帝国の鼓動
冷たい通路に、足音が響いていた。
早足――というより、ほとんど駆け足に近い。
規律を重んじる帝国研究棟では、まず見られない光景だ。
「……ふふ、ふははは……」
抑えきれない笑い声が、男の喉から零れる。
研究所長バグダラシド=ミストは、片手に書類束を抱えたまま、独り言のように言葉を吐き出していた。
「違う……今までのとは、まるで違う」
「反応速度、共鳴値、記録のどれとも一致しない……」
白衣の裾が翻る。
乱れた髪を気にする様子もない。
すれ違う技官たちが、ぎょっとして足を止める。
だが、彼は誰の存在も認識していなかった。
「石じゃない……あれは、残滓だ」
「いや、違う……“核”だ……!」
足が止まる。
通路の最奥。
重厚な扉の前で、所長は一度だけ息を整えた。
そして――
「開けるぞ!」
返事も待たず、扉を押し開ける。
室内は静まり返っていた。
書簡に目を落としていた青年が、ゆっくりと顔を上げる。
ザリス帝国皇太子――ラグナ・ダ・ザリス。
「……所長」
「喜べラグナ!!」
バグダラシドが叫んだ。
「本物だ!記録じゃない、推測でもない!」
「封じられていた“獣石”の実在が確認された!!」
ラグナの眉が、わずかに動く。
だが、声を荒げることはなかった。
「……本物、なのか」
「確定も確定だ!」
「護送個体の報告、回収ログ、共鳴波形――全部揃った!」
「黒狼の判断は正しい! あれは“目覚めかけ”だ!」
所長は、机の上に書類を叩きつける。
紙が散らばる音が、室内に響く。
「何千年もの間、眠っていた代物だぞ!?」
「それが今、この時代に反応を示した!」
「つまり――」
一歩、ラグナに近づく。
「世界の均衡が、動いたということだ!」
沈黙。
しばらくして、皇太子が静かに口を開いた。
「……それで、使えるのか?」
その一言に、所長の顔から笑みが消えた。
ほんの一瞬だった。
だが、昂揚していた熱が、急激に冷やされたのは確かだった。
「……“使える”という表現は、少々乱暴すぎるな」
バグダラシドは、ゆっくりと背筋を伸ばす。
「従来の獣石は、“力を引き出す器”だが、今回のそれは違う」
指先で、宙に小さな円を描く。
「力が収められているのではない、力そのものが、眠っている」
ラグナは黙って聞いていた。
「強引に起動すれば、暴走の可能性が高い」
「最悪の場合――」
所長は、言葉を切る。
「――こちらが、試されるだろうな」
静寂が落ちた。
皇太子は席を立ち、窓辺へ歩み寄る。
帝都の夜景は、雨雲の下で鈍く光っている。
「つまり」
低い声が、淡々と結論を引き寄せる。
「兵器としては、運用が難しい」
「だが、放置すれば世界に影響を及ぼす存在だ」
「あぁ」
所長は即座に頷いた。
「目覚めきる前に、管理下に置くべきだ」
「出来なければ――均衡そのものが崩れるだろう」
ラグナは、しばらく外を見つめていた。
「……回収に関わった者は?」
「黒狼が指揮した」
「他は現地で傭兵を雇ったらしい……始末した、と言っていたがな」
その言葉に、皇太子は眉間に皺を寄せる。
「……“と言っていた”か」
所長は肩をすくめる。
「黒狼の仕事は正確」
「だが、ああいう男ほど“可能性”を残す」
ラグナは、窓の外から視線を戻す。
「生存者がいる、と?」
「断言はできんが、そういうこともあり得る」
「……情報が漏れるな」
沈黙。
皇太子は、机に戻り、散らばった書類の一枚を拾い上げる。
共鳴波形の記録。
まだ解析途中の、歪な線。
「ならば動かねばなるまい」
所長が、わずかに目を細める。
「仕掛ける、と?」
「そうだ」
ラグナは、紙を机に戻す。
「それに、獣石が“目覚めかけ”なら、呼応する存在が現れても不思議ではない」
「英雄譚からすると、火猿の獣か?」
「それも、あり得るだろう」
「人であれ、器であれ、媒介であれ、世界が動く時には、必ず“歪み”が生まれる」
淡々とした声だった。
だが、その言葉には一切の迷いがない。
「管理下に置くのは獣石だけでいい」
「周辺は、観測対象に留めろ」
「黒狼には?」
「引き続き、任に就かせろ」
「次の獣石を探せ、と」
所長は、愉快そうに息を吐いた。
「はは……実に帝国らしい判断だ。力を急がず、流れを掴む」
「均衡を崩すのは、いつだって愚者だ」
ラグナは、視線を上げる。
「帝国は“均衡の上に立つ側”であり続ける」
その言葉で、話は終わった。
バグダラシドは踵を返す。
扉が閉じると、室内には再び静寂が戻った。
皇太子は、一人、書簡の束に目を落とす。
砂漠。
遺跡。
封じられた獣石。
そして――これから巻き起こるであろう火。
「……鼓動が聞こえるな」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
帝国は、すでに次の段階へ進み始めていた。
砂漠の村で、
“終わったはず”だと思い込んでいる若者の知らぬところで。




