悪寒
ふと、視界の端に何かがよぎった。
月明かりに照らされた深夜の砂漠。
星は冴え、空気は凍りつくほど澄んでいる。
その静寂の中で、確かに“何か”が動いた。
ボルダーは奥歯を噛み締め、息を殺した。
音を立てぬよう、ゆっくりと視線を巡らせる。
――いた。
砂丘の向こう。
月光を背に、四つ足の獣が立っている。
その輪郭は不思議と鮮明で、白く輝いて見えた。
一瞬、神々しさすら覚える。
だが次の瞬間、ボルダーの背筋を、氷のような悪寒が走った。
(……違う)
本能が、全力で警鐘を鳴らしている。
慌てて周囲を見渡す。
だが、そこにあるのは乾いた砂と、風に運ばれる微かな音だけだった。
――一匹だけ。
そう理解したことで、わずかな安堵が胸に広がる。
遠くの獣は、ちらりとこちらへ視線を向けた。
月光を受けたその瞳と、一瞬だけ、目が合う。
「……ミルスバッフ」
死の見届け人。
砂漠では特に忌み嫌われる、死神の獣。
ボルダーは身構えたが、武器を手に取ることはなかった。
それが無意味だと、直感的に分かっていたからだ。
ミルスバッフは、風に溶けるように姿を消した。
砂の上には、何の痕跡も残らない。
「……不吉だな」
力が抜け、ボルダーは焚き火の前に腰を下ろした。
やがて、夜は白み始める。
⸻
一人、また一人と寝床から姿を現し、
日も昇らぬ暗い空の下で、一行は支度を整えた。
出立して間もなく、ボルダーは静かに口を開いた。
「……昨晩、ミルスバッフが一匹、現れました」
「一匹、か」
アルバンは険しい表情で前方を見据える。
「……何もなければいいが」
低く呟く。
その言葉に、誰も応えなかった。
ガルーシャだけは、相変わらずどこ吹く風だ。
やがて日が昇る頃、
先行していたパイリーと合流した。
その隣には、大柄な男が立っている。
「久しぶりだな! アルバン!」
大男は朗らかに笑い、歩み寄ろうとした。
だがアルバンは、手を突き出して制した。
「感動の再会は後だ、マルバ」
マルバと呼ばれた男は、少しだけ残念そうな顔をする。
そして、その視線がガルーシャへと向いた。
「……ザリスか」
警戒を隠さず、指を差す。
「妙な気は起こすなよ」
それだけ言い残し、マルバは村へと歩き出した。
「マルバ」
アルバンが静かに呼び止める。
「ここから北東に進んだ先に、遺跡はあるか?」
しばしの沈黙。
やがて、マルバは振り返らずに答えた。
「北北東だ」
「……何が狙いだ?」
アルバンは、その問いに答えなかった。
⸻
バンガ村は、至って平和だった。
子供たちがパララを追いかけて走り回り、
デンドラの暢気な鳴き声が響いている。
だが、一行は足を止めない。
村の反対側から、そのまま抜けていく。
「あの辺りは、砂虫獣が巣食っている」
マルバは忠告だけを残し、引き返した。
「気を付けろよ」
アルバンは振り返り、声を張る。
「酒を用意しておけ!」
マルバは背を向けたまま、手を振って応えた。
パイリーはガルに水を与え、その背に軽やかに飛び乗る。
列を抜け、先行していった。
その様子を見ていたボルダーは、
ふと何かを思い出したように、水袋へ手を伸ばす。
胸の奥に、まだ消えない悪寒を抱えたまま。




