化物と花
「――君が顔を見せるとは、珍しいじゃないか」
女は書類から顔を上げ、長い髪を気だるげにかき上げた。
灯りに照らされたその仕草は優雅ですらあるが、漂う気配は獣のそれに近い。
「相変わらず辛気臭いツラだな、黒狼」
口元を歪め、楽しげに嘲笑う。
「何か用があるんだろう?
話がてら、稽古でもつけてやろうか?」
冗談めいた口調。
戯れには違いないが、この女は戯れの延長で人を殺せる。
ガルーシャは、顔色一つ変えなかった。
その冷え切った視線は、目の前の存在を人として見ていない。
恐れでも、侮蔑でもない。
ただ――化け物を化け物として認識している目だった。
その視線を受け、女はわずかに唇を尖らせる。
「……変わらないな、君は」
そう呟くと、興味を失ったように視線を机の書類へ戻した。
ザリス帝国黒獣団団長――
アリーシア・バーンダイン。
帝国最強の個。
そして、人でありながら“人の領域”を逸脱した存在。
「その装い……」
アリーシアは書類に目を落としたまま言った。
「アラシアに出向くのだろう?」
ガルーシャの鎧は特殊だった。
足甲には排砂孔が設けられ、二層構造の装甲は重量を抑える代わりに、直撃への耐性を捨てている。
打撃に弱く、
受け流しと間合い管理を極限まで要求される特殊な装甲は、砂漠での実戦を想定した、極めて個人的な装いだ。
ガルーシャは返事をするでもなく沈黙を保つ。しかし、程なくして唐突に口を開いた。
「……アラシアに、木鼠の巣窟があるとしたら」
低く、淡々と。
「信じられるか?」
あまりにも脈絡のない問い。
アリーシアは、ぴたりと動きを止め、顔を上げた。
眉間に、はっきりとした皺が刻まれる。
「……アラシア一帯で、木鼠の目撃例など聞いたことがない」
即答だった。
「砂漠で、あいつらが繁殖など出来るはずもなかろう」
そう言い切ったものの、アリーシアは顎に指を当て、思考に沈む。
「……だが」
視線が宙を彷徨う。
「不思議なものだな」
楽しげに、まるで思いつきを口にする子供のように言葉を滑らせた。
「砂虫獣……ミリスタマリス、と言ったか?
あれは、その尾で砂を掘り進むらしいじゃないか」
その声には、純粋な興味が宿っていた。
「地を穿つ尾。
地を進む身体。
……似ていると思わないか?」
ガルーシャは答えない。
だが、女の言葉を、ひとつひとつ反芻していた。
尾で大地を穿つ木鼠。
尾で大地を突き進む砂虫獣。
偶然で済ませるには、あまりに出来すぎている。
「ふふ」
アリーシアは、静かに笑った。
その視線は、愛おしむようにガルーシャへ向けられている。
だが、それは人に向ける慈愛ではないのは確かだった。
「そういえば――」
ふと、何かを思い出したように、アリーシアは話題を変えた。
「砂漠の花……名前はなんと言ったか」
肩を竦める。
「まぁいい。
あれが咲き始めたらしいじゃないか。
雨季を知らせる花だとか」
席を立ち、背後の本棚へ歩み寄る。
「雨季には果実をつけるらしい」
本の背表紙を指でなぞりながら、楽しげに続けた。
「芳醇な香りと、素晴らしい甘さを兼ね備えた……
まさに砂漠の至宝、だそうだ」
一冊の本を引き抜き、題名を確かめながら振り返る。
「実は私も、まだ試したことがなくてね」
にやりと、笑う。
「良ければ今度――」
言葉の途中で、アリーシアは口を閉ざした。
目の前にいるはずの男の姿が、消えていたからだ。
気配すら残っていない。
「……相変わらず、可愛くないやつだ」
アリーシアは肩をすくめ、本を棚に戻す。
開くことすらせず、再び書類へと視線を落とした。
歌でも歌うように、楽しげに鼻を鳴らしながら。
⸻
ピューッ、と空気を裂く音。
ガルーシャは、現実へと意識を戻した。
アルバンが口から笛を離す。
「今日はここまでだ」
夕暮れの砂漠に、低い声が響く。
「この辺りで夜を明かす。
明日の早朝に立てば、昼までにバンガに着くだろう」
そう告げると、アルバンはパイリーを迎えに歩き出した。
ガルーシャは、その背を見送らず、空を仰ぐ。
アラシアを訪れてから、何も変わらない灼熱の夕陽。
それが、黒鎧を赤く照らしていた。
――化物と、花。
どちらも、
この砂漠に根を張るものだ。




