過去
テントの奥。
背を向けたまま、火影に照らされた老人が、僅かに口を開いた。
「……十年近く前かの」
その声は掠れていたが、確かな重みがあった。
「ザリスで、優秀な若者が現れたと、噂が立ってな。
たしか――黒狼、と呼ばれておったかの」
テント内の空気が、微かに揺れる。
静かに、紡がれる言葉。
「同じ頃か、そのもっと前じゃったか……」
老人はゆっくりと酒を煽り、舌を湿らす。
「とある傭兵一家が、巨大な砂虫獣に襲われた事件が、あったのぉ」
焚き木がパチリと鳴いた。
「砂嵐の夜じゃ。
助けは来ず、逃げ場もなく……
跡形もなく喰われた、なんて話じゃ」
その言葉が落ちた瞬間、テント内の男たちの表情が硬直した。
老人は語り終えると、ゆっくりと振り返る。
老獪な眼差しが、黒い鎧の男を射抜いた。
「……その時に死んだと思っておったがな」
「のう?
シンバルの息子よ」
刹那、衝撃がテントを満たした。
ざわめき。
息を呑む音。
誰かが、無意識に剣の柄を強く握る。
黒獣隊の鎧に身を包んだ男。
その正体が、今、言葉として突き付けられた。
――ガルーシャ・シンバル。
かつて、数ある傭兵団の中で最も優れた剣術の使い手であり、
天才的な呼石術の才を持つ若者として知られていた名だ。
将来を嘱望され、
次代を担うとまで言われた男。
だが――
彼は、消えた。
何も告げず、何も残さず、
ザリス帝国へと姿を消した。
鎧の男――ガルーシャは、身動き一つ見せなかった。その表情は、兜に阻まれ読むことができない。
「……シンバルの名は捨てた」
低く、冷たい声。
そして、続ける。
「我が弟、ボルダーは――存命か?」
その問いに、白髪混じりの男が眉をひそめた。
「名を捨てた裏切り者が、今さら弟とはな」
吐き捨てるような言葉。
「……滑稽にも程がある」
空気が、さらに張り詰める。
だが、沈黙と共に見守っていた壮年の男が、代わりに口を開いた。
「……この団に属している」
視線を伏せたまま、淡々と告げる。
「だが、あやつはもう傭兵ではない。
戦いに向いておらんと悟ってな。
今はデンドラの世話人をしている」
その言葉に、ガルーシャの指が、わずかに動いた。
ほんの一瞬。
だが、確かに反応はあった。
「……そうか」
短く、息を吐くように呟く。
「では――」
顔を上げ、冷然と言い放つ。
「ボルダーも雇わせてもらおう」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
次の瞬間、別の男が勢いよく立ち上がり、ガルーシャに詰め寄る。
「話を聞いていなかったのか!?
あいつは傭兵を辞めてるんだよ!」
声には、露骨な怒気が滲んでいた。
「戦わせる気か?
今さら兄面して、連れ出すつもりか!?」
だが、ガルーシャは一瞥すらくれない。
男を無視するように、テーブルへと歩み寄る。
重厚な鎧の音が、静かな威圧感を伴って響く。
そして――
腰から、重たげな袋を取り出し、無造作に放り投げた。
「……報酬だ」
袋が机に落ち、鈍い音を立てる。
白髪混じりの男は警戒したまま袋を開き、中身を覗いた。
一瞬、目が見開かれる。
「……足りねぇな」
視線を上げ、静かに告げる。
「追加で四十だ」
その瞬間、空気が凍りついた。
だが、ガルーシャは一切動じない。
まるで、最初からそう言われることを予期していたかのように。
もう一つの袋を取り出し、机の上に置いた。
「百二十、追加だ」
低く、しかしはっきりと。
「……分かっているな?」
明らかな口止め。
沈黙を約束させるだけの金。
男たちは互いに視線を交わし、やがて、ゆっくりと武器から手を離した。
「……ちっ」
誰かが舌打ちする。
だが、誰も否定はしなかった。
「では、明日の朝に出立する」
ガルーシャは、背を向けたまま言い放つ。
「用意しておけ」
それだけ告げると、黒鎧の男はテントを後にした。
残された男たちは、しばらく誰も口を開かなかった。
砂漠の風が、テントの布を揺らす。
――過去が、確かに動き出した。




