第38話 君と作った春風のメロディーが、僕のデビューシングルになった
契約から、数日が過ぎた。
水曜日。二人だけの、穏やかな日。
「零くん、散歩行こうか。今日すごくいい天気だよ」
心音さんが窓の外を見ながら言った。
僕は無言で立ち上がり、コートに手を伸ばした。
三月の終わり。
空気はまだ少し冷たいのに、光だけが春を先取りしていた。頬を撫でる風が、柔らかい。
「気持ちいいね」
心音さんが微笑む。その笑顔に、陽だまりの匂いがした。
「うん」
僕たちは手を繋いで歩いた。公園を抜け、商店街をゆっくりと進む。
「あ、零くん、見て!」
心音さんが立ち止まった。
その指先の先に、淡いピンクの看板が揺れている。
「Café Printemps……春のカフェ、か」
「入ってみない?」
「うん」
小さなベルが鳴り、扉を開けると、バニラと桜の混ざった甘い香りがふわりと漂ってきた。
木漏れ日のように柔らかな店内。
窓際の席に座ると、春の光がテーブルに落ちて、二人の影を淡く重ねた。
「わあ、桜のスイーツがある! 桜のパフェ、シフォンケーキ、マカロン……」
「どれにする?」
「うーん、悩むなあ……」
少し考えてから、心音さんは小さく笑った。
「じゃあ、桜のパフェ」
「僕は……桜のシフォンケーキ」
「シェアしようね」
その笑顔に、胸の奥が緩んでいく気がした。
やがて運ばれてきた桜色のパフェは、淡いピンクのアイスの上にひとひらの花びらが乗っていた。
まるで、春を閉じ込めたガラス細工みたいだ。
「綺麗……」
心音さんが囁く。
その横顔を見ていると、世界が一瞬、静止したように思えた。
「いただきます」
スプーンでパフェを口に運ぶ。
甘さの奥に、ほんの少しの塩味。
それがまるで、春の涙のようだった。
「美味しい……」
「零くん、ケーキも食べて。あーん」
フォークでひと口分を差し出してくる。
「……恥ずかしい」
「いいから」
笑いながら、僕は口を開けた。
ふわりとした甘さが、胸の奥まで広がる。
「美味しい」
「でしょ?」
僕もスプーンをすくい、心音さんに差し出した。
「……はい」
「もう、零くんも……」
照れたように笑って、心音さんは口を開けた。
ほんの小さなやり取り。
でも、それが胸に残った。
永遠の断片みたいに。
「ねえ、零くん」
「ん?」
「プロになっても、こういう時間、ずっと続けようね」
その言葉が、光のように胸に触れた。
「うん。約束」
彼女の手を握ると、指先が少し震えていた。
春風が、窓の外をやさしく揺らしていた。
カフェを出て、しばらく歩いていると、見覚えのある店が目に入った。
CDショップの前で、僕たちは立ち止まる。
「行こうか」
「うん」
店内には、いくつもの音が並んでいた。
新譜のコーナーに、見覚えのある名前。
「白石美月……零くんの曲、入ってる」
「……ほんとだ」
「買っていこうよ」
心音さんがCDを手に取った。
裏面には、“Re:Voice” の文字。
小さくても確かな現実が、そこにあった。
「すごいね、零くん」
「……まだ、夢みたい」
「でも、現実なんだよ」
心音さんが微笑む。
その言葉に、胸が熱くなった。
帰り道。夕暮れの街がオレンジ色に溶けていく。
「今日、楽しかったね。桜のスイーツも美味しかったし、零くんの曲も持って帰れた。こういう日が、一番好き」
「……僕も」
沈みゆく太陽の下で、僕たちは立ち止まり、静かに抱き合った。
人通りのある街の中で、世界がぼやけて、音が消えた。ただ、心音さんの体温だけが、確かだった。
部屋に戻り、CDをかける。
「冬の月の恋」——僕が作った曲。
彼女の声で、別の命を得て流れていく。
「いい曲だね」
「……ありがとう」
音が、二人の間にそっと降り積もる。
春には似合わない、でも確かな雪みたいに。
「零くんも、いつか自分のCDを出すんだろうね」
「……どうかな」
「出したら、私が一番最初に買うから」
「うん」
彼女が僕の肩にもたれた。
夜がゆっくりと、窓の外に降りてくる。
その夜、二人で作ったカルボナーラの香りが、部屋にやわらかく残っていた。
湯気の向こうに、笑う心音さんの横顔。
それを見ているだけで、胸が満たされた。
お風呂の中で、心音さんがぽつりと呟いた。
「こういう日が、ずっと続きますように」
「続くよ。絶対に」
僕はその言葉を、祈りのように胸に刻んだ。
ベッドの中、眠りに落ちていく彼女の髪が、僕の頬に触れた。
春の風が、カーテンを揺らす。
世界が優しく息をしていた。
今日という日が、永遠のように感じられた。
プロになっても。季節が移ろっても。この静かな幸福だけは、決して手放さない。
僕は心の中で、そう誓った。
外では、夜桜が風に揺れていた。
二週間が経った。
春の陽が柔らかく街を包み、桜が満開の頃。佐藤さんから連絡が来た。
「Re:Voiceさん、初シングルの話を進めたいと思います」
僕と心音さんは、画面越しに彼と話していた。
「初シングル……」
「はい。プロとしての、正式なデビューシングルです」
画面に資料が映る。
「リリースは四月中旬を予定しています。約一ヶ月後ですね」
短い。でも、やらなければいけない。
「曲は新曲がいいですか? それとも既存曲のリメイク?」
迷わず答えた。
「……新曲にしたいです。デビューシングルは、新しい曲で」
佐藤さんが微笑む。
「テーマはRe:Voiceさんにお任せします。ただ、春らしい曲だと嬉しいですね」
春……。
心にそっと、柔らかい光が差した。
「わかりました」
通話を終えると、心音さんが僕を見つめた。
「零くん、大丈夫?」
「……うん。でも、緊張する」
彼女は手を握ってくれた。
「でも、零くんなら大丈夫」
その小さな手のぬくもりに、胸が少しずつ溶けていく。
「一緒に、作ってくれる?」
「当たり前でしょ」
笑顔が、春の光みたいに優しかった。
僕たちは曲作りに没頭した。
テーマは「春」。そして「新しい始まり」。
「春って、どんなイメージ?」
「……明るくて、温かくて。でも、少し切ない。冬が終わって春が来る。別れと出会いの季節」
心音さんは黙ってうなずく。
「僕にとっての春は……」
僕は彼女の目を見つめて、静かに言った。
「新しい始まり。プロになった。でも、心音さんと一緒に歩いていく」
「じゃあ、それを歌にしよう」
小さな約束が、メロディーに変わっていく。
何度も弾き直し、歌詞を練り直す夜。
深夜の窓の外には、冷たい春の風。
でも心音さんの声が、温かい灯りのようにそばにあった。
「零くん、少し休憩しよう」
彼女がお茶を差し出す。
「無理しないでね」
「ありがとう」
その言葉だけで、少しだけ強くなれた。
一週間後、曲は完成した。
タイトルは「春風のメロディー」。
新しい季節、新しい始まり。
でも僕にとっては、心音さんと歩む未来の歌だった。
翌日、佐藤さんにデモを送ると、電話がすぐに鳴った。
「素晴らしいです! これは絶対ヒットしますよ!」
「本当に……?」
「はい! タイトルも『春風のメロディー』。完璧です」
胸がじんと熱くなる。
同時に、言葉にならない不安も波のように押し寄せた。
でも心音さんがいる。
それだけで、僕は怖くなかった。
レコーディング当日。
朝から手が冷たく、喉も痛い。
「零くん、少しでも食べて。力出ないよ」
微かな吐息をつき、トーストを口にする。
春の光は明るいのに、胸は小さく締め付けられていた。
スタジオの扉を開けると、広い空間にプロの空気が漂う。
緊張で声が震える僕に、心音さんはそっと手を握った。
「私、ずっとそばにいるから」
深呼吸。目を閉じ、心音さんを思う。
この曲も、ここまでの道も、全部一緒に作ってきた。
「いつも通りでいい」
その言葉に、少しだけ勇気が湧いた。
最初のテイクは、震える声だった。
思うように音程も取れず、胸が苦しい。
でも、ガラス越しに見える心音さんが微笑む。
その小さな光に導かれるように、僕は歌を紡いだ。
2テイク、3テイク……。
少しずつ声が安定していく。
心音さんの瞳を見つめながら、ただ歌に集中した。
「春風が 頬を撫でる」
透明で、少し切ない声。
「新しい季節が 始まる」
深く、でも軽やかに。
「不安もあるけど 君がいれば」
胸の奥の震えを、そっと音に乗せる。
サビに入り、力強さを込めても叫ばない。
「手を繋いで 歩いていこう」
「新しい道を 君と一緒に」
春の風のように、優しく、儚く。
テイクが終わると、ガラスの向こうの心音さんの瞳に涙が光っていた。
「……素晴らしい!」
佐藤さんの拍手が、あたたかく胸に響いた。
それから数日が経ち、リリース当日の夜を迎えた。
春の空が、オレンジに染まる。
緊張はまだ少し残っていたけれど、それ以上に満たされていた。
「零くん、お疲れ様」
「……ありがとう」
小さな声で交わす言葉に、全てが詰まっている。
そして、午前零時。
「春風のメロディー」が世界に解き放たれた。
再生数が増え、コメントが流れる。
『待ってた!』
『春にぴったり』
『デビューシングル最高!』
胸がじんと熱く、涙が頬を伝う。
でも、何より嬉しいのは、心音さんと一緒に作れたことだった。
「心音さん……」
「うん」
抱き合う僕たちの周りで、春風が静かに揺れる。桜の花びらが、風に舞った。
プロとしての初シングル。
大成功だった。
でも、本当に大切なのは、隣にいるこの人。
心音さんと一緒に作った、未来へのメロディー。
その夜、声日記をつけた。
「今日、『春風のメロディー』がリリースされた。でも、一番嬉しかったのは、心音さんと一緒に作れたこと」
窓の外、春の夜は静かに更けていく。
柔らかく、切なく、でも確かに温かい。
明日も、心音さんと一緒に目を覚ます。
幸せを噛みしめながら、僕はそっと眠りについた。




