残されたモノ
冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
雨が、頬を叩いている。
身体が、一定の間隔で揺れている。
遅れて、痛みが全身を覆い尽くした。
「……」
声を出そうとして、喉が鳴るだけだった。
滲む視界の向こうで、赤い羽毛が揺れている。
火鳥獣――ガル。
その背に、自分は括り付けられていた。
「起きたか」
手綱を握る大男が、振り返らずに言った。
「……マルバさん」
考えるより先に、口が覚えていた。
「雨季が来るからな。様子がおかしいと思って来てみりゃ、遺跡の前で転がってた」
淡々とした口調だった。
心配も、詮索も、怒りもない。
ただ、事実を並べているだけの声。
その言葉で、ようやく理解が追いつく。
――遺跡の、外。
(……出て……きた……?)
喉の奥が、ひくりと引きつった。
パイリーの顔が浮かぶ。
アルバンの背中が浮かぶ。
兄の影が、遺跡の闇へ消えていく。
次の瞬間、胸の奥が強く軋んだ。
息が、苦しい。
(……生きてる……)
そう思った途端、
それが許されないことのように感じられた。
何も守れなかった。
何も取り戻していない。
それなのに、自分だけが外にいる。
「……」
言葉にしようとして、何も形にならない。
マルバが、少しだけ手綱を緩めた。
「無理に喋らなくていい」
一拍置いて、続ける。
「……何があった?」
短い問いだった。
責めるでも、急かすでもない。
だがその一言が、
胸の奥に溜まっていたものを、静かに揺らした。
ボルダーは、雨に打たれながら目を閉じる。
頭の中は、まだ闇の底だ。
言葉も、順序も、整っていない。
それでも――
(……終わってない……)
そうでなければ、
あの闇で交わした“約束”が、意味を失う。
唇を噛みしめ、震える声で、ようやく絞り出した。
「……遺跡で……」
それだけ言って、言葉が途切れる。
マルバは、それ以上促さなかった。
ただ、ガルを前へ進める。
雨の中、火鳥獣の足音だけが、一定のリズムで続いていく。
ボルダーは、その背で揺られながら理解していた。
――自分は、生き残ったのではない。
――“残された”のだ、と。
二人の沈黙を、雨音が包み込む。
砂に吸い込まれた雨粒は、
痕だけを残して、ゆっくりと広がっていく。
境目は次第に曖昧になり、
砂と水は区別を失い、泥へと変わっていった。
「そろそろ村に着く」
マルバはそれだけ告げると、再び口を閉ざした。
雨脚が、少しだけ弱まった。
それでも空は低く、重たい雲が視界を塞いでいる。
火鳥獣ガルの背で揺られながら、
ボルダーは遠くに見え始めた灯りをぼんやりと眺めていた。
村だ。
雨に滲んだ橙色の光が、いくつも揺れている。
人の営みが、そこにある。
胸の奥が、わずかに締め付けられた。
(……帰ってきた……?)
そう思った瞬間、違和感が走る。
――違う。
帰ってきたのではない。
戻る場所が、そこに残っていただけだ。
ガルが歩調を落とす。
ぬかるんだ地面を踏みしめる音が、近くで聞こえる。
「村長には、俺から話を通しておく」
マルバの声は、相変わらず淡々としていた。
「今日は無理をするな。熱もある」
それだけ言って、また黙る。
ボルダーは答えなかった。
答えられる言葉が、まだ見つからない。
村の入口に近づくにつれ、人影が増える。
雨宿りをしていた者たちがこちらに気づき、足を止める。
誰かが、息を呑む。
誰かが、小さく名を呼ぶ。
だが――
すぐに、その視線は逸らされた。
包帯。
血に滲んだ衣服。
担がれるような姿。
理解は早い。
砂漠の村では、なおさらだった。
ボルダーは、目を閉じる。
(……聞かれる……)
パイリーはどうした。
アルバンはどこだ。
なぜ、お前だけが戻った。
答えは、まだない。
あるのは、胸の奥に沈殿した重さだけだ。
ガルが、ゆっくりと立ち止まる。
「着いたぞ」
揺れが止まる。
誰かの手が縄を解き、
身体を支えられて地面に降ろされる。
足裏に、冷たい感触が伝わった。
立っているはずなのに、感覚は曖昧だった。
雨の匂い。
濡れた土の匂い。
人の気配。
――生きている世界の感触。
それが、やけに遠い。
マルバが、最後に一度だけ振り返る。
「今日は休め」
それだけ言って、踵を返した。
火鳥獣の羽ばたく音が遠ざかり、
代わりに、村のざわめきが近づいてくる。
そのとき、ボルダーは初めて気づいた。
自分の手が、強く握り締められていることに。
爪が食い込み、痛みが走る。
それでも、離せなかった。
――失ったものを、まだ手放していない証のように。
雨は、まだ降っている。
だがそれは、
この夜が、まだ終わっていないことを告げているだけだった。




