こんなこと、今さらやったって意味がないじゃない……。
そんな投げやりな意識の隙間には、やがて記憶を失ってしまったあの娘の姿が流れてくる。
(私は……何をやってるんだろう? ここまで仕事を頑張ってきたのは、マウルの生活のためだったのに。肝心のマウルは、家から出て行ってしまった……)
考え始めると、マウルのことが頭から離れなくなる。
過去の記憶を取り戻そうと躍起になり、けれどそれが結果的にマウルを傷つけてしまった。
どうして今まで気づけなかったんだろう?
私はマウルと幸せになりたかったから保護者になったのに、自らその役割を放棄していた。
(私は、マウルの気持ちを蔑ろにしてしまった。
自分の都合ばかり押しつけて、子供の事情なんてお構いなしで。
挙句の果てに、家から追い出すような形にまでなってしまった。
……これじゃあ、私のお母さんとやってることが一緒じゃない)
あの日、ベンチに置き去りにされた過去の光景が蘇る。
待ち続けて、信じ続けて、けど裏切られて。私は一生消えることのない傷を負った。
親から放ったらかしにされた子供がどれだけ傷つくか……そんなこと、痛いほど理解していたはずなのに。けっきょく私は過去のトラウマを乗り越えきれず、マウルに依存してばかりいた。
(マウルをこんなところまで連れて来たのは私のエゴだ。
記憶を失ったマウルに怒るのはただの八つ当たりでしかない。
だったら、私はどう接したらよかったの?
あの頃の絆も途絶えてしまったマウルに、今さら何をしてあげればよかったの?
私と一緒に暮らすことが、本当にマウルにとって幸せなの?)
物思いに沈んだ頭の中で、次々と懐疑の声が逆巻く。
けれどいくら思考を巡らせても、答えなど返ってこない。
私が見たかった笑顔は、私が思い描いた幸せは、私自身の手で壊してしまったのだから。
(うっ! また頭痛が……やっぱりこれ、全然治ってない)
激痛に再び見舞われ、私の意識は現実に引き戻される。
けっきょく私はペンを握り直し、写本作業を無理にでも続けるしかなかった。
こうして毎日仕事をこなさなければ、自分自身の生活すらままならないのだから。
(ダメ、目を閉じたら……明日までにちゃんと、店長さんに本、届け、なきゃ……)
そして私は暗闇に瞼を攫われた。
*****
鳥のさえずりとともに、瞳の中に光が差し込まれた。
頭に鈍い痛みがズキズキと走ると同時に、頬に机の硬い感触が伝わる。
(ん……眩しい。私、一体何をして? …………ッ!)
反射的に机から顔を上げると、時計は九時を回っていた。
窓辺からは朝の日射しが上っており、始業時間はとっくに過ぎている。
(しまった! 預かってた本すら完成してないのに寝坊までするなんて! 私、店長さんになんて説明したらいいんだろう? 早く、仕事に行かなくちゃ……)
弾かれたように私は机の前から跳ね起きる。
けれどその時、肩から何かがハラリと落ちた。
(えっ? これって……)
床に視線を落とすと、それは毛皮でできた毛布だった。
拾って手で触ってみると、まだ温かさが残っている。
こんなもの、自分で用意した覚えはない。
だとしたら、考えられる可能性はひとつしかなかった。
「マウルっ!」
とっさに名前を叫び、私は仕事の身支度も忘れて部屋の中を飛び出した。
その面影に会いたくて、一秒でも早くあの娘の居場所まで駆けつけようとする。
キッチンに到着すると、グツグツと煮込まれる音が聞こえてきた。
甘くて酸っぱい、トマトの香りが鼻腔をくすぐる。
竈へと視線を向けると、マウルが真剣な表情で鍋の中を見下ろしていた。
「あっ、起きたの? お姉さん」
ぶっきらぼうな声でマウルが振り返る。
その光景が信じられなくて。けど胸がすくように力が抜けて――。
私は夢現な心地でとび色の瞳を見つめ返した。
「マウル……帰ってたの?」
「うん、ガドンって兵隊のおじさんに連れてこられて。『お母さんが心配してるから早く帰りなさい』って怒られちゃった。……お姉さん、私のことあんな雪の夜なのに探し回ってたんだね」
マウルは玉ねぎを手早く微塵切りにして、鍋の中に放り込む。
その手慣れた仕草に、私は過去の面影を思い起こす。
はじめて二人でトマトスープを作った思い出、それが花畑のように頭の中を覆いつくした。
「マウル、どうして自分で料理作ってるの? いつもなら私の部屋まで来て起こしてたはずなのに」
「だってお姉さん、すっごく疲れた顔してたんだもん。
あんな顔見たら、お姉さんを起こす気になんてなれないよ。
だから自分で料理作ることにしたの。私、孤児院でお手伝いしてた時は、フウリお姉ちゃんに料理上手だねって褒められてたんだよ」
誇らしげに胸を張ると、マウルは大きなお皿を二つ用意する。
煮え立った鍋の中に玉杓子を浸し、トマトスープをよそい入れた。
「はい、お姉さんの分も作ったよ。ここのところお姉さん、仕事が忙しくて全然まともにご飯食べてなかったでしょ? ちゃんと食べなきゃ死んじゃうよ」
さらりとかわされた気遣いが、私の胸の中に懐かしい温もりを呼び覚ます。
もう取り戻せないと思ってたのに。もう会えないと思ってたのに。
あの頃の優しさは、子供の姿になっても変わっていなかった。
「なにぼーっとしてるの? ほら、早く席に座ってよ。お姉さんが倒れたら、困るのは私なんだから。
……本にインクかけて、ごめんなさい」
目を逸らしながら、照れくさそうにマウルは呟いた。
私の目からハラハラと透明な雫が零れ落ちる。
寂しさも懐かしさも何もかもがない交ぜになり、私はマウルのことを抱きしめていた。
「ありがとう先生……先生はやっぱり、先生のままなんだね」
「な、何いきなり? 私、先生じゃないんだけど?」
「うん、ごめんね。ありがとうマウル。これからはもう、マウルのこと放ったらかしになんてしないから」




