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エルザのことを忘れない  作者: 区隅 憲
前編 ~孤児院時代の喪失~
10/22

重ね合わせた記憶をいつまでも……

 それから、先生はあの日約束してくれたように、私のことを大切にしてくれた。

毎日毎日いつも一緒にいてくれて、叱ったり、褒めたり、笑い合ったり……

お互いの存在が寄り添うほどに、私たちはお互いの感情を分かち合った。



*****


―17.4―



「は~い! じゃあエルザ、今日はお部屋の掃除しよっか? エルザの部屋って何ヶ月も掃除してないんでしょ?」


 先生は今日も私の部屋に乱入してくるなり、朝っぱらから唐突な提案を押しつけてくる。私はベッドからむくりと起き上がると、まだ眠気が残る瞼をこすった。 


「めんどくさいなぁ……別に部屋なんて掃除しなくても死なないでしょ?」


 私はもう一度温かい毛布の中にごろんと潜り込む。

けれど先生はすぐにそれを引っぺがし、眉を吊り上げた。 


「ダ~メ! 死んじゃうから掃除するの! 埃だらけの部屋にいたら色んな病気の元になっちゃうんだよ? 私たちの周りには菌っていう目に見えない小さな生物がいっぱいいてね。それが体の中に侵入したら色々悪さをするんだよ。重い風邪を引いたりして、そのせいで体を動かせなくなっちゃった人もいるんだから」


「えっ!? そ、そうなの? 初めて知った……」


 私は恐ろしい話を聞いてビクッとする。

いくら引き篭もり気味な私とはいえ、流石にベッドで寝たきりは嫌だ。

おろおろと部屋の中を見渡すと、あちこち埃が舞っている。

いかにも悪い生き物が棲みついていそうな陰気な雰囲気が漂っていた。


「うん、そうだよ。だからちゃんと掃除して菌をやっつけて、自分の体をきちんと守らないと! エルザにはいつまでも元気でいてほしいからね」


「う、うん……」


 私は説教する先生に素直に返事する。

そして先生と一緒に一日中、部屋の中を徹底して掃除した。 



*****


―17.3―



「わぁ! 今日は祝日なだけあってすごい賑わってるねぇ!」


 今日は先生と一緒にファーグリンの街へ買い物に出かけた。

相変わらず朝早くから活気があって、上品な服装の大人たちが街を行き交っている。けれど私は恥ずかしさから来る不機嫌で、先生からそっぽを向いていた。


「……エルザ、絶対私の手を離しちゃダメだからね。この人混みではぐれたら、きっと迷子になっちゃう」


「もうっ、子供扱いしないでよ! 地元なんだから迷子になるわけないでしょ!?」


 反抗心をありのままぶつけて、私は先生に赤くなった顔を上げる。

けれど先生はやっぱり眉を吊り上げ、私の抗議を却下したのだった。


「ダ~メ! エルザは街に出るとすぐよそ見してどっか行っちゃうんだから。この前もそれではぐれちゃったんでしょ? エルザを見つけるの大変だったんだからね」


「あ、あれは……ちょっとおいしそうな匂いがしたから、つい……」


 私は痛いところを突かれて口ごもる。

まだまだ子供じみた言い訳しかできない私を見下ろし、先生は困ったように眉尻を下げた。


「はぁ……全く、相変わらずエルザは食いしん坊だよねぇ。最近はみんなの前でもおかわりするようになったし、余ったおやつは絶対誰にも譲らないし。フウリちゃんも『エルザちゃんってご飯の時は素が出るよね』って言ってたよ?」


「い、いいでしょ別に! 意地張って自分を出さないより、素直になったほうが気が楽だって気づいただけだから!」


「うんうん、いいよいいよ! エルザがそうやって心を開いてくれるなら、私も元気になれるから。だから今日も、恥ずかしがらずに私と手を繋いでくれたら嬉しいなぁ」


 先生は笑顔を作って、有無を言わせない圧力をかけてくる。

……やっぱり私は、この人の強引な優しさに敵わない。

けっきょく熱くなった顔を俯けたまま、私は先生の手をギュッと握り返した。


「さ~て! 今日はみんなのお洋服を買わないとね。エルザもだいぶ背が伸びてレディになってきたし、大人っぽいもの選んであげるね!」


「だ、だったら……おしゃれな服、買ってくれる?」


 すっかり子供扱いされた私は、飛びっきり子供の立場に甘えて先生におねだりした。



*****


―17.2―



「……先生、これ」


 先生の仕事が終わった夜の時間、私は先生の部屋を訪れて一冊の本を差し出した。


「『英雄カルシスの伝説』?」


「うん、この間文字を書く練習のために借りてた本だよ。もう全部読み終わったし、そろそろ返そうと思って」


 古びた本を受け取った先生はパラパラとページをめくる。

かなり使い込まれた痕跡があり、それがかえって本当に大事にされていたことを物語っていた。


「ああ~これね。この本、エルザにあげるよ」


 けれど何のためらいもなく、あっさりと先生は私に本を突き返してくる。

私は予想外の反応を受け、思わず目を瞬かせた。


「えっ、いいの? 大切な本なんでしょ?」


「うん、そうだよ。でも、私は何度も読み返して内容覚えてるし、そろそろ手放しても大丈夫かなって思ってたところだから。エルザがまた読みたいって思うかもしれないし、エルザが持ってなよ」


 清々しすぎるほど親切な言葉に、私は余計に遠慮を覚えてしまう。


「でも、本って高いし……私に無理して気遣ってくれなくても」


「大丈夫! 無理なんてしてないよ。私もカルシスのファンが増えてくれたほうが嬉しいし、カルシスの言葉が色んな人に広まってくれたらいいなって考えてたから。


 ――『あなたを大切に思ってくれる人が必ずいる。あなたを愛してくれる人が必ずいる。だから、あなたも人を愛しなさい。あなたが誰かを労わることで、あなた自身も大切な人を見つけられるから』」


 先生がスラスラと暗唱した時、私はハッとなって気づく。


「それってもしかして、先生が私に言ってくれた……」


「うん。あの時の言葉はね、カルシスの受け売りなの。


 ……カルシスはね、優しい人だった。戦争で身寄りのない人たちを引き取って、自分の屋敷に住まわせてくれたの。その人たちが自立できるまで、ずっと面倒を見てくれた」


 先生はまるで思い出を振り返るように、カルシスの伝記のエピソードを唱えた。

懐かしそうな面差しを覗かせ、どこか遠い目を窓の景色に向けている。

そんな先生のゆったりとした語り口を聞き、今の私と先生の関係みたいだと感じた。


「うん、知ってるよ。先生も私の傍にずっといてくれて、私に色んなことを教えてくれたよね。……カルシスみたいに、すごくかっこよかったよ」


「……うん。私も、カルシスみたいになりたかったんだ。弱い立場の人に寄り添って、労わりを与えられるような人に。だからね、私はエルザと出会った時から、ずっとあなたを助けてあげたいと――」


 途端に、先生は口をつぐむ。

熱を上げてしゃべっていた唇が止まり、きまり悪そうに瞳が逸らされた。


「……あっ、ごめん。ちょっと押しつけがましかったかな? 私、思い上がったこと言ってるよね?」


「ううん、大丈夫。私も、先生にはたくさん優しさをもらってるから。誰かに憧れて優しくなれるなんて、先生も凄い人だなって思うよ」


 先生の思いやりの源に触れ、私は正直な感想を口にする。

先生はかすかに瞳を震わせ、やがてもう一度私に視線を合わせた。


「……うん、ありがとうエルザ。エルザも、優しい気持ちを忘れないで」


 先生は祈るような声で告げると、改めて『英雄カルシスの伝説』を私に差し出す。私は静かに、先生が大切にしていた本を受け取った。



*****



 季節はどんどん移り変わり、私と先生は思い出を積み重ねていく。

その一欠片一欠片が大切で、その一瞬一瞬がかけがえなくて。


 寂しくて孤独だった過去が、もう一度色彩を放って塗り替えられる。

その中心には、いつも先生の笑顔があった。

その強引さとひたむきさに、私は何度も救われた。


 空っぽだったはずの私の心に、次第に先生の存在が大きく広がっていく。

かつて失ってしまった『家族の絆』。それをもう一度結び直すように……。

先生との触れ合いを続ける中、私は「いま」という幸せを感じられた。



*****


―17.1―



「先生! 聞いて聞いて! 先月面接を受けたフェノメノン製本店、合格したよ!」


 正午が過ぎる直前、私は街からひとっとびに孤児院へ帰ると、真っ先に先生の部屋に駆け込んだ。誇らしいニュースを一秒でも早く伝えたくて、扉を開けるや先生に向かって声を弾ませた。


「私、写本の仕事をするんだ! 今は文字を書ける人手が足りてなくて、すぐにでも働いてほしいって店長さんが言ってくれたんだよ」


「ええっホントに? 凄いよエルザ! フェノメノン製本店って言ったら街で一番大きな本屋さんだよ? そんな立派なところで働けるなんて、やっぱりエルザは才能あったんだよ!」


「え、えへへ……」


 やっぱり先生は、自分のことのように私の朗報を喜んでくれた。

こうして褒めてほしかったから、私は諦めずに仕事を探し続けることができたんだ。


「じゃあじゃあ、今夜はお祝いしないとね! エルザの就職先が見つかった記念に! エルザが食べたいもの、何でも作ってあげるよ!」


「じゃ、じゃあひつじのお肉がいいかな?」


「うん、いいよ! 院長先生にも相談して、今日は羊のステーキにしてもらうね! 孤児院のみんなにも呼びかけて、思い出に残るパーティにしよう!」


 先生は子供のようにはしゃぎ声を上げ、引き出しからいそいそと財布を取り出す。けれどその横顔はすぐに翳りが差し、喉を詰まらせたような声が漏れた。


「……明日は、エルザの誕生日でもあるんだしさ」


 14歳の誕生日。それは私にとって避けられない人生の岐路だった。

孤児院を卒業する時。一人立ちをする時。大人にならなければならない時。


 ――そして先生と別れる時だった。


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