第37話 数万人の前で歌った僕に届いたプロ契約、でも一番守りたいのは彼女との時間だった
バランスを見つけてから、二週間が経った。
週に二日は心音さんとの時間を大切にしながら、僕は少しずつ音楽の世界へ戻っていった。
穏やかな午後、心音さんが小さく声を上げた。
「零くん、これ……見て」
彼女の指先が指すメールボックスには、見覚えのある名前があった。
件名:【出演オファー】Harmonize Live より
「あ……これ、前に来てたやつだ」
以前、保留にしていたオンライン音楽フェスからの再オファーだった。
―――
Re:Voice様
オンライン音楽フェス「Harmonize Live」運営事務局です。
来月開催の「Winter Special」に、ぜひご出演いただけませんか。
視聴者は数万人規模を予定しております。匿名出演も可能です。
―――
「数万人……」
息が詰まる。
僕にとって、それは未知の世界だった。
「零くん、どうする?」
「……怖い。でも……やってみたい気もする」
心音さんは、ふわりと微笑んだ。
「じゃあ、やってみよう。私が支えるから」
その言葉に、胸の奥で何かが灯った。
「……ありがとう」
僕は出演を受けると返信した。
◇ ◇ ◇
準備期間は、あっという間に過ぎていった。
ライブまで、一ヶ月。
「まず、セットリストを決めよう」
心音さんがノートを開く。
「『名前のない歌』は、絶対」
「うん」
「それと、『温もりの在処』」
「ラジオでも歌った曲だね」
「最後は……『君がくれた光』」
心音さんが少し目を見開く。
「……最後に歌うの?」
「大切な曲だから」
僕たちは笑い合った。
1. 名前のない歌
2. 温もりの在処
3. 君がくれた光
毎日、少しずつリハーサルを重ねた。
ギターの音に呼吸を合わせ、心の奥にある"声"を掬い上げるように。
「ここ、もう少し感情を込めた方がいいかも」
「こう?」
「うん、それ」
心音さんは、いつも優しく導いてくれた。
それでも、完璧を求めすぎて喉が痛む夜もあった。
「零くん、無理しないで」
「大丈夫」
そう言いながら、僕は何度も歌った。
◇ ◇ ◇
ライブの一週間前から、不安が押し寄せた。
「心音さん……本当に、できるかな」
「できるよ。零くんなら」
彼女が僕の頬に触れる。
「失敗してもいい。大事なのは、あなたが歌うことだから」
その言葉に、胸が温かくなる。
◇ ◇ ◇
そして迎えた当日の朝。
何も喉を通らなかった。
心音さんが差し出すスープを、少しだけ飲んだ。
午後七時。
準備の時間。
パソコンの前、マイク、ギター。
すべての音が、僕を試すように静まっている。
「……零くん」
心音さんが隣に座る。
「大丈夫、ここにいるからね」
「……うん」
午後八時。
画面の向こうで、光が瞬く。
「次は、匿名歌手・Re:Voiceさんです!」
コメント欄が一斉に沸いた。
『待ってた!』
『本物だ!』
『泣きそう』
視聴者数――
三万五千人を超えていた。
喉が渇く。
けれど、マイクを見つめると、不思議と心が静まった。
「こんばんは、Re:Voiceです」
僕の声が、見えない誰かの元へ流れていく。
『綺麗すぎる』
『この声で生き返る』
『ありがとう』
コメントが、光の粒になって画面を満たしていく。
◇ ◇ ◇
最初の曲、『名前のない歌』。
孤独だった日々を思い出しながら、歌った。
心音さんに出会う前の、あの静かな夜を。
次に、『温もりの在処』。
心音さんと初めて言葉を交わした夜を思い出す。
あの手の温度。あの涙。
隣で、彼女がそっと泣いているのが見えた。
そして最後の曲。
「――『君がくれた光』」
深く息を吸い、心音さんを見た。
彼女が、静かに頷く。
ギターの音が、夜空に滲む。
僕は、彼女への想いをすべて込めた。
この人がいなければ、僕はもう生きていなかった。
この人がくれた光が、今も僕を照らしている。
――「ありがとう」
最後の音が、ゆっくりと消えた。
静寂。
世界が一瞬、呼吸を止めたようだった。
そして次の瞬間、コメント欄が溢れた。
『泣いた』
『心が救われた』
『ありがとう、Re:Voice』
画面越しの言葉が、涙のように流れ続けた。
◇ ◇ ◇
配信が終わると、力が抜けた。
「……終わった」
心音さんが駆け寄り、僕を抱きしめた。
「すごかったよ、零くん。みんな、あなたの歌に泣いてた」
僕の胸の奥が熱くなった。
「……ありがとう。心音さんがいてくれたから、ここまで来れた」
「ううん。零くんが、自分を信じたから」
スマホの画面が震える。
フォロワー数が急激に増え続けている。
数時間で、数万人が新たに僕を見つけてくれたようだった。
「……夢みたいだ」
「ううん、現実だよ」
心音さんが笑った。
「でもね、どんなに有名になっても、一番大切なものは、変わらないでね」
「うん。僕が守りたいのは、"この時間"だから」
その夜、僕たちは静かに抱き合いながら眠った。
月の光が、カーテンの隙間からこぼれていた。
――初めての大舞台は、成功に終わった。
けれど、心に残ったのは歓声ではなく、
隣にいた彼女の、あたたかな手の感触だった。
配信ライブから三日後。
あの夜の熱が少し冷め、静けさが戻り始めた頃。
スマートフォンが震えた。
画面に映る名前――
佐藤さん。
「もしもし、Re:Voiceです」
『Re:Voiceさん! ライブ、拝見しましたよ! 本当に素晴らしかった!』
弾む声の向こうで、実感が湧かない。
「ありがとうございます……」
『それで、今日お電話したのは――』
佐藤さんの声が、少し低くなる。
『そろそろ、本格的に考えませんか? プロとしての契約を』
心臓が、激しく打った。
『Re:Voiceさん、もう十分な実績があります。フォロワーも10万人を超えました。今、この瞬間を逃さないでほしいんです』
「……少し、考えさせてください」
『もちろん。でもね、チャンスは待ってくれません。あなたの"今"の声が、世界を動かしているんですよ』
電話が切れたあと、僕はただ、静かに深呼吸した。
「零くん……佐藤さんから?」
心音さんが、優しい目で僕を見る。
「うん。プロ契約の話だった」
「……そっか」
心音さんは、隣に腰を下ろした。
◇ ◇ ◇
「零くん、どうしたい?」
「わからない」
「やってみたい気持ちはある。でも……」
「でも?」
「心音さんとの時間も、ちゃんと守りたい」
言葉にした瞬間、胸が少し痛くなった。
心音さんは、静かに頷いた。
「ねえ、零くん。条件をつければいいんじゃない?」
「条件?」
「うん。週に二日はお休み。深夜の仕事は断る。自分のペースでできるように、最初から線を引くの」
「そんなこと、できるかな……」
「やってみよう。佐藤さんなら、きっと聞いてくれる」
その笑顔を見て、僕の中で、何かが決まった。
「……うん、やってみる」
◇ ◇ ◇
その夜、僕たちはノートを広げて、未来の形を描き始めた。
「週に二日は完全に休む」
「深夜の仕事は受けない」
「顔出し、本名の公開は一切なし」
「無理なスケジュールは断る権利を持つ」
そして、僕は最後にペンを止めた。
「――心音さんとの時間を、何より大切にする」
心音さんが、少し潤んだ瞳で微笑んだ。
「ありがとう、零くん」
◇ ◇ ◇
翌朝、もう一度条件を見直してから、僕は佐藤さんに電話をかけた。
「もしもし、佐藤さん。契約のお話ですが……条件があります」
『お返事、ありがとうございます! どんな条件でしょうか?』
僕は、ひとつひとつ、条件を伝えた。
沈黙が続く。
息をする音さえ聞こえない。
「……ダメ、ですか」
長い沈黙の後、佐藤さんが言った。
『――わかりました。少し時間をいただいて、社内で調整させてください。詳細は書面でお送りしますね』
「……はい、ありがとうございます」
電話を切ると、心音さんが不安そうに僕を見つめていた。
「どうだった?」
「検討してくれるって……」
「きっと大丈夫だよ」
◇ ◇ ◇
数日後、メールが届いた。
件名:「契約条件について」
手が震える。
心音さんが隣に座った。
「零くん、開けてみよう」
深呼吸をして、メールを開く――
―――
Re:Voice様の提示された条件、すべて受け入れます。
Re:Voiceさんのペースで活動してください。
無理をして、喉を壊してしまったら意味がないでしょう?
―――
「心音さん……!」
画面を見せると、彼女の目にも涙が浮かんでいた。
「良かったね、零くん」
その優しい言葉に、涙が溢れた。
僕はすぐに返信を書いた。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
一週間後。
僕は、心音さんと一緒に佐藤さんのオフィスを訪れた。
春の光に包まれたビル。
暖かい空気の中に、希望の予感があった。
「緊張する?」
「うん……すごく」
「大丈夫。私がいるから」
心音さんが、そっと僕の手を握った。
会議室のテーブルには、分厚い契約書。
そこには、僕たちが考えた条件がすべて書かれていた。
「週に二日の休み、深夜の仕事は受けない、完全匿名――すべて明記しました」
佐藤さんは穏やかに言った。
「ありがとうございます」
「それと、こちらのお願いも少しだけ。年に四曲のリリースと、年に二度の配信ライブ。それだけです」
「……わかりました」
「契約は一年ごとの更新制。もし辛くなったら、いつでも辞めていいですよ」
その言葉に、心の中で張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。
「ありがとうございます」
ペンを取る。
心音さんが、そっと肩に触れる。
その温もりに背中を押されながら、僕はサインした。
Re:Voice
契約成立。
新しい旅のはじまり。
◇ ◇ ◇
外に出ると、春の空がどこまでも澄んでいた。
心音さんが微笑む。
「おめでとう、零くん」
「ありがとう。心音さんがいてくれたから」
「ううん。零くんが、ここまで来たんだよ」
「でも、これからも一緒にいて」
「当たり前でしょ」
彼女の笑顔が、光のように眩しかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
僕は、声日記に録音した。
「今日、プロとしての契約にサインした。怖いけれど、心音さんがいるから大丈夫。無理はしない。焦らない。この声で、誰かの心を少しでも照らせたら……それでいい」
録音を止めると、隣で眠る心音さんの寝息が、静かに聞こえた。
その音に包まれながら、僕は目を閉じる。
新しい道が、ゆっくりと開いていく。
けれど、僕の原点は、ここにある。
この人のそばで、生まれた"声"。
――Re:Voice。
それは、誰かに届くための名であり、彼女がくれた、僕自身の証でもあった。




