異なる日常
「今日も雨か……」
寝起きの男は、そう呟いて身体を起こした。
だが、その声には眠気よりも先に、かすかな苛立ちが滲んでいた。
ダンピンは、無意識に眉間に皺を寄せる。
――おかしい。
雨季とはいえ、ここまで続くことはない。
必ず一度は、雨脚が緩み、空が白く曇る“間”がある。
それが、この地の理だった。
ダンピンは頭を掻きながら、テントの布を押し上げる。
外に出た瞬間、湿った空気が肌にまとわりついた。
「……止む気、ねえな」
視界に広がるのは、均一に降り続く雨。
強くもなく、弱くもなく、ただ一定の重さで落ち続けている。
地面はすでに飽和していた。
踏み出した足が、ずぶりと沈む。
「昨日より……深ぇな」
呟いた直後、自分で首を傾げる。
昨日も、同じことを言った気がした。
集落の中は、すでに動き始めている。
だが、その動きがどこか遅い。
声が少ない。
足音が鈍い。
水路の補強をしている若い衆がいた。
ベンとバンスが黙々と泥を掻き出している。
だが、普段なら無茶を止めに入るホルホンの姿がない。
最初から、呼ばれていなかったのだろう。
貯蔵庫の前では、帳面を開いた男が立ち尽くしていた。
ナラだった。
数字を追う指先は止まらないが、表情は硬いままだ。
「……なあ」
ダンピンは、近くにいた男に声をかける。
「アーガインは?」
男は、一瞬だけ視線を逸らした。
「……少なかった」
「少なかった?」
「いや……いない場所があった」
ダンピンは、口を閉じる。
それは、あり得ない話だった。
雨が降れば、アーガインは必ず現れる。
場所に差はあれど、“ゼロ”はない。
それが、この地の常識だった。
「……シューマか?」
今度は、男の返事が遅れた。
「……痕跡は、なかった」
それも、おかしい。
シューマは、必ず兆しを残す。
地鳴り。
水の揺れ。
遠くで崩れる音。
そして刻まれる通り道。
それがないまま、雨だけが続いている。
ダンピンは、舌打ちしそうになるのを堪えた。
――嫌な感じだ。
怖い、とは違う。
危険だ、とも言い切れない。
だが、慣れているはずの日常が、少しだけ噛み合っていない。
それが、たまらなく気持ち悪い。
「……今日は、作業減らすか」
誰にともなく、そう言った。
少し離れた場所で、ゴルムがその言葉を聞いていた。
本来なら反論する。
規則では、見回りは増やすべき状況だ。
だが彼は、何も言わず、槍の柄を握り直しただけだった。
反論は出なかった。
誰もが、それを待っていたかのように頷く。
雨は、相変わらず降り続いている。
強くもなく、弱くもなく。
ただ、止まらない。
ダンピンは、空を見上げる。
雲は低く、重く、均一だった。
そこには、切れ目がない。
(……長ぇな)
その言葉が、胸の奥で引っかかる。
雨季は、長いものだった。
だが、“こんなふう”ではなかった。
酒場の方を見ると、昼だというのに扉が閉まっている。
ダルバラは、今日は客を取らないらしい。
理由は、誰も聞かなかった。
それを、誰も口にしない。
口にした瞬間、
何かが決定してしまう気がしたからだ。
ダンピンは、もう一度だけ空を見上げ、
そして視線を地面へ落とした。
泥の下で、
何が動いているのかは分からない。
分からないまま、
今日も生きるしかない。
それが、この集落のやり方だった。
――まだ、日常は終わっていない。
だが、
昨日と同じ形では、確実になくなっていた。
⸻
昼過ぎ、仕事を終えたボルダーは、ひとり物思いに沈んでいた。
村に戻ってから、二週間は経ったはずだ。
雨は止まず、日付の感覚も曖昧になっているが、それでも体は覚えている。
――長い。
そう感じるほど、何も起きていない。
契約者は、姿を見せない。
声もない。
夢にすら、現れない。
それなのに。
(……いる)
確かに、見られている。
視線というより、存在感。
距離も方向も定まらない、だが消えない“重さ”。
振り返っても、誰もいない。
耳を澄ましても、音はない。
それでも、何かが自分を確かめている感覚だけが残る。
「……」
ボルダーは、無意識に胸元へ手をやった。
何もない。
獣石も、傷も、熱もない。
それなのに、触れた指先だけが、わずかに強張る。
集落の広場では、人の動きが鈍かった。
子供たちは家の中に集められ、ミミンが忙しなく世話をしている。
外を見たがるイーラを、誰も外へ出そうとはしなかった。
年寄りたちは、軒先で空を見上げる時間が長い。
誰も、理由を口にしない。
「……ボルダー」
呼び止められて、顔を上げる。
ダンピンだった。
泥に汚れた外套のまま、こちらを見ている。
「今日は、もういい。休め」
「……何か、ありましたか」
ダンピンは、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……ねえよ」
即答だったが、速すぎた。
「ただ、作業減らすだけだ」
ぶっきらぼうな口調からは、苛立ちが滲んでいる。
「雨が、な」
それ以上は語られない。
ボルダーは、頷いた。
理屈としては、分かる。
だが、納得はできない。
アーガインの処理量。
水路の点検回数。
見回りの人数。
すべてが、少しずつ減っている。
危険が増したからではない。
逆だ。
何も起きていないから、判断が遅れている。
ボルダーは、ふと村を見回す。
作物は順調に育ち、今期の農作は問題ないだろう。
雨が続いてはいるが、氾濫も起きていない。
そこには、確かに平和があった。
――だからこそ。
その平和が、
“いつまで続くものなのか”だけが、
誰にも分からなかった。




