第39話 顔も名前も出せない僕の歌を、彼女の家族は毎日聴いてくれていた
「春風のメロディー」がリリースされて、一週間。
曲は配信チャートで二位まで上がり、Re:Voiceの名も少しずつ広まった。
でも、僕の胸の奥は——
嬉しさと同じくらい、不安でぎゅうっと締め付けられていた。
「零くん、またメールが来てる」
心音さんの声に、胸がざわりとした。
「今度は……ラジオ番組からだって」
言葉に詰まりながら、僕はメールを開く。
Re:Voice様
深夜ラジオ番組『Sound Wave』です。
「春風のメロディー」、素晴らしい曲ですね。
ぜひ、番組にゲスト出演していただけないでしょうか。
匿名での出演で構いません。
声だけで、お顔は出さなくて結構です。
ご検討のほど、よろしくお願いいたします。
画面を見つめる手が、微かに震える。
今週だけで三件目のオファー。
すべて、声だけで、顔は出さなくていい。
それは安心であり、同時に重くのしかかった。
「零くん、どうする?」
心音さんが、優しさを隠すように声を震わせて訊く。
「……わからない」
胸の奥に渦巻く不安を、正直に吐き出した。
嬉しい。
でも、全部受けたら自分は壊れそうだ。
断るのも、怖くて、申し訳なくて。
しばらくの沈黙。
心音さんの静かな呼吸が、少しだけ僕の心を落ち着かせる。
「佐藤さんに相談してみようか」
その声に、僕は小さくうなずいた。
翌日、電話の向こうの佐藤さんに、震える声で話す。
「たくさんオファーが来て……全部は無理で……でも断るのも……」
言葉が途中で詰まった。
『Re:Voiceさん、無理しなくていいですよ』
その言葉が、胸の奥にそっと光を灯す。
『ただ、露出も大切です。曲を知ってもらうためにも、月に一〜二本に絞って出演するのはどうでしょう』
胸が、少しだけ軽くなった。
無理しなくていい。
でも、歌を届けたいという気持ちは消せない。
矛盾する想いが、胸の中でひそやかに戦っていた。
こうして、声だけの活動が始まった。
最初は深夜ラジオ「Sound Wave」。
自宅の静かな部屋で、画面にも映らず、声だけで誰かの耳に届ける。
隣に心音さんがいてくれる——
その存在だけが、僕を支えてくれた。
「Re:Voiceさん、こんばんは!」
明るいDJの声に、僕はぎこちなく答える。
「……こんばんは」
声が夜の静寂に溶けていく。
『この曲、どんな想いで作ったんですか?』
言葉を選びながら、僕は心音さんを見た。
彼女の微笑みが、胸の奥にぽっと灯る。
「春は新しい始まり。でも、不安もあるんです。そんな時、大切な人がそばにいてくれたら……」
その小さな希望を、声に乗せた。
『恋人はいるんですか?』
「……はい」
『素敵ですね』
「いつも、支えてくれてありがとう」
その瞬間、心音さんの頬が紅く染まる。
胸の奥に、ほのかな温もりが流れた。
けれど同時に、僕の中の恐れも消えない。
声だけで届けられても、顔も名前も隠したままで、果たして本当に届いているのだろうか——。
月に一〜二本。
ラジオ、音楽番組、ポッドキャスト。
声だけで、顔を出さずに届ける。
それでも誰かが耳を傾けてくれる——
その事実が、少しだけ僕を救った。
『Re:Voice、誰だろう』
『声だけでこんなに惹かれるなんて』
匿名であるからこそ、孤独と希望が同時に押し寄せてくる。
ある日、心音さんが新聞の切り抜きを見せてくれた。
『謎の歌手Re:Voice、顔を出さずに大ブレイク』
「零くん、すごいよ」
「戦略じゃなくて……ただ怖いだけ」
心音さんの手が、僕の手をそっと握る。
「でも、それがいいんだよ。声だけで勝負する、かっこいいよ」
胸の奥のざわめきが、少しだけ静まった。
嬉しい。
でも、疲れも確かにある。
月に一〜二本でも、準備や打ち合わせ、次の曲の制作に追われる日々だった。
それが数ヶ月続いた頃、大きなフェスのオファーが届いた。
出たい。
でも、怖い。
心が揺れる。
「……少し、疲れています」
佐藤さんに正直に告げると、優しい言葉が返ってきた。
『チャンスはまた来ます。今は自分のペースを守ってください』
その瞬間、胸の緊張が少しだけほどける。
心音さんの微笑みが、温かい光を落とした。
「よかったね。無理しなくていいんだよ」
「……うん」
そっと抱きしめると、彼女の呼吸が僕の胸にぴたりと重なった。
声だけで、顔を出さずに、でも確実に、歌は届く。
心音さんとの時間も、守れる。
それだけで、十分だった。
初夏の夜風が窓から吹き込む。
季節は、春から夏へ。
僕の歌は静かに、でも確かに広がっていく。
大切なものは変わらない——
心音さんへの想い。自分のペース。
心音さんの隣で、そっと眠る。
明日も、歌い続ける。声だけで。
でも、確かに、想いは届く。
この声で、誰かの夜を少しだけ温められるように。
二人だけの日。
「零くん、今日、久しぶりに実家に行かない?」
心音さんの声に、僕の胸がふわりと跳ねた。
「実家……?」
「うん。お母さんも、結音も。零くんに会いたいって」
その笑顔は優しくて、でも少し期待で揺れているようにも見えた。
「……本当に?」
「うん。毎日、零くんの曲聴いてるって」
胸の奥がじんわり温かくなる。
歌を届けることで、誰かの心に触れられる——
そんな日を、こんなに身近に感じられるなんて。
「じゃあ、行こう」
言葉を口にする自分の声が、少しだけ震えていた。嬉しい。
けれど、少し怖かった。
午後、電車に揺られながら、見慣れた街を眺める。
初めて来た時の緊張を思い出した。
あの時は、声も出せず、心臓が跳ねていた。
でも、今は違う。
心音さんが隣にいる。
それだけで、心の奥の小さな不安が和らいでいく。
「着いたよ」
ドアの前でインターホンを押す。
『はーい!』
結音ちゃんの声。
無邪気で、弾むような声。
ドアが開くと、結音ちゃんが笑顔で立っていた。
「お姉ちゃん、零くん、おかえり!」
その瞬間、僕の胸の奥で、ずっと固まっていた何かが少しだけ緩んだ。
「ただいま」
「お邪魔します」
声が、いつもより少し柔らかく出た気がした。
リビングに通されると、温かいお茶とお菓子が並ぶテーブル。
心音さんの家族が僕を受け入れてくれている。
言葉にできないほどの安心感が、胸に広がった。
「零くん、『春風のメロディー』聴いたわよ」
お母さんの目が輝く。
「すごくいい曲ね」
思わず、お茶のカップを両手で包んだ。
「ありがとうございます……」
言葉に詰まりながらも、胸が熱くなる。
誰かが、自分の歌を聴いて喜んでくれる——
その事実だけで、胸の奥が震えた。
「毎日聴いてるんです!」
結音ちゃんの目も輝いている。
「配信チャートでも上位だし!」
その熱意に、僕の頬が少し熱くなる。
こんなに応援してくれる人がいる——
心音さんの家族だけど、それ以上に、自分を信じてくれる人がいる。
「お母さん、零くん照れてるから」
心音さんが僕の手を握った。
その温もりに、心の奥にある孤独がふっと軽くなる。
義理の両親には拒まれた自分でも、ここでは受け入れられる——
それが、嬉しくて、同時に少し切なかった。
結音ちゃんが立ち上がり、自分の部屋からスマホを持って戻ってくる。
「これ、見てください」
画面には、彼女のSNS投稿。
Re:Voiceの「春風のメロディー」最高すぎる!
毎日リピートしてます。みんなも聴いて!
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
こんなに応援してくれる人がいる——
それを直に感じると、少し泣きたくなる。
孤独だった時間、歌を聴かれることの怖さ、すべてがここで報われる気がした。
「零くん、私も応援してます!」
「いつか、ライブとか行きたいな」
その言葉に、僕は視線をテーブルの木目に落とした。
お母さんが、優しい眼差しで僕を見る。
「主人が音楽好きだったから、聴くと辛かったの。でも、零くんの歌は聴けた。優しくて、温かくて。主人も、きっと喜んでるわ」
涙が、自然に溢れた。
声だけで、顔も出さずに。
それでも、自分の歌は誰かの心に届いている——
それが、こんなにも嬉しいなんて。
「零くん、私たちも、ずっと応援してるから」
その言葉を胸に、僕は心音さんを見つめた。
「僕、頑張る」
声が震えるけれど、胸の奥は強くなる。
「心音さんの家族が応援してくれてるから。もっといい曲作る」
電車に揺られながら、窓の外に初夏の景色が流れる。
緑が濃く、風が柔らかく揺れていた。
心音さんの肩に頭を預けながら、僕は思う。
温かい家族の存在——
それは、孤独な僕にとって、儚くも確かな光だった。
夜、ベッドで目を閉じると、胸の奥がふわりと軽くなる。
心音さんの寝顔を見ながら、僕は心の奥底で誓った。
歌を届けること。
心音さんとの時間を大切にすること。
そして、この温もりを忘れずに生きていくこと。
初夏の夜は、静かに更けていく。
胸の奥に、切なくも優しい光を抱えながら、僕は眠りについた。
声だけで、でも確かに、想いを届けられる自分を信じて。




