第35話 自信のなかった僕が、『春めく月の恋』を世に届けて音楽の世界に踏み出すまで
その日から、僕たちは曲作りに没頭した。
テーマは「春の恋」。
切なくて、それでいて胸の奥まで温かくなるような曲。
「どんな曲にしようか」
ギターを手に取り、そっと弦に触れる。
ポロン、と静かな音が部屋に広がった。
ここは心音さんの部屋。
そして今は、僕たち二人だけの小さな世界だ。
「桜が舞う夜に、二人で寄り添って歩くみたいな……」
優しくて、少し儚い音色。
「どんな恋の歌がいいかな」
隣に座った心音さんが、静かに問いかける。
「白石美月さんって、どんな人なんだろう」
「20歳の新人で、透明感のある声だって佐藤さんが言ってた」
「じゃあ、透明感のある曲がいいね。でも――」
心音さんは少し考えてから続ける。
「ただ綺麗なだけじゃなくて、春の訪れと、新しい恋の予感。
両方感じられるような」
僕はうなずき、コードを確かめる。
優しくて、どこか切ない響き。
「いいね。でも……もう少し温かさが欲しいかも」
言われて、コード進行を少し変えてみる。
「……こうかな」
「うん、それ!」
心音さんの瞳が、ぱっと輝いた。
「まだ寒い季節だけど、二人でいるから温かい。そんな感じ」
指を弦に馴染ませながら、メロディーを探す。
高すぎず、低すぎず。
透明感があって、それでいて芯のある旋律。
――あ、来た。
自然と口から、歌がこぼれる。
「♪ 春めく夜に 月が照らす道を――」
「いい……すごくいい!」
心音さんが小さく手を叩く。
Aメロは静かに。
Bメロで、少しずつ気持ちが高まっていく。
「♪ 温もりを求めて 手を伸ばせば――」
「そう、それ! そのままサビ行こ!」
ギターと歌声が重なり、部屋の空気を満たす。
「零くん……」
心音さんの目が、潤んでいた。
「すごく、いい曲」
「……まだ途中だけど」
「ううん。もう、完成が見えるよ」
そこからは、時間を忘れて曲と向き合った。
歌詞を直して、コードを微調整して。
「ここ、『聞こえてくる』より『響いてくる』の方がいいかも」
「じゃあ、そうしよう」
「サビの最後、『それだけでいい』だと少し切ないね」
「……『それだけで幸せ』は?」
「うん、それ!」
気づけば、窓の外がうっすら明るくなっていた。
「零くん、お腹空いてない?」
「……ちょっと」
「カップラーメンでいい?」
湯気の立つ音が、静かな夜に溶けていく。
そして――
最後まで、歌い切った。
一番、二番、サビ、間奏、最後のサビ。
音が消え、静寂が落ちる。
「……完成、かな」
「……うん。完成だと思う」
心音さんは涙を浮かべて、僕を見つめていた。
「零くん、本当にすごい。こんな素敵な曲」
「心音さんが一緒に考えてくれたからだよ」
「違うよ。零くんの才能。私は、そばで見てただけ」
抱き合ったまま、しばらく動けなかった。
「……デモ、録ろうか」
スマホの録音ボタンを押す。
僕の声とギターが、春を待つ夜に溶けていく。
「……いい曲だね」
「うん」
この儚くて、温かい時間が、胸の奥に刻まれていく。
明日、この曲は誰かの元へ届く。
でも今、この瞬間は――
僕たちだけのものだ。
「おやすみ、零くん」
「おやすみ、心音さん」
抱き合ったまま、眠りについた。
――「春めく月の恋」。
二人で生んだ、最初の曲。
期待と不安を抱えながらも、
僕は確かに、温もりに包まれていた。
一週間後。
今日は、楽曲のレコーディング当日だった。
僕と心音さんは、並んでパソコンの前に座っている。
画面の向こうには、遠く離れたスタジオの様子が映し出されていた。
防音室の中央。
マイクの前に立っているのは、一人の女性。
白石美月。
長い黒髪に、透き通るような雰囲気をまとった人気シンガーだ。
『Re:Voiceさん、こんにちは!』
美月が画面に向かって、少し緊張したように手を振る。
「……こんにちは」
僕は、思わず声が震えた。
『あの……Re:Voiceさんの曲、本当に素敵です。歌えること、すごく嬉しくて』
「ありがとうございます……」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
『それじゃ、いきますね』
美月が軽く息を整え、合図とともに音楽が流れ始めた。
僕が作ったメロディー。
僕が書いた歌詞。
それが、美月の声に乗った瞬間——
まるで別の命を与えられたみたいに、空気が変わった。
透明で、儚くて、それでいて優しい声。
「春めく月の恋」の世界が、確かに息づいていく。
『春めく夜に 月が照らす道を』
『二人で歩いた あの日のように』
『温もりを求めて 手を伸ばせば』
『あなたがここにいる それだけで幸せ』
画面越しなのに、すぐそばで歌われているみたいだった。
僕は息を忘れ、ただ聴き入る。
隣を見ると、心音さんがそっと涙を拭っている。
やがて曲が終わり、静寂が訪れた。
『……どうでしたか?』
不安そうな美月の声。
「素晴らしかったです」
震えながらも、正直な気持ちを口にする。
「想像していた以上でした。本当に……」
『本当ですか! ありがとうございます!』
美月の笑顔が、画面越しでも眩しかった。
そこへ、プロデューサーの佐藤さんが顔を出す。
『Re:Voiceさん、ありがとうございました。素晴らしい楽曲です』
「こちらこそ……ありがとうございます」
通話が終わり、僕は大きく息を吐いた。
「零くん……」
心音さんが、そっと僕を抱きしめる。
「零くんの曲、また新しく生まれ変わったね」
「……うん」
僕も、静かに抱き返した。
自分の曲が、他の誰かの声で歌われる。
不思議で、少し切なくて——
でも、胸の奥が温かくなる。
僕の音楽が、生きている。
それから二週間後。
「春めく月の恋」は、ついに配信された。
作詞・作曲:Re:Voice
歌:白石美月
僕と心音さんは、並んでスマホの画面を見つめている。
再生数が少しずつ増え、コメント欄が賑わっていく。
『美月ちゃんのデビュー曲、最高!』
『作詞作曲、Re:Voice!?』
『泣いた……春の恋って感じ』
『声と曲の相性、良すぎる』
「零くん、見て……」
心音さんの声が、震えている。
「配信チャート、10位……」
「え……?」
信じられなかった。
リリースから、まだ一日も経っていないのに。
そのとき、スマホが震えた。
佐藤さんからのメッセージだ。
『Re:Voiceさん! 大ヒットです! 本当におめでとうございます!』
視界が滲んだ。
気づけば、涙がこぼれていた。
「心音さん……」
「うん」
心音さんも、そっと涙を拭う。
「零くんの曲、たくさんの人に届いたね」
「……うん」
僕たちは、強く抱き合った。
初めて提供した曲。
誰かに歌われ、誰かに聴かれ、受け入れられた。
嬉しくて、少し切なくて。
でも、確かに幸せだった。
「零くん」
心音さんが、まっすぐ僕を見つめる。
「これが、始まりだね」
「……うん」
小さな一歩。
でも、確かな一歩。
「これからも、一緒に?」
「当たり前でしょ」
心音さんの瞳が、優しく揺れる。
「ずっと、そばにいるよ」
僕たちは、静かにキスを交わした。
その夜、僕は声日記をつけた。
「今日、初めて提供した曲がリリースされた。『春めく月の恋』。心音さんと一緒に作った曲だ」
少し間を置き、息を整える。
「自分の曲が、他の人に歌われるのは不思議だった。でも、すごく温かくて……嬉しかった」
声が、少し震える。
「これが、僕の新しい一歩。小さいけど、確かな一歩」
深く息を吸う。
「心音さんがいるから、前に進める。これからも、一緒に歩いていきたい」
録音を止め、ベッドに潜り込む。
隣では、心音さんが静かに眠っている。
その寝顔を見つめながら、思う。
この人と出会えて、本当によかった。
この人がいるから、僕は歌える。
ずっと——
一緒に。




