約束は束縛とともに
―11―
「院長先生! あの子誰なんですか? さっきの女の子、マウル先生にそっくりだったんですが」
「…………」
院長室に通された私は、間髪入れず真相を問い質した。
二階で子供たちの騒ぎを鎮めた後、院長先生は黙ってここへ招き入れたのだった。
皺だらけの面差しは落ち着いている。けれど私は逸る気持ちを抑えられない。
先ほど私とぶつかった女の子の正体、それを聞きだすまではここから動けなかった。
「もしかして先生の娘さんですか? なら先生は今どこに? あんな小さな女の子、先生が放っておくはずない!」
「あの子は、紛れもなくマウル本人だよ」
「えっ?」
ボソリと呟かれた言葉に、私は幾度も瞬きする。
まるで理解が追いつかず、目を皿にして院長先生を見つめ返した。
「マウル先生本人って……でも、子供じゃないですか! 先生はとっくに大人になってて、あんなに小さなはずないのに」
「……あの人はね、病気だったんだよ。
名前もわからない奇病に罹ってるって、そう日記に書いてあったのさ」
「奇病? 日記? どういうことですか!?」
頭の中でそれらの単語が不自然なほど反響し、私はオウム返しに尋ね返す。
そんな事実、先生は一度だって口走ったことなんてなかったはずだ。
けれど院長先生は私の問い詰めに何も答えず、代わりにスッと席を立つ。
そのまま壁際の机まで歩み寄ると、引き出しから一冊の本を取り出した。
『マウル・ジェニエイバの日記』
対面の席に戻った院長先生は、そう綴られた表題を机に置く。
綺麗な筆致で書き表されたそれは、確かにマウル先生の字だとすぐ理解できた。
「このページを見てごらん。ここにマウルがどういう病気に罹っていたのか詳しく書いてあるよ。……にわかには信じられなかったけどね」
開かれた分厚い日誌を受け取ると、ズッシリと重みがあった。
ページはひどく煤けており、それでも黒い文字がはっきりと目に映し出される。
けれどいざ文章を追おうとすると、何故か冷や汗が吹きだした。
『もう二度と会えないかもしれない』
あの時の突拍子もない予感が急に頭の中で蘇る。
孤児院を卒業する前日、先生が苦しそうに左胸を押さえていた光景が浮かび上がった。
それでも私は、吸い込まれるように日記を読む。
ほの暗い井戸の底を覗き込むように、全ての真相を目の当たりにした。
*****
〝ファイウェル孤児院院長ファルナ・アウェゲイン様へ
ごめんなさい。
私は孤児院のみなさんに隠していたことがありました。
それは自分自身の病気のことです。
今誰かがこの日記を読んでいるということは、恐らく私の病気が相当進んでいるということでしょう。こんな話をしても信じられないかもしれませんし、多大なご迷惑をおかけしているかと思われますが、どうかそのまま読み進めてください。
私は59年前、リヴァスの街で生まれました。
ですがそのとき私は体中が皺だらけであり、まるで老婆のような顔をしていたと聞きます。
母は著名なお医者様の元に訪れ、私の特異体質について調べてくれました。
お医者様の診察によると『老人から赤ん坊になるまでどんどん若返っていき、そして寿命を迎える』という、名前もわからない奇病を患っているのだそうです。この病気は現代の医療では発病する原因がわかっておらず、治す方法も見つかっていないと言われています。
そして年齢を重ねて若返れば若返るほど、記憶も徐々に失われてしまう症例も見られると聞きました。見た目の年齢は若返っても、脳の年齢はどんどん老化していくのだそうです。私も長い間生きて歳を取り、だんだんと物忘れが多くなりました。
きっとこのままでは私は何もかも忘れてしまい、そのまま赤ん坊の姿になって死んでしまうでしょう。体が若返る病は急速に進行しており、あまり長くはありません。
つきましてはファルナ院長先生。もし私の病気がひどくなり、生活もままならないほど子供になってしまった時は、どうか私をファイウェル孤児院に置いていただけませんでしょうか?
無理なお願いをしているのは重々承知しております。ですが私には身寄りがなく、他に行く宛てもありません。どうかご検討のほどよろしくお願いします。
追伸
私の奇病については、バーダガさんという信頼できるお医者様に記録してもらっています。私に万が一のことがあった時は、そのお医者様を頼ってください。お医者様の住所については次のページに記載させていただきます。
マウル・ジェニエイバ〟
*****
日記を読み終えた時、私は呼吸を忘れるほど目の前が真っ白になった。
はじめて知り得た真実を前に、どう反応したらいいのかわからない。
そんな奇病のこと、先生は一言だって仄めかしすらしなかった。
気がつけば、日記を持つ指先に歪なほど力が入っている。
そんな感情の行き場を失った私を、院長先生は沈痛な眼差しで覗き込んでいた。
「読み終わったかい? マウルは生まれつき若返りの奇病に罹って、記憶もどんどん失われているんだよ。近頃は孤児院の他の子供たちの名前すら忘れてしまっている。……フウリのことだけは覚えてるみたいだけどね」
そんな事情を打ち明けられても、私は何一つ答えを返せない。
氷でできた毒を飲み込んだように、全身の感覚が錆びついている。
院長先生が伝えた言葉も、どこか上滑りして耳の裏側を過ぎていく。
――私はそれ以上、話を聞きたくなかった。
「今までお前に何も話さなかったのは、きっと余計な心配をかけさせたくなかったからだろうね。私も直前まで会わせるべきか迷ったよ。お前が傷つくのは明白だったからね。……やっぱりお前は、マウルのことを忘れていなかった」
雑踏の中の喧騒のように、耳の奥でざわざわと不協和音が鳴り続ける。
この場所から今すぐ逃げたかった。軽はずみな希望なんて持つべきではなかった。
それでも私は縛り付けられたように、最後までその言葉を聞き届けるしかなかった。
「だけど、真実は全て話したほうがいい。
お前はもう立派な大人で、現実と向き合える力があるのだから。
……だからエルザ、正直に告げる。マウルはもう、お前のことも覚えていない」
「…………ッ」
その核心を突きつけられた瞬間、胸に抱いたガラス玉は砕け散った。
先生が教えてくれた言葉も、癒やしてくれた傷も、抱きしめてくれた温もりも……全てが焼け焦げた残骸となる。
過去の喜びも苦しみも腹の底から込み上がり、それは一つのどす黒い噴煙に成り代わる。全身が堪えきれないほど打ち震えだし、ボトリ、ボトリ、と涙の雫が垂れ落ちた。
「だったら、あの約束は嘘だったんですね……」
「……エルザ?」
「私と先生は『お互いのことをずっと忘れない』って約束した! けど、そんなの全部嘘だったんですね! 先生は守れもしない約束を私と交わしてたんだ!」
「エルザ! 落ち着きなさい! マウルにも事情があったのよ!」
院長先生が声を張り上げて私の叫びを制止する。
けれどヘドロのように濁り切った感情は、もう堰き止めることができなかった。
「私は、私はっ、先生といつかまた会えると思ってたから今まで頑張ることができた! でも先生は、私のことなんてこれっぽっちも覚えてなかった! だったら私は何のために、何のためにっ、先生とあんな約束を交わしたの!?」
怒りと誹りが、とめどもない洪水となって溢れてくる。
悔しくて、許せなくて、胸が締め付けられるように痛かった。
――私はまた、大切な人に裏切られた――
その現実に耐えられなくて、子供のように喚き散らすしかなかった。
「……エルザ、どこでもいいからその日記のページを開いてごらん」
けれど日記を床に叩きつけようとした時、院長先生は静かに呼び止めた。
かつて見せたこともない優しさが含まれた、慮りある指導者としての声。
暴力的な衝動に突き動かされた腕が、寸でのところで留まった。
「その日記にはね、お前のことが毎日のように書かれているよ。お前のことがよっぽど大事だったんだろうね」
「……!」
瞬間、私は弾かれたように日記を開く。
何か大切な欠片を見つけ出したように、もう一度インクの渦の中に視線を落とした。
『今日はエルザと一緒に部屋を掃除した。「掃除なんて面倒くさい」って言うから菌のことを教えたら、エルザってばすごく怯えちゃって。ちょっと可愛いって思っちゃった』
『今日はエルザと一緒に買い物に出かけた。ふと目を離したらエルザが迷子になっちゃって。その時はすごく不安になった。でもその後お肉屋さんでエルザを発見したら、ものすごくキラキラした目でお肉を見てて。何だかもう全部許せちゃった』
どのページをめくっても、私の名前が、私の思い出が、足跡を残すように記されていた。その揺るぎない幸せの証に、瞳がわなわなと揺れて、追いかけるようにページを繰る。
『エルザ、ごめんなさい。忘れないって言ったのに、記憶喪失のこと黙ってて』
最後のページの隅には、そんなメッセージが綴られていた。
色褪せた紙の上に、いくつも水滴のような跡が残っている。
それを目にした瞬間、私も涙が止まらなくなった。
先生の日記の中には、確かに私の存在が生き続けていた。
震える手で最後のページを閉じ終えると、自分の胸の中にヒシと抱きしめる。
会いたかった気持ちが全部掻き出され、胸の中が先生との思い出で埋め尽くされる。私のことをよくからかって、私のことを振り回してばかりいて……でも、そんな先生が大好きで。
だから、手放せなかった。
先生の笑顔も、先生の優しさも、先生との約束も……全部、全部。
だから、私は決断した。
止まらない涙を強引に拭い去り、先生が残した記憶から迷いのない眼差しを上げた。
「院長先生…………私に、マウル先生を引き取らせてください」




