黒狼
ザリス帝国機甲研究機関ヴァライソ。
その名は、帝国の誇る最先端技術と軍事力の象徴として語られる一方で、決して民衆の前に姿を見せることのない“裏の顔”を持っていた。
巨大な施設の地下深く。
研究所第四セクターと呼ばれる区域は、帝国内でも限られた権限を持つ者しか立ち入ることを許されていない。
さらにその最奥。
幾重にも施された封印術式と機械錠に守られた一枚の金属扉の前に、一人の男が立っていた。
黒獣隊副長――
ガルーシャ・シンバル。
重装の黒鎧に身を包んだその姿は、帝国軍の中でも特異だ。
黒獣隊。
皇帝直轄の特務組織にして、存在そのものが秘匿される部隊。
ガルーシャは無言で認証盤に手をかざす。
低く唸る音と共に、扉がゆっくりと開いた。
瞬間、鼻腔を突く。
薬品の刺激臭。
そして、鉄錆のように生臭い――血の匂い。
通路の両脇には、無数の培養槽が並んでいた。
淡い光に照らされ、その内部で蠢く影。
かつては人であった肉体。
獣石を無理やり埋め込まれ、骨格も筋肉も歪に変形し、
もはや理性を保つことすらできない存在。
彼らは名を奪われ、
記録上は番号だけで管理される。
帝国において、これは「研究成果」だ。
未来の兵器を生み出すために必要な犠牲。
そう定義されている。
(反吐が出る)
喉の奥で感情が蠢いたが、ガルーシャは足を止めなかった。
視線すら向けない。
ここで立ち止まることも、
憐れむことも、
怒ることも――
すべて無意味だと、彼は知っている。
この場所に足を踏み入れる資格を得た時点で、
それらの感情は捨て去ってきた。
彼が向かうのは、さらに奥。
白と黒だけで統一された無機質な会議室だった。
扉を開けると、二人の男が待っていた。
「来たか、黒狼」
最初に口を開いたのは、精悍な顔立ちの青年。
ザリス帝国皇太子。
年若いながらも、その眼差しには帝国を背負う者の重みが宿っている。
「少し早いな」
隣で低く呟いたのは、眼鏡をかけた壮年の男。
特務機関インの研究所長だ。
彼の視線は、机いっぱいに広げられた地図に注がれたままだった。
「殿下、要件を」
ガルーシャはぶっきらぼうに言い放つ。
無駄な言葉を嫌うのは、彼の性分だった。
皇太子はわずかに口角を上げる。
「焦るな。先に、こちらから質問だ」
研究所長が地図を回転させ、指先で一点を示した。
「貴公はかつて、アラシアで傭兵をしていたそうだな?」
「……その通りです」
短く答えた瞬間、胸の奥が微かに疼いた。
「では、この辺りに立ち寄ったことは?」
指が示す場所。
アラシア公国南西――幻惑の都ハーントッシュから二日ほど歩いた地点。
ガルーシャの喉が、わずかに鳴った。
脳裏に蘇る記憶。
荒れ狂う砂嵐。
地を割って現れた巨大な砂虫獣。
悲鳴と、血に染まる砂。
失った両親。
置き去りにした弟。
捨て去ったはずの過去が溢れ出る。
そして思考は辿り着く。
ーー弟は、生きているんだろうか。
「……傭兵団の補給地点がありました」
声は平静を装っていた。
「滞在中、遺跡の入口らしきものを見かけたことはあります。
それ以外に、特筆すべき点はありません」
次の瞬間、研究所長が勢いよく顔を上げた。
「やはりな……!」
歓喜を隠さぬ声。
「やはり私の推測は正しかった! なあ、ラグナ!」
皇太子は静かに頷く。
「では黒狼。
その遺跡を――調査せよ」
ガルーシャは眉をひそめた。
「殿下。
その遺跡に、一体何があると?」
答えたのは研究所長だった。
「英雄譚だ」
その一言で、空気が張り詰める。
「かつて、森を覆い尽くした災厄――木鼠の王カゼリフス。
かの英雄ダッカルンが聖獣アドゥプリムと共に戦った化け物。その決戦地がアラシアである、という話だ」
「だが、そのカゼリフスの獣石が使われたなどという記録は、歴史は、何処にも無い」
研究所長は地図を叩く。
「もし、未だにそれが眠っているなら……
それは、間違いなくここにある!」
沈黙が落ちる。
そして皇太子が、力強く言い切った。
「御伽話ではない。
事実だと、私は判断した」
「だから探す。
そして――帝国が手に入れる」
それは命令であり、宣言だった。
「黒狼。
お前は単独で潜入しろ。
帝国は関与しない。失敗すれば即座に切り捨てる」
ガルーシャは静かに一礼する。
「御意」
踵を返した瞬間、胸の奥が再び疼いた。
アラシア。
遺跡。
英雄譚。
そして――
切り捨てた過去。
黒狼はまだ知らない。
その遺跡で清算されるのが、自らの過去ではなくーー
あの嵐の中置き去りにした、弱き弟の人生だという事を。




