離れ離れになった一番の宝物
―17―
「本日をもって、エルザはファイウェル孤児院を卒業することになりました。皆さん、エルザの旅立ちに別れの拍手を」
私がリビングのテーブルに着くと、院長先生の掛け声が広間にこだました。
孤児院の子供たちは特に色めき立つ様子もなく、ただ無言で送別会の主役にまばらな拍手を送っている。
冴えない朝の日差しが射し込むとともに、私は旅立ちの日を迎えていた。
けれどみんなにとってこれは特別なことでも何でもない。
いつの間にか誰かがいなくなって、また新しい住民が入って来るなんて、この孤児院では当たり前のことだった。
「エルザちゃん、卒業おめでとう。孤児院を出たら大変だと思うけど、頑張ってね」
そんな薄情な子供たちの中、フウリだけは私との別れを名残惜しむ姿を見せてくれた。私の傍まで近づいてきて、小さな手をそっと私に差しだしてくる。
「うん、ありがとうフウリ。……私、孤児院の外でも頑張ってみるよ」
私はフウリと握手を交わし、一回、二回、と手を振り合ってそっと離し合う。
そんなささやかなやり取りを周りから見届けられると、院長先生が再び声を張り上げた。
「さぁ皆さん! そろそろ朝食の時間ですよ! 各自、自分の席に座りなさい。今日は昨日のパーティで余った羊の肉のスープですよ」
その号令の途端、子供たちはみんなキラキラと目を輝かせた。
温かいスープが運ばれてくると、夢中になってご馳走のお肉にかじりつく。
私がこの送別会の主役だということも、もうとっくに忘れてしまっているようだ。
まるで私の存在が、最初からなかったように。
(当然……か。普段から全然会話なんてしてなかったんだもの。でも、やっぱりちょっと寂しいなぁ)
私はそんな賑わう空気にいたたまれなくなって、窓の外の街道に目を移す。
(先生は今どうしてるんだろう? 昨日の夜、急に体調が悪いって言って孤児院から出ていったけど……)
私は昨夜の出来事を思い返す。
夕食の後、私は先生と最後まで一緒にいたくて部屋を訪ねた。
けれどその時先生は、ベッドで顔を歪めて左胸を押さえていた。
『よくあることだから、気にしないで』
心配になって駆け寄った私に先生はそう答えた。
作り笑いを浮かべ、けれど額に汗を吹きだしていた。
私は院長先生を呼ぼうとしたが、先生はそれを断り、『ごめん、今日はお医者様のところに行くから』と言い残し外出してしまった。
(先生……どうしたんだろう? 普段はあんなに元気だったはずなのに。まさか、何か病気でも抱えてるのかな?)
リビングではしゃぐ声が続く中、私は不安を募らせる。
――もしかして、もう二度と会えないのかもしれない。
そんな予感さえ頭の中を過った。
「さぁ皆さん! そろそろ食事の時間も終わりですよ。エルザを見送りましょう!」
いつの間にか旅立ちの時間が迫っていた。
みんなが食器を片付け、ぞろぞろと孤児院の外へと出る。
私の目の前に置かれたひつじのスープはまだ半分も残っていた。
「エルザちゃん、大丈夫?」
フウリが心配そうに声をかけてくる。
フウリも昨夜の経緯を知っていたから、ひどく不安そうな顔だった。
いま私が沈んだ表情を見せている理由も、おそらくフウリは察している。
「うん……大丈夫。約束の時間だから、そろそろ行くね」
けれど私は気丈に振る舞い、傍らに置いてあった荷物を背負って立ち上がった。
――これからは先生がいなくても、一人で生きていかなきゃいけないんだ。
そう気持ちを奮い立たせ、孤児院の扉を開けた。
外へ出ると、孤児院の子供たちと先生たちが、全員並んで私を待っていた。
どの顔も無表情。よくある恒例行事を済ませるために黙って私に注目している。
多分こうして私が、みんなから意識を向けられるのは最初で最後。
孤児院で不良少女だった私が卒業しても、特に誰も悲しまなかった。
「……じゃあ、行ってきます。長い間お世話になりました」
「ええ、お前も健康には気をつけなさいね」
形式的な挨拶を院長先生と交わし、私はファーグリンの街道を歩き出す。
一歩一歩、噛みしめるように。
嫌なこともたくさんあったけれど、それでも九年間過ごした事実に変わりはない。
遠ざかる度に、胸がズキズキと痛んだ。
それからしばらく石畳の道を進んで振り向くと、もう誰の姿もなかった。
後に残されたのは街道で独りきりで立つ私だけ。
私を送り出した住民たちは全員、早々に孤児院の中へ戻ってしまったのだ。
(けっきょくみんなとは最後まで仲良くなれなかったなぁ。せめて私の姿がいなくなるまで見送ってくれてもよかったのに)
私は肌寒さを感じるほどの青空を見上げ、冷たい吐息をはく。
白いもやが空に消えると、これからの将来について自然と考えを巡らせた。
(事前に一人暮らしの本はいろいろ読んでみたけど、やっぱり怖いよ。私、本当に独りぼっちになっちゃったんだ。……これから一人でも、やっていけるのかな?)
深いため息が出るほど、現実は過酷だった。
住居の保障もなく、食事も用意してもらえず、お金のために必死で働かなければならない。そんな大人の社会にいきなり放り込まれ、14歳になったばかりの将来はどんよりと曇っていた。
――もう誰にも、私は頼ることができないんだ。
私を叱ってくれる大人はおらず、私に話しかけてくれる友達はおらず、そして私を労わってくれる人はもうどこにもいない。
その事実に行き当たると、胸の奥がツーンと詰まって体が震えだす。
私を守ってくれる居場所は、もうとっくに失われてしまったんだ。
「エルザッ!」
その時、背後から私を呼ぶ声が響いた。
沈み込んだ空想から意識を戻すと、それは先生だった。
驚いて振り返る私に、先生は息を切らせながら駆け寄ってくる。
「先生っ! 戻ってきたんだ!」
先生と再会した私は、途端に気持ちがほぐれて声を弾ませる。
先生はすぐ傍まで来ると、自然な仕草で私の肩に両手を乗せた。
「うん、ごめんね。心配かけちゃって。ちょっとお医者様の診察に時間がかかっちゃったから」
「……先生、やっぱりどこか具合悪いの?」
「……まぁ、そんなところ。でも、エルザの顔を見たらすっかり元気になれたよ」
どこか煮え切らない答え方に、私は不穏な気配を感じ取る。
先生は何か事情を抱えている。それは一緒に過ごす中でなんとなく私にもわかっていた。けれどそんな私の懸念を跳ね飛ばすように、先生はいつもの明るい笑顔に戻った。
「あっ、そこのベンチに座ろっか? 私、エルザが旅立つ前にどうしてもおしゃべりしたかったから」
先生が指差した場所は、かつてお母さんが私を捨てたベンチだった。
嫌な思い出がふつふつと蘇る。それでも私は、今の先生との時間を大切にしたかった。
「……うん、わかった」
私は先生と一緒にベンチに向かって歩き出した。
お互いに腰を下ろすと、ほんの束の間だけ沈黙が生まれる。
こんな時、どんなことを話したらいいのかわからない。
時間が緩やかに流れる中、そよ風が肌を通りすぎ、日射しの光が瞳に揺れる。
きっかけの言葉を探しあぐねていると、やがて先生のほうから声が切り出された。
「エルザと出会ってから、もう一年ぐらい経ったね」
そんな何気ない一言から、会話が始まった。
ずっと長い間一緒にいたような気がしたけれど、たった一年しか経ってない。
それでもその短い時の中で、私たちは確かに繋がりを築き合っていた。
「色々あったなぁ~。はじめて出会った時は握手しようとして失敗しちゃったんだっけ? でもその後トマトスープを一緒に料理してから、仲良くなったんだよね?」
「……うん、先生のトマトスープすごく美味しかったから。私も、作ってみようって思ったんだ」
「そっかぁ。なら、もっとトマトスープ作ってあげたら良かったなぁ。エルザって見かけによらず食いしん坊だし、私が当番の時は作りがいあったよ。食事中は声かけても気づかないぐらいだから、ホントにご飯好きなんだなぁって」
先生は悪戯っぽく笑い、ニマニマした視線を送ってくる。
私がはじめてトマトスープをみんなに振る舞った時も、こんな顔をしていた。
私は少しムッとなり、不機嫌な声を漏らす。
「……先生、もしかしてからかってる?」
「フフっ、どうだろうね~♪ だってエルザ、すぐムキになるから可愛いんだもの。エルザも今はほっそりしてるけど、将来はふくよかさんになるかもよ~♪」
「……そんな軽口叩くために呼び止めたなら、もう行くよ?」
私はわざと腰を浮かせて、プイとそっぽを向いて立ち去ろうとする。
すると先生は慌てて立ち上がり、私の手をギュッと引き留めた。
「わわっ、待ってよ! そんな本気でブスっとしないで! ごめんごめん謝るから!」
「……全く、先生はすぐ調子に乗るんだから。次変なこと言ったら本当に行っちゃうからね?」
「は~い、反省してま~す!」
先生は全く反省の素振りもない元気な声を上げる。
一瞬主導権を握れたような気がしたけれど、けっきょく先生はいつもの先生のままだった。
――やっぱり、この人には敵わないな。
そう心の中で認めつつ、私はベンチに座り直した。
「……な~んて感じにさ、くだらない会話もできるぐらい私たち仲良くなったよね? エルザって最初は人見知りだったけど、いつの間にか自分から話しかけてくれるようになったし」
先生ももう一度ベンチに腰を下ろし、また私と隣り合う。
懐かしそうに目を輝かせ、そして寂しそうに目が伏せられる。
会話に一拍だけ間が置かれた後、先生は一筋の気持ちを吐露した。
「……楽しかったよ。本当に。エルザとだったら、多分一生おしゃべりできる自信ある」
「……うん、私も同じ気持ちだよ。先生と一緒におしゃべりしてると、なんていうか、すごく落ち着くんだ」
そして私たちは、思い出を交互に語り合った。
他人に料理を教えるのははじめてで、実は内心緊張していたこと。
最初は勉強が嫌いだったけど、いつの間にか好きになれたこと。
語り切れないほどの追想が、次々と唇の中から溢れてくる。
時間が過ぎ去るのも忘れるほど、楽しかったことや驚いたことを伝え合った。
いつまでも、いつまでも、こうしていたい。本当なら……。
「あのね、エルザ。これはちょっとおこがましい台詞に聞こえるかもしれないんだけどね」
とめどない思い出を語り尽くした後、先生はふいにひそやかな声で呼びかけた。
少し照れたようにはにかんで、けれどどこか誇らしさを含んでいた。
「私、エルザと一緒に過ごすうちにね、エルザのお母さんになれたような気がするんだ」
「えっ?」
不意打ちのような告白に、私はピクリと体を震わせる。
無意識のうちに抱き続けた懐かしい憧憬。
胸の奥がざわめいて、ほのかな温もりとともに怖れがせめぎ合った。
「色んなことを教えてあげたり、でもときどき叱ったりもしたでしょ? 私は本当の母親になったことはないんだけど、多分お母さんになったらこういう感じなのかなぁって思って」
その何気ない言葉を受け止めるのに、長い時間がかかった。
過去に捨てられた記憶が頭の中でうずいてしまう。
だけど先生の包みこむような笑みを眺めていると、自然とためらいが消えていった。淡雪のように降り積もった思慕が、やがて私の感情を揺り動かす。
「…………うん」
赤く頬を染めながら、私は静かに頷いていた。
「本当に毎日が楽しかったよ。なんていうか、エルザと一緒にいるとどんどん心が温かくなるっていうかさ。こういうのって特別……特別っていうのかな? 多分、もしエルザじゃなかったら、ここまで強い気持ちは生まれなかった」
「……うん、私も。先生が傍にいてくれたから、すごく温かくなれた」
語り合う言葉の隙間から、やがて陽だまりのような本心が溶け合った。
お互いに結び上げた絆が、お互いに積み重ねた記憶が、どうしようもなく大切で――
やがて街には夕日の光が差し始める。
とうとう〝その時〟が来てしまった。
「……そろそろ、行かないと。アパートの大家さんに挨拶して、荷物の整理しなきゃ」
赤く溶けた街の中で、私は覚束ない声を奮い立たせた。
けれど体が重力に捕らわれたように、なかなかベンチから立ち上がることができない。
「……そっか。それなら、もうお別れだね。じゃあ私、見送りするから」
先生はスッとベンチから体を浮かせ、私に背を向けて離れていく。
夕闇に揺らぐ後ろ姿を眺めると、何故か懐かしさが込み上がり視界が滲んでしまう。思わず私は手を伸ばし、陽炎のような面影に声を重ねた。
「あっ、待って、おか……」
瞬間、言葉を飲み込む。
それ以上この気持ちを吐きだしたら、涙が止まらなくなりそうだった。
だから必死で堪えて、熱くなった瞼を拭い去る。
私は振り絞るように立ち上がり、先生に向かって強がりの笑顔を作った。
「……先生、今までありがとう。
先生がいてくれたから、こうして孤児院から卒業する決心ができたんだよ。
私はもう、一人でも大丈夫だから。私はもう、先生がいなくても生きていけるから。
――だから、さようなら。先生」
私は先生の傍を通りすぎ、赤い街道へと進み出す。
もう振り返らない。もう迷わない。
これからは、大人として一人で生きていくから……。
「……エルザッ!」
はち切れたような声が背後で叫ばれた。
振り向くと、先生が勢いよく飛びついて、私の体を抱き寄せていた。
「私も、エルザが大切な人になってくれてよかったっ! 本当は寂しいけど、離れたくないけど、それでも、エルザと出会えてよかった……っ!」
先生の瞳から大粒の透明な光が溢れ出す。
一筋ずつ一筋ずつ溶けるように流れ伝い、私の頬を熱く撫でる。
そんな温かな感情に触れた瞬間、私も赤裸々な雫をさらけ出した。
子供のように大声を上げる私を、ただ先生はギュッと抱きしめた。
「だから、エルザも私のことを忘れないで……私も、エルザのことを忘れない……」




