第36話 次々とオファーが来る匿名歌い手の僕は、立ち止まる勇気を持つことで本当に大切なものを守る
「春めく月の恋」のリリースから、二週間が過ぎた。
その曲は配信チャートで五位まで上がり、Re:Voiceという名前は、少しずつ世間に知られるようになっていた。
そんなある日。
「零くん、メール来てるよ」
心音さんに呼ばれて、僕はスマホを手に取る。
件名:【コラボレーションのお誘い】VTuber・星野リクより
「……VTuber?」
不思議に思いながら、メールを開いた。
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Re:Voice様
はじめまして。VTuberの星野リクと申します。
「春めく月の恋」、拝聴しました。とても美しい曲でした。
以前から、あなたの歌声に惹かれていました。
もしよければ、コラボレーションしませんか?
僕も音楽配信をメインに活動しています。
顔を出さず、アバターで歌うという点では、あなたと似ているかもしれません。
ご検討いただけたら嬉しいです。
星野リク
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「顔を出さない者同士、気が合うかもね」
心音さんが、柔らかく微笑む。
「……そうだね」
僕も小さくうなずいた。
匿名の世界で歌う者同士。
彼もまた、孤独を抱えているのかもしれない。
「やってみる?」
「……うん。話だけでも、聞いてみたい」
そうして、僕は返信を書いた。
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星野リク様
お世話になっております。Re:Voiceです。
コラボのお話、ぜひ聞かせてください。
よろしくお願いします。
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送信して数分後、すぐに通知が鳴った。
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Re:Voice様
ご返信ありがとうございます。
明日の夜、通話でお話しできませんか?
楽しみにしています。
星野リク
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「早いね」
心音さんが少し笑う。
「でも、きっと嬉しかったんだよ」
「……うん」
胸の奥で、心臓が少し速く鳴っていた。
翌日の夜。
静かな部屋。
パソコンの画面が淡く光り、心音さんの横顔を照らしている。
通話の着信音が鳴り、僕はゆっくりとマイクをオンにした。
「もしもし……Re:Voiceです」
『こんばんは。星野リクです』
穏やかで、低く、優しい声。
その響きに、胸が小さく震えた。
『お時間をいただき、ありがとうございます』
「いえ……こちらこそ」
落ち着いた話し方で、どこか大人びている。
『「温もりの在処」、何度も聴きました。
とても心に残る曲ですね』
「……ありがとうございます」
その言葉の奥に、僕は微かな孤独を感じ取っていた。
『一緒に、デュエット曲を作りたいんです』
「デュエット……」
『はい。あなたの透明な声と、僕の低音。
きっと、夜明けみたいな音になると思うんです』
夜明け――。
その言葉が、胸の奥で小さく灯った。
「……やってみたいです」
『本当ですか? 嬉しいです』
彼の声が、少しだけ明るくなる。
『明るくて、でも少し切ない。
希望みたいな曲を』
「希望の歌……」
そのとき、心音さんがそっと僕の肩に触れ、静かにうなずいた。
「……わかりました。作ってみます」
『ありがとうございます。楽しみにしています』
──テーマは「希望」。
明るさの中に、ほんの少し寂しさを隠した旋律。
「タイトル、どうしようか」
「星降る夜に……なんてどう?」
「……いいね」
手の届かない光を、二人で見上げるような歌。
タイトルは「星降る夜に」。
一週間後、曲は完成した。
デモを送ると、すぐに返信が届く。
『素晴らしい曲ですね。
来週の金曜日、配信で一緒に歌いませんか?』
金曜日の夜。
画面の向こうで、リクのアバターが微笑む。
黒髪に鋭い瞳。静かな闇を背負った姿。
『こんばんは。星野リクです』
コメント欄が一気に流れ出す。
『今夜は特別ゲスト、Re:Voiceさんをお迎えしています』
「こんばんは、Re:Voiceです」
“声が綺麗すぎる”
“本物だ……”
“泣きそう”
音楽が流れ出した。
──透き通る僕の声と、リクの低音。
重なるたび、夜が淡く溶けていく。
高音を伸ばした瞬間、息が少し苦しくなる。
喉の奥に違和感が走る。
それでも、歌は止めなかった。
音が終わった瞬間、
コメント欄は感動の言葉で埋め尽くされた。
配信後、部屋に静けさが戻る。
「零くん……すごかったね」
「……ありがとう」
身体が、少し重い。
スマホにリクからのメッセージが届いた。
『また一緒に歌いたいです』
「……仲間ができた気がする」
「よかったね。でもね」
心音さんが、僕の頬に触れる。
「零くん、少し無理してる」
「……うん」
「壊れちゃったら、意味がないよ」
その言葉が、胸に深く沈んだ。
「……少し、休む」
「うん。それでいい」
僕は心音さんを抱きしめた。
──音楽よりも、大切なものがある。
このぬくもりだ。
その夜、月明かりの中で眠りにつく。
確かな想いを胸に。
無理をせず、焦らず。
自分のペースで。
星降る夜の下で。
リクとのコラボから、一ヶ月が過ぎた。
あの夜の余韻がまだ胸に残る中で、僕の元には次々と新しいオファーが届いていた。
楽曲提供の依頼。
別のVTuberからのコラボオファー。
配信ライブへの出演の誘い。
どれも、胸をときめかせるような話ばかりだった。
気づけば、僕は毎日のようにパソコンの前に座り、音の海に沈んでいた。
「零くん、紅茶入れたよ」
心音さんがそっと、僕の隣にカップを置いた。
湯気が小さく揺れる。
「ありがとう……」
視線を画面から離さずに、答える。
新しい曲の締め切りは、明後日。
時間は、砂のように指の隙間からこぼれていく。
「無理しないでね」
「うん……」
彼女の足音が遠ざかっていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
最近、心音さんと過ごす時間が減っていた。
朝起きて、すぐに作業。
昼も夜も、ただ音を並べては削る。
気づけば、時計の針はいつも深夜を指していた。
心音さんは何も言わない。
いつも微笑んで、「頑張ってね」と言ってくれる。
その優しさに、甘えていた。
でも、僕の体は少しずつ悲鳴を上げ始めていた。
肩が重い。首が痛い。
目の奥がずっと熱くて、時々視界がぼやける。
「大丈夫……まだ、大丈夫」
そう自分に言い聞かせながら、キーボードを叩き続けた。
その夜。
トイレへ向かう途中、リビングを通りかかると、灯りの落ちた部屋の中で、心音さんがソファに座っていた。
テレビもついていない。
スマホも見ていない。
ただ、窓の外の夜を見つめていた。
「……心音さん?」
声をかけると、彼女は少し驚いたように振り返る。
「あ、零くん。どうしたの?」
「トイレに……」
「そっか」
小さく笑う。
その笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
トイレを済ませて戻ると、心音さんはまだ同じ場所に座っていた。
「心音さん」
「ん?」
「一緒に、寝ない?」
「零くん、まだ仕事あるんじゃないの?」
「……少し休憩する」
隣に腰を下ろすと、心音さんが小さく息を呑んだ。
「零くん……」
「ごめん」
俯きながら言う。
「最近、心音さんと全然話せてなかった」
「大丈夫だよ。零くん、忙しいんだから」
心音さんは優しく笑う。
でも、その笑顔が、胸に刺さった。
「ごめん……僕、調子に乗ってた」
「え?」
「オファーが来るのが嬉しくて、全部受けようとしてた。でも、心音さんのこと、ちゃんと見てなかった」
目の奥が熱くなる。
涙がこぼれた。
「さっき、ひとりで寂しそうにしてるの、見ちゃって……」
心音さんは何も言わず、僕を抱きしめた。
「謝らないで」
その声が、あたたかくて、痛いほど優しかった。
「でも……」
「謝らないで」
心音さんがもう一度言う。
「零くんが頑張ってるの、知ってるから」
少しの沈黙。
「でもね、少し寂しかったのは、本当」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「ごめん……」
心音さんが微笑む。
「寂しかったけど、嬉しかったよ。零くんが自分の道を歩いてるの、見てて」
その笑顔が、涙で滲んだ。
「ただ、たまには……二人だけの時間も欲しいな」
「……うん」
僕は心音さんを抱きしめた。
小さな体に、確かな温もりがあった。
「ごめん。ちゃんと時間、作る」
「ありがとう」
抱き合ったまま、しばらく動けなかった。
心音さんの温もりが、疲れ切った僕の心に染みていく。
翌日。
僕たちは真剣に話し合った。
「週に二日は、二人だけの日にしよう」
僕が提案すると、心音さんは驚いた顔をした。
「仕事をしない日。メールも、見ない日」
「本当に?」
「うん。心音さんとの時間、大切にしたいから」
その言葉に、心音さんの瞳が揺れた。
「零くん……ありがとう」
手を握り合う。
約束を交わすみたいに。
曜日を決めた。水曜日と日曜日。
この二日間は、二人のための時間。
「じゃあ、日曜日はどこ行こう?」
「心音さんの行きたいところに」
「……じゃあ、水族館!」
「水族館?」
「うん。前から行きたかったの」
その笑顔を見て、僕も笑った。
その週の金曜日。
カウンセリングの後。
先生の言葉が、まだ胸の中に残っていた。
「誰かに必要とされることは、素晴らしい。でもね、すべてに応えようとしなくていいんです」
「水無月さんが本当にやりたいこと、そして、守りたい人を、大切にしてください」
「それと、体のサインを無視しないでください。疲れを感じたら、ちゃんと休む。水無月さんの体は、あなたにしか守れませんから」
診察室を出ると、心音さんが待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
並んで歩く帰り道。
街の風が少し冷たい。
「先生、なんて?」
「バランスが大事だって。仕事も大事だけど、心音さんとの時間はもっと大事だって。あと、無理しすぎないでって」
僕は心音さんの手を握った。
その手が、そっと握り返してくる。
それから、僕は少しずつ活動をセーブした。
届くオファーを、すべて受けるのではなく。
本当に心が動くものだけを、選ぶようになった。
ある日、有名アーティストからのコラボ依頼が来た。
けれど、僕は断った。
『お誘いいただき、ありがとうございます。今は、自分のペースで活動したいと思っています』
「零くん、断ったの?」
「うん……今は、無理したくないから」
「そっか。……零くん、成長したね」
「心音さんのおかげだよ」
抱き寄せると、心音さんの髪がかすかに揺れた。
そして、日曜日。
二人だけの日。
「わあ……綺麗!」
心音さんが大水槽の前で立ち止まった。
光の粒が水面で揺れ、魚たちが幻想のように泳いでいる。
僕は水槽よりも、目を輝かせる心音さんを見ていた。
「イルカショーも見に行こう」
「うん!」
仕事のことは、一切考えなかった。
メールも、締め切りも、忘れていた。
ただ、心音さんと笑い合うことだけに、全ての意識を預けていた。
肩の重さも、首の痛みも、少し軽くなった気がした。
「零くん、見て! ペンギン、かわいい!」
「ほんとだ」
笑い声が水槽に反射して、青い光の中で溶けていった。
その光景が、なぜか少し切なくて、でも、誰よりも愛しかった。
帰り道。
「今日、楽しかった」
「僕も」
「また来ようね」
「うん」
夕暮れの風が頬を撫でる。
指先をつないだまま、ゆっくりと歩く。
「零くん、ありがとう。今日、休んでくれて」
「当たり前だよ。約束したから」
「それに……零くんの顔、少し明るくなった気がする」
「そう?」
「うん。最近ずっと疲れてたから、心配してた」
僕は立ち止まり、心音さんを抱きしめた。
「ごめん。心配かけて」
「ううん。今日みたいに、笑ってくれたら、それでいいよ」
微笑み合う。
その一瞬が、永遠のように感じられた。
その夜、僕は声日記を録音した。
「最近、忙しくて、心音さんとの時間が減ってた。体も、正直つらかった」
少し間を置いて、続ける。
「でも、改めて気づいた。僕にとって一番大切なのは、心音さんと過ごす時間だ」
「仕事も大事。でも、愛する人との時間はもっと大事。無理をせず、バランスを取りながら、歩いていきたい」
録音を止めて、ベッドに入る。
隣では、心音さんが穏やかな寝息を立てていた。
その寝顔を見つめながら、静かに思った。
──この人を、幸せにしたい。
音楽も、夢も、大切。
でも、それ以上に。
この”今”を。
この”ぬくもり”を。
守りたい。




