第6話 その傷は、まだ僕の中にあった
季節が、音もなくすり替わっていた。
公園の菜の花は静かに消え、代わりに川沿いの並木が緑を深くしていく。
それでも、彼女は変わらずそこにいた。
春野心音。
僕に「名前」をくれた人。
あれから、僕たちは少しずつ会う場所を広げていった。
静かなカフェ。
小さな古本屋。
夕暮れの川沿いのベンチ。
どこへ行っても、春野さんはせかさず、黙っていても隣にいてくれた。
沈黙を埋める必要なんてない。
そう思わせてくれる人は、初めてだった。
彼女が文庫本を手に取って「これ、好きなの」と微笑んだとき、
僕は何も返せなかったけど、
その声だけで胸が温かくなった。
それは、小さな灯のように、心の奥でぽっと灯るものだった。
⸻
「今日、よく喋ってるね」
ある日、川沿いんの道を歩いていたとき、彼女がそう笑った。
たしかに、最近の僕は少しずつ言葉を口にするようになっていた。
天気のこと、咲いていた花の名前、
子どもの頃に好きだった歌の話――。
そんな些細な言葉にも、彼女はちゃんと耳を傾けてくれた。
うなずいて、微笑んで、言葉を大事にしてくれた。
「普通の会話」って、こんなにも心を癒すものなんだ。
今になって、やっと知った気がした。
けれど、まだ胸のどこかに引っかかるものがあった。
「こんなふうに笑っていていいのか?」
そんな罪悪感のようなものが、薄く影を落としていた。
それでも――
彼女といると、その影さえ、少しずつ形を失っていった。
⸻
ある夏の日。
カフェのテラス席で風に吹かれたとき、
僕の袖の隙間から、ブレスレットの下に隠した傷跡が見えた。
それに気づいたのは、彼女だった。
視線が一瞬だけそこに止まったけれど、
すぐに目を逸らして、カップに口をつけた。
――何も言わない。
でも、その静けさが逆に胸に残った。
帰り道。
風に舞ったハルジオンの綿毛が、アスファルトを漂っていた。
しばらく歩いたあと、彼女がふと口を開いた。
「……ねえ、それ、痛かった?」
小さな声。風に紛れるような、でも確かに届く声だった。
僕は言葉を失った。
冷たい何かが喉元に触れて、ただ足元に揺れる影を見つめたまま笑ってみせた。
「……もう、あんまり思い出せないんです。
痛かったかどうかも。」
そう答えて、僕は目を伏せた。
路地の端で、風にさらわれた綿毛がくるくると舞っていた。
どこかににじんだ、言葉の苦さを、悟られたくなかった。
彼女は、それ以上なにも言わなかった。
ただ隣を歩きながら、すこしだけ歩調をゆるめてくれる。
それだけのことなのに――
どうしてだろう。
胸の奥が、じんわりとあたたかく揺れた。
⸻
夜、眠れなかった。
彼女の問いが、静かに胸の中で反響していた。
あの言葉には、責めも詮索もなかった。
ただ、心の奥に真っすぐ触れるようなやさしさがあった。
……もしかしたら、僕はずっとあの言葉を待っていたのかもしれない。
月の光が手首に落ちていた。
白く細い線。
声にならない記憶の痕跡。
誰にも見せたくなかったものが、いま、彼女の言葉で少しだけ輪郭を持ち始めていた。
⸻
その夜。
川辺の階段に腰を下ろすと、春野さんが隣に座った気配がした。
「……僕の声、やっぱり、変ですよね」
ふと、そんな言葉がこぼれた。
消えてしまいそうな、かすかなため息のように。
彼女は何も驚かず、ただ静かに僕を見つめてくれた。
「子どもの頃から、僕の声はよく笑われました。
声が高くて、まわりと違ってて……。
恥ずかしくて、自分の声がずっと嫌いでした」
「でも、歌うことだけは好きだったんです。
歌ってるときだけは、世界が少しだけ静かになったから」
「夜になると眠れなくて、
朝が来るのが怖くて仕方なかった。
夢の中ですら、僕の居場所なんてなくて……」
言葉にするたび、胸の奥に触れてしまう。
でも、止まらなかった。
誰かに聞いてほしかったのだと思う。
「ほんとは、誰かに触れてほしかった。
でも、どうしていいのかわからなかった。
ずっと、寒い場所のままで……」
そのとき、彼女の手が僕の手にそっと重なった。
細くてあたたかい指先が、傷の上をやさしくなぞる。
「……僕なんかでも、生きていて、いいんでしょうか」
その問いは、小さく夜に溶けた。
返事の代わりに、彼女は僕を静かに抱きしめてくれた。
胸の奥で何かが崩れた。
それは苦しみでも悲しみでもなく――
きっと、救いだった。
言葉にならない涙が、静かにこぼれ落ちた。
⸻
「……春野さん……」
名前を呼んだとたん、また涙があふれそうになった。
たぶん、ずっと僕は、
こんなふうに誰かの名前を呼びたかったのだ。
誰かのことを、大切に思いたかったのだ――。
(春野心音 視点)
彼の声は、とてもやさしかった。
ふわっと胸に広がって、
誰にも気づかれずに咲く、小さな花みたいな響きだった。
そんな声を、ずっと「おかしい」なんて言われてきたなんて、
信じたくなかった。
どうして、こんなにやさしい人が、
自分を責めて、自分の痛みを隠して、生きなきゃいけなかったんだろう。
彼の手首に残っていた痕は、とても静かで。
まるで、言葉のない叫びのように感じた。
見つめたら、泣いてしまいそうだった。
それでも――目を逸らしたくなかった。
あの傷は、彼がずっとひとりで抱えてきた「痛みの形」だったから。
「……あなたの声は、ちっとも変なんかじゃないよ」
気づけば、そう言葉にしていた。
ちゃんと届くように、
心からまっすぐ、想いをこめて。
「とても綺麗だと思う。
深い海みたいに、静かでやさしくて……澄んでる」
「その声で、生きてきたんだよね。
きっと歌うことで、自分を守ってきたんだと思う」
私には、彼のすべてを救うことなんてできないかもしれない。
でも、せめて――
彼の優しさが、ちゃんと愛おしいものだってこと。
その心が、誰かに届いているんだってこと。
それを、少しでも伝えたくて。
「愛を知らないなんてこと、ないよ。
君は、誰よりもやさしい人だよ」
「やさしさって、きっとそれだけで“愛”なんだと思う」
私は知っている。
やさしさは、ときに自分を傷つけるほど鋭くなることもある。
それでも手放さなかった心は、誰よりも尊いと思うから。
風が吹いて、川の水面をかすかに揺らした。
「たとえ、生きることがつらい日があっても――
それでも、あなたがあなたでいることが、一番大事」
「逃げたくなる夜があってもいい。
だから……生きていて。お願い」
「私のためじゃなくて、いつかあなた自身のために。
自分を大切にできる日が来たら、
そのとききっと、心から笑えるから」
言葉が途切れたとき、
彼の頬に、一筋の涙がすっと流れた。
それは、音のない涙だった。
でもたしかに――
その涙は、彼の心が少しだけ溶けた証のように思えた。
私は、強く思った。
この人に、しあわせになってほしい。
凍えた夜を独りで過ごさなくてもいいように。
誰かに怯えず、まっすぐに息ができる朝が来るように。
そんな日々を、この人が迎えられる未来があるように――。
いつの間にか、私はもう、彼のことを大切に思っていた。
まだ名前のつかない想いかもしれないけど、
胸の奥に確かに芽生えていた。
ただ「そばにいたい」。
その気持ちだけで、十分だった。
彼がまた、ほんの少しでも前を向けるように。
その背中を、そっと支えていけるように。
そんな風に、想っていた。
(主人公視点)
夜の静けさの中で、彼女の言葉が何度も胸の奥で繰り返された。
「あなたの声は、とても綺麗だよ」
「少しずつでいいから、自分に優しくしてあげて」
「逃げてもいい。だから、生きていて」
僕はまだ、自分のことが好きになれない。
それでも――
「そう言ってもらえた」ことが、
たしかに心のどこかを照らしていた。
……もう少しだけ、生きてみようか。
それだけの想いが、
今はただ、静かにあたたかかった。
まだ夜は明けない。
けれど、きっと――
その向こうに、夏の光が、静かに息づいている気がした。
まだ、手が届かないだけで。
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