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エルザのことを忘れない  作者: 区隅 憲
後編 ~大人になった執着~
12/22

会いたかった遠い約束

―11―


 

 フェノメノン製本店の工房は、いつものように物静かな緊張で包まれていた。

職人たちが長机の前で間隔を空けながら並び、それぞれが担当する写本を書き写している。


 シュシュシュシュッ、シュシュシュシュッ、


 鳥の羽でできたペンを走らせ、正確に、素早く、ただ黙々と作業に集中する。

筆音だけが響く飾り気のない部屋の中は、まるで聖堂のように厳かな雰囲気だった。職人たちの多くが教養のある若い婦人たちで、綺麗な洋服を着こなしている。

一方の私は、労働者階級丸出しな地味な恰好をしていた。


(よしっ! できた!)


 そんな場違いとも言える風景の中、私は最後の一行を書き終えた。

ほっと一息入れながら完成したばかりの手稿をまとめ、まだ乾き切っていないインクの匂いを味わった。


(さて、高貴なご婦人たちの調子はどうかな?)


 顔を上げて見渡すと、同じ本を担当する同僚たちはまだ忙しそうにペンを走らせていた。本来なら完成に二週間かかるこの本を、私は一週間で仕上げた。

負けん気が功を奏したことに口元を緩め、ひそかに鼻を高くする。

束の間の余韻に浸っていると、ふいに工房の扉が開かれ、私に近づく足音が響いた。


「やあエルザ。調子はどうだい?」


 振り返ると、フェノメノン製本店のオーナー、ライダック店長が見回りに来たのだった。街一番の写本工房を経営する彼は、まるで貴族のように身なりが整っている。


「あっ、店長! はい、ちょうど今『ルリユールの軌跡』の写本が終わったところです。自分でも定期的に読み直しをしてみたのですが、誤字や脱字はないはずです。あとで確認をお願いします」


 完成したばかりの手稿の束を差し出すと、店長はパラパラと紙面をめくる。


「……うん! どうやら完璧にできてるみたいだね。字もきれいに書けてるし、ざっと見たところ落丁なんかもなさそうだ。後で誤字脱字のチェックはするけど、多分君なら大丈夫だろう。速記の腕も申し分ないし、やっぱり君は優秀だね」


「はい、ありがとうございます! この仕事は色んな本に出会えますし、外国の文化にも詳しくなれてやりがいがあるんです。もしまた書き写しが必要な本がありましたら、是非私に任せてください!」


 私はスクッと立ち上がり、店長に向かって深々と頭を下げる。

そんな仕事熱心な私の姿を見ると、店長は快活に笑い声を上げた。


「はははっ、頼もしいね。いや~、君がフェノメノン製本店に来てから僕の工房も随分と繁盛してるよ。この街の識字は普及してると言っても、まだまだ完璧に字を書ける人は少ないからね。写字ができる人材は本当に貴重だよ」


「そう言っていただけて光栄です! 私、色んな本に触れたくてこの仕事をやりたいと思いましたから」


「うん、それはいい心がけだね。思えば四年前に初めて君が面接に来た時は驚いたものだよ。こんな小さな女の子が写本の仕事ができるのかって正直心配だった。だけどその疑念も吹き飛ばすぐらい難しい仕事もこなしてくれたから、僕も凄く助かってるよ。これからもよろしくね、エルザ」


「はい! こちらこそよろしくお願いします!」


 私がもう一度頭を下げると、店長はにこやかに次の写本の原本をデンッと置いた。私はあまりの分厚さに「うっ!」と声が漏れそうになる。

けれど顔色には決して出さず、まっさらな紙をすぐに引き出しから取り出す。

18歳になったばかりの私は、職人としてしっかりと責任のある仕事を請け負った。



*****



(ふう……やっと今日の仕事も終わったなぁ)


 石畳の道を歩き帰路につく頃、私は今日もへとへとに疲れていた。

ファーグリンの街の夜空にはすっかり月が上っており、閑散とした街並みを照らし出している。


(写本の仕事って何年やっても慣れないんだよなぁ。文字を間違えたら修正するのが大変だし、すごく神経も使うし。ま、その分お金はもらえるんだけど)


 私は心の中で独りごちながら、労働者区域の住宅街に差し掛かった。


(さて、アパートに帰ったら何しよう? 最近バタバタして掃除もできてなかったし、部屋の片付けとかしよっかな?)


 そう考える間もなくアパートに到着した。私は鍵を取り出して古ぼけた扉を開ける。玄関を入ってすぐ目の前に広がるリビングには、だだっ広いテーブルと椅子だけが置かれていた。


(食事は……後にするか。やっぱり部屋の片付けからしよう)


 そのままリビングを通り抜け、右隣の扉に入る。寝室兼仕事場にしている自分の部屋だ。ランプの明かりを灯して作業台に置くと、乱雑に積み重ねた本や出しっぱなしのインク瓶があちこち散らばっているのが目に入る。


(だいぶ机が汚れてるなぁ。これじゃ菌も繁殖し放題だよ。さっさと片付けてご飯にしよう)


 そして私は明かりが見える範囲内で部屋の整頓を始めた。

カサコソと物音を立てながら没頭すると、幾分か作業台は綺麗になった。


(さて、机の上はあらかた片付いたかな? お隣さんの迷惑になるし、本格的な掃除は明日の朝に回そう。後は本棚の整理をしておくか。


 ……ええ~と、この本はここで……この本はここで……あっ、このシリーズ! 今朝新刊が出たから買わないと!)


 私はランプを片手に今流行りの本を取り出そうとする。

けれどうっかり手を滑らせて、隣の本を落としてしまった。


(あっ、しまった!)


 私は慌ててしゃがみ込み、床に落ちた本を拾おうとする。

けれど手に取ってランプで照らし出した時、表紙にピタリと目が止まった。


(あっ、これって……)


『英雄カルシスの伝説』


 懐かしいタイトルがそこにあった。

かつて私が孤児院にいた頃、先生がプレゼントしてくれた本だ。

思いがけず思い出の品と巡り合い、私は自然と笑みがこぼれた。


(懐かしいなぁこの本……先生と一緒に文字の書き方練習したんだっけ? 『カルシスがね』、『カルシスがね』って、本当に先生カルシスのことが大好きだったなぁ。……先生、今何してるんだろう?)


 古びた紙の匂いに刺激され、柔らかな記憶が綿雲のように浮かび上がってくる。

料理を一緒に作ったり、文字を教えてくれたり、友達を作る手助けをしてくれたり……。


 先生の優しさと厳しさに接したからこそ、私は一人立ちをする決心ができた。

今では一人前の大人として、フェノメノン製本店で毎日頑張って働いている。

お母さんに捨てられて独りぼっちだった私を、マウル先生が救ってくれたんだ。


(先生は……ちゃんと私のこと覚えててくれてるかな?)


 瞼を閉じ、四年前にベンチで交わし合った約束を思い返す。

お互いのことを特別な人だと伝え合い、ずっと忘れないと誓い合った。

孤児院を離れてから一度だって、先生のことを忘れた瞬間なんてない。


 会いたい……もう一度会いたい。


 先生との思い出を振り返ると、次第にその望みが大きく膨らんでいった。

私がちゃんと働いて一人暮らしできているって知ったら、先生はどんな反応をしてくれるだろう?


 喜んでくれるかな? 褒めてくれるかな?

私はもう一度先生に会って、あの頃のように楽しくおしゃべりしたい。


 その衝動が抑えきれなくなった時、とうとう私はファイウェル孤児院に帰省することを決めたのだった。



*****



(馬車に乗るのなんて久しぶりだなぁ……孤児院を卒業して以来だっけ?)


 過ぎ去っていく街の景色を眺めながら、私は久しぶりの遠出に胸を踊らせていた。フェノメノン製本店には休暇届を出し、外泊の準備もきっちりと整えている。

私にとってこの旅は、ちょっとした冒険だった。


(先生はまだ孤児院にいるのかな? もしかしたらもう辞めちゃってるかも……。

でももし会えたら、きっと先生は驚いてくれるだろうな。今じゃ先生に負けないぐらい大きくなったし、私だってそれなりに美人になれたし)


 目を丸くして喜ぶ先生の顔を想像しながら、私はくくっと一人ほくそ笑む。

もしかしたら、先生よりも綺麗になったかも……。


(その時はどんな話をしよう? 仕事先の店長さんに気に入られてる話とか? それともお隣のおばさんの面白いエピソードとか? ああっ全然考えがまとまらない! ホント私無計画すぎるよ!)


 私は期待と妄想を膨らませながら、馬車に揺られて再会の瞬間を待ち焦がれる。

もう朝から何時間も座りっぱなしだったけれど、全然退屈なんて感じない。


 カパポコ、カパポコ、カパ、ポコ……


 そして12時を回った頃、小気味よくリズムを刻んでいた蹄の音が鳴り止んだ。


「ファイウェル孤児院に着きましたよ。お嬢さん」


 とうとう待ちに待った運命の瞬間が訪れる。

私は御者ぎょしゃに料金を支払い、馬車のステップから足を踏み出した。

外の世界へ繰り出すと、日射しとともに古ぼけた大きな建物が目に広がる。

紛れもなく、それはファイウェル孤児院だった。


(ここへ来るのも久しぶりだなぁ……昔と全然変わってない。色々なことがあったけど、私はここで育てられたんだ)


 私は束の間だけ望郷の念に駆られる。

院長先生に何度も怒られて、孤児院のみんなからもずっと避けられて。

それでも、私が自立するまで見守ってくれた二番目の故郷。


 私は一歩一歩記憶を踏みしめながら、玄関の前まで進んでいく。

逸る気持ちを抑えながら、両開きの大戸を叩いた。


「はい、今開けます」


 聞き覚えのある声が扉の奥から伝わった。

低くしゃがれた老婆の声。

古びた軋みとともに開かれると、想像した通りの人影が現れた。


「どなた様でしょうか?」


 よそ行きの声で出迎える院長先生。ニコニコと笑顔を作っていた。

四年分歳を取って皺も多くなっていたけれど、昔とほとんど変わらない。

私は久しぶりの院長先生との再会に、急に緊張して畏まった態度になる。


「え、エルザです。この孤児院を卒業した――」


 途端に院長先生のにこやかな顔が引っ込む。

しばらく逡巡する素振りを見せた後、ポツリと低い声を漏らした。


「ああ、エルザ……あの可愛げのなかった子」


 言い捨てるかのような呟きに、思わずギュッと胸が詰まる。

私はこの人に散々迷惑をかけてきたし、よく思われていないのは当たり前だった。

それでも、ほのかに期待していた気持ちが一気にしぼんでしまう。


「久しぶりねエルザ。お前も随分と大きくなりましたね。

……まぁ、積もる話もあるでしょう。上がってらっしゃい」


 院長先生は控え目に玄関の扉を開けた。

私は居心地の悪さを感じながらも、それに従って入口をくぐり抜ける。

しばらく特に言葉も交わさず、床には軋んだ足音だけが響いた。


 リビングまで通されると、私と院長先生は向かい合って座った。

この時間はちょうど昼食が終わった頃らしく、子供たちの姿はない。

静かな部屋の中で探るように見合っていると、院長先生は事務的な声で話題を切り出した。


「生計はちゃんと立てられてる? 今は何をしてるんだい?」


「製本屋で写本の仕事をしています。孤児院を出てから、四年間ずっと」


「そう。仕事が上手く行ってるようでなによりだわ。お前も立派な大人になりましたね」


 私はもどかしさを感じながらも、淡々と近況報告をした。

それに対して院長先生も形式ばった態度で応対する。

大人になった今、この人とどんな距離感で接したらいいのかいまいちわからない。


「私のところは特に変わりないわ。相変わらずファーグリンの街は捨て子が多いし、でも毎年のように子供たちは巣立っていく。

私ももう何年もこの仕事をやってるけど、いつの時代もそれは変わりないわ。子供たちって案外たくましいものなのだと、いつも感嘆させられる」


「そうですか……みんな、ちゃんと自立して生きていけてるんですね」


 二言三言、世間話が交わされる。

感傷に浸れるような間柄でもない。

これは単に本題に入る前の儀礼のようなものだった。

ちょうど話が一段落したところで、私は様子を窺いながら口火を切る。


「それで、今日ここに来た理由なんですが……」


「何かしら? まさかお金に困ってるわけじゃないでしょうね?」


「い、いえ違います。別に借金とか抱えてるわけじゃありません」


 けん制するような相手の言い方に、私は慌てて否定を返した。

やっぱり私がここへ来たことは、あまり歓迎されてはいないらしい。


「その……マウル先生はいますか? 私が卒業する一年前に、新しく孤児院に入った先生です」


「……!」


 途端に、院長先生はさっと顔色を変える。

そして見開かれた目を伏せ、苦々しく声を漏らした。


「マウル……あの人、ね」


 ぎこちなさそうに視線を泳がせながら、院長先生は深いため息をつく。

眉間に大きく皺を寄せ、どこか表情に疲れを滲ませていた。


「あの、マウル先生に何かあったんですか? まさか、もう孤児院を出ていったんですか?」


 私が矢継ぎ早に問いかけると、院長先生は静かに瞼を下ろす。

じっと何事か思案する素振りを見せ、唇が重々しく閉ざされていた。

どこか張り詰めた空気が辺りに漂い、私は答えを待たされる。

けれどひと時の沈黙が過ぎた後、相手はガタリと席を立った。


「……ついてきなさい。マウルに会わせてあげるわ」


 そう手短に言うと、院長先生は二階へ続く階段へと向かった。

二階は確か子供部屋が並ぶ廊下に繋がっていたはずだ。

私は不審に感じながらも、黙ってその背中を追う。


 二階へ上がると、子供たちのはしゃぎ声が聞こえてきた。

廊下をバタバタと走っており、追いかけっこをしている最中のようだった。


「あははっ、フウリお姉ちゃんこっちこっち~!」


 11歳ぐらいの女の子がいきなりこちらに向かって突進してくる。

そして気がついた時にはもう遅かった。


 ドンッ!


 私はよそ見していた女の子とぶつかり、お互いに体を大きくのけぞらせた。


「イタッ!」


 女の子は小さく悲鳴を上げ、強かに床に尻もちをつく。

私はケガをしてないか心配になり、慌てて女の子の元に駆け寄った。


「…………!!」


 瞬間、私は息を呑む。

まるで世界の断片がハサミで切り取られたように、周囲の景色が消えていった。

子どもたちの騒ぐ声、廊下を踏み鳴らす振動――すべての音が遠ざかり、私の視線は凍りついた。


「お姉さん、誰?」


 不安そうに見上げた女の子は、マウル先生とそっくりな顔立ちをしていた。


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