止まぬ違和感
ボルダーは、眠れずにいた。
目を閉じても、意識だけが浅い場所を漂っている。
眠ってはいない。
だが、起きてもいない。
昨日の夜――
村長たちとの問答。
言葉を選び、語るべきところだけを語り、
語ってはいけない部分は、飲み込んだ。
間違いはなかったはずだ。
村長も、年長者たちも、
“納得できる形”で話を終わらせた。
誰も怒らなかった。
誰も疑わなかった。
誰も、深入りしなかった。
それでいい。
それが、この村のやり方だ。
……なのに。
胸の奥に、細い棘のような感覚が残っている。
(……何が……)
天井を見つめる。
薄暗い部屋。
雨季特有の湿った空気が、肌にまとわりつく。
聞こえるのは、外の雨音と、
時折、遠くで軋む木材の音だけだ。
――静かだ。
それが、妙だった。
この村は、もっと雑音がある。
夜になれば、酒の匂いと笑い声が混じり、
誰かの怒鳴り声や、獣の鳴き声がどこかで響く。
だが今夜は、
それらが、少しだけ“抑えられている”。
眠りが浅いせいだと、自分に言い聞かせる。
怪我の回復途中だ。
疲れも、まだ抜けきっていない。
そういう時は、感覚が過敏になる。
……分かっている。
それでも。
ボルダーは、ゆっくりと上半身を起こした。
身体は、思ったよりも軽い。
痛みも、昨日よりは引いている。
だが、胸の奥――
あの“重さ”だけは、変わらない。
(……話は、終わった……)
そう、何度目か分からない言葉を、心の中で繰り返す。
村長たちは、結論を出した。
この件は、ここまで。
雨季が明けるまで、動かない。
遺跡には近づかない。
帝国のことも、今は考えない。
――合理的だ。
砂漠で生きる者として、正しい判断だ。
それなのに。
思い出す。
焚き火の音。
沈黙。
(……気のせいだ)
きっと、そうだ。
アルバンは戻っていない。
パイリーも戻っていない。
それが、すべてだ。
布を握る指に、無意識に力が入る。
その時だった。
――微かに、熱を感じた。
炎のような熱ではない。
痛みもない。
ただ、
胸の奥で、何かが“応えた”ような感覚。
(……?)
一瞬で、消える。
代わりに残ったのは、
説明できない確信だった。
――見られている。
誰かに、ではない。
何かに。
人の視線とは違う。
敵意も、好奇もない。
ただ、
存在を確かめられている感覚。
(……契約……)
昨夜と同じ言葉が、浮かぶ。
だが今回は、
それが“思い出”ではなく、
“現在進行形”だと、はっきり分かった。
布から手を離す。
深く、息を吸う。
部屋の外。
雨は、まだ降り続いている。
砂漠は、確実に次の季節へ進んでいる。
そして――
自分だけが、
その流れの中で、
“何かに引っかかっている”。
理由は分からない。
だが、確信だけがある。
これは、不安ではない。
恐怖でもない。
もっと、静かで、
もっと、厄介なものだ。
――違和感。
それは、
何かが始まる前にだけ訪れる、
小さなズレだった。
ボルダーは、再び横になった。
今夜は、眠れないままでいい。
この感覚を、
誤魔化してしまう方が、
よほど危険だと分かっていたからだ。
雨音の中で、
見えない鼓動が、
確かに――重なり始めていた。
――
翌朝、ボルダーはマルバを訪れた。
雨は、夜よりも弱まっていた。
だが止んではいない。
空は相変わらず低く、湿った空気が村を覆っている。
マルバの小屋は、村の外れにあった。
獣具や道具が雑然と並び、火鳥獣の世話に使う薬草の匂いが漂っている。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「……起きてたか」
中から現れたマルバは、すでに外套を羽織っていた。
夜明け前から動いていたのだろう。
目の下に、わずかな影がある。
「……少し、話を」
ボルダーの声は、思ったよりも落ち着いていた。
マルバは一瞬だけ視線を向け、すぐに小屋の中へ顎をしゃくる。
「入れ」
中は、相変わらずだった。
整理されて、無駄がない。
マルバは火を足し、湯をかける。
湯気が立ち上り、湿った空気に混じった。
「眠れなかった顔だな」
「……なぜ自分だけ、生き残ったのでしょうか」
マルバは、すぐには答えなかった。
湯を注ぐ手を止め、
立ち上る湯気の向こうで、ボルダーを一度だけ見やる。
その視線には、
慰めも、同情もなかった。
あるのは――値踏みだ。
「……答えを欲しがる顔じゃないな」
鋭い声だった。
「理由を知って、楽になりたい顔でもない」
ボルダーは、何も言えなかった。
否定もできない。
マルバは、湯を器に注ぎ終え、
ようやく腰を下ろした。
「生き残った理由を探すのはな、生きている間にやることじゃない」
「……じゃあ」
言葉を探す。
「二人は、何故……」
マルバは、鼻で息を吐いた。
「砂漠に偶然なんてものはない」
短く、切って捨てる。
「だがな」
少しだけ、声を落とす。
「必然だと決めつけるのも、早い」
沈黙が落ちる。
雨音が、小屋の屋根を打つ。
「お前が生き残ったことは事実だ」
「だが、それが“なぜ”かを、今のお前が背負うには重すぎる」
ボルダーの指が、膝の上で僅かに動く。
「……じゃあ、いつなら」
マルバは、湯を啜る。
一口。
二口。
そして、静かに言った。
「それは、砂漠が教えてくれるだろう」
ボルダーの胸が、微かに軋む。
「今のお前はな、違和感を“感じている”だけだ」
机に置かれる器がコトりと音を立てる。
「それは、正しい」
「だが――」
マルバは、視線を上げる。
「違和感が“問い”に変わった時、お前は、もう逃げられん」
その言葉は、
脅しではなかった。
警告ですらない。
ただの、事実だった。
「生き残った理由を知るってのはな、選ぶ理由を知るってことだ」
「何を守るか、何を取り戻すか、何を捨てるか」
マルバは、ゆっくりと立ち上がる。
「それを選ばされる時が来る」
「来なけりゃ、それまでだ」
小屋の外で、風が吹いた。
雨が、少しだけ強まる。
「……今は」
マルバは、扉の方を見たまま言う。
「違和感を抱えたままでいい」
「それが、お前の“現在地”だ」
ボルダーは、深く息を吸った。
胸の奥にあった重さは、
消えてはいない。
だが――
形が見え始めていた。
「……分かりました」
マルバは、振り返らなかった。
「分かった気になるな、分からなくていい」
それだけ言うと、外套を掴む。
「止まない雨はない」
小屋を出ると、
湿った空気が肌に触れたのをマルバは感じ取った。
雨は降っている。
砂は泥になり、
村は、相変わらずの営みを続けている。
だが、ボルダーの中では、
確かに何かが変わっていた。
――理由は、まだ知らない。
――だが、問いは生まれた。
それだけで、十分だった。
違和感は、
もはや“ただのズレ”ではない。
それは、
これから始まる運命の、
静かな前触れだった。




