昏き深淵
「恨むわよ、ガルーシャ・シンバル」
パイリーはそう言いながら、即座に状況を切り分けた。
奥で燻る火焔。
鎧の隙間から血を流すガルーシャ。
そして――踏み付けられていたボルダー。
アルバンの姿は、どこにもない。
(……そう)
それだけで、結末は理解できた。
――あの人といえど、生き延びているはずがない。
目の前の男は、命を『数』でしか見ていない。
視線が、床を転がるものへと移る。
淡く、不気味に脈打つ――緑色の獣石。
「……それのために」
吐き捨てるように、言葉が落ちる。
「最初からそのつもりだったのね」
その声には、怒りよりも――
理解してしまった者の、決定的な拒絶が滲んでいた。
「容赦しないわよ。コル・ルーガンダー!」
構えられた双杖から二つの水球が形を成す。
溜まり、漏れ、溢れ出る水の奔流。
それは牙となり、ガルーシャに刃向かおうとする。
しかし、ガルーシャは動じなかった。
黒鎧の男は、ただ左腕を突き出す。
「……コル・ルーガンダー」
詠唱に呼応し、腕甲から放たれた水流は、
荒れ狂う牙とは対照的に、一切の揺らぎなくパイリーを捉えていた。
衝突。
奔流同士が噛み合い、空気が裂ける。
荒れ狂う水は喰らいつき、押し返し、
揺らぎのない水は、ただ受け止めていた。
「……冗談じゃない」
パイリーは唇を噛み、次第に汗を滲ませる。
「ボルダー! 早く立ちなさい!」
その声は、命令ではなかった。
叱責でもない。
それでも、胸の奥を強く打った。
ボルダーは歯を食いしばった。
撃ち抜かれた脚が、鉛のように重い。
感覚が鈍く、床に触れているはずの指先すら遠い。
それでも――伏せたまま終わるわけにはいかなかった。
床に手をつく。
次の瞬間、激痛が脳天を貫いた。
「――ッ……!」
視界が白く弾け、呻きが漏れる。
身体が言うことを聞かない。
立つという単純な動作が、これほど遠いものだったとは。
だが――
視界の端に、それがあった。
淡く、不気味に脈打つ緑色の獣石。
床を転がり、無防備にさらされているそれは、
まるで誰かを呼んでいるかのようだった。
(……これが……)
喉が鳴る。
頭では分かっている。
これに触れれば、もう戻れない。
それでも、迷いは生まれなかった。
ボルダーは這うように身体を引きずり、腕を伸ばす。
指先が触れた瞬間、冷たいはずの石から、妙な温もりが伝わった。
生きている。
そう錯覚するほどに。
掌に収めた瞬間、内側から何かが脈動した。
鼓動のような異物感。
それは拒絶でも歓迎でもなく、ただ“存在”を主張していた。
「――逃げなさい!」
パイリーの叫びが、空間を震わせる。
双杖に、さらに魔力が注ぎ込まれる。
水球は膨張し、奔流は牙を増し、空気そのものを歪ませた。
限界を超えた術式が、音を立てて軋む。
だが――
「……無駄だ」
ガルーシャの声は、あまりにも静かだった。
黒鎧の男は一歩も動かず、ただ左腕をわずかに引く。
それだけで、揺らぎのない水流が、さらに濃密さを増す。
押し返される。
牙は砕かれ、奔流は押し潰され、
二重の水は、一重の水に呑み込まれていく。
「ッ……!」
パイリーの喉から、掠れた息が漏れた。
次の瞬間だった。
ガルーシャが、腕を振り抜く。
圧縮された水流が、一直線に放たれる。
避ける間も、防ぐ余地もない。
「――ッ!」
水が、刃となって二人を貫いた。
パイリーの身体が宙を舞い、双杖が手から弾き飛ばされる。
同時に、
ボルダーの身体もまた、衝撃に押し出された。
胸を穿たれた感覚。
息が、音を立てて零れ落ちる。
指先から、力が抜けた。
必死に掴んでいたはずの獣石が、
血と汗に濡れた掌をすり抜ける。
「――ッ……!」
微かな音を立てて、緑色の光が宙を舞う。
淡く、不気味に脈打ちながら、
獣石は床を転がり、
やがて、通路の縁で止まった。
それを――
黒鎧の男は、見逃さなかった。
足場が、軋む。
次の瞬間――
通路が、崩れ落ちた。
「――ッ……!」
叫びは、音にならなかった。
重力が、すべてを奪う。
視界も、方向も、時間も。
ボルダーの身体は、
何も掴めないまま、深淵へと落ちていった。
口を開けた深淵は、
何も言わず、ただ受け入れる。




