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誰にも届かなかった僕の声が、君にだけ響いた。  作者: ひとひら


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第34話 表舞台が怖い僕は、恋人の隣で楽曲提供から音楽の道を歩き始めました

佐藤さんからの電話から、数日が経った。

けれど僕は、まだ答えを出せずにいた。


プロになるかどうか。

その選択は、今の僕にはあまりにも重かった。


翌朝。

いつものように、心音さんの腕の中で目を覚ます。


「おはよう、零くん」


「……おはよう」


心音さんは、安心させるみたいに柔らかく微笑んだ。


「よく眠れた?」


「……あんまり」


正直に答える。

昨夜も、同じ考えが頭の中を何度も巡っていた。


「そっか」


心音さんは僕の頬に触れ、穏やかに言った。


「今日は、何も考えない日にしよ」


「え?」


「ほら、起きて。朝ごはん作るから」


そう言ってベッドを抜け出す背中を見送り、僕もゆっくり体を起こした。


リビングには、卵焼きの甘い匂いが広がっている。

トーストが焼ける音が、やけに心地いい。


「零くん、コーヒーと紅茶、どっちがいい?」


「……コーヒー」


「はーい」


その声を聞くだけで、少しだけ胸が落ち着く。


この日常が、好きだ。

特別なことは何もないけれど、失いたくない時間だった。


朝食を向かい合って食べ終えると、心音さんが言った。


「今日、予定ある?」


「……特にない」


「じゃあ、お散歩行こ」


「散歩?」


「最近、部屋にこもってばっかりでしょ」


その声には、さりげない気遣いが滲んでいた。


午後。

コートを着て、公園へ向かう。


冬の空は澄んでいて、どこか遠い。

手を繋ぐと、冷えた指先に心音さんの温もりが伝わってくる。


「寒くない?」


「大丈夫。心音さんがいるから」


「もう、そればっか」


そう言って笑う横顔が、少しだけ赤かった。


公園には、穏やかな時間が流れていた。

犬を連れた人、家族連れ、並んで歩くカップル。


この平和な景色の中で、僕は自分の悩みが急に大きく感じられた。


「ねえ、零くん」


「なに?」


「最近、ずっと悩んでるよね」


「……うん」


隠す意味もなかった。


「プロになるかどうか、でしょ?」


「……まだ、答えは出てない」


俯いた僕の肩に、心音さんの手がそっと置かれる。


「どうして、そんなに怖いの?」


「……生活が変わるかもしれないから」


そして何より、

心音さんと過ごす時間が減るかもしれないことが怖かった。


「ふふ」


「なに?」


「優しいなって思って」


「……」


「私のこと、考えてくれてるんだよね」


「当たり前だよ」


心音さんは、真っ直ぐ僕を見て言った。


「でもね、私のことは気にしないで」


「え……?」


「零くんがやりたいこと、やって」


その言葉は、迷いなくて、強かった。


「私は、零くんが幸せなら、それでいい」


胸が熱くなって、言葉が出なくなる。


「私、零くんの歌が好きなの。

歌ってるときの顔も、全部」


「……」


「楽しそうで、真剣で、すごく輝いてる」


だから、と心音さんは続ける。


「もっとたくさんの人に、聴いてほしい」


「……心音さん」


「二人の時間も大事。

でも、夢を諦めてまで一緒にいる必要はないよ」


「私は、ずっとそばにいるから」


抱きしめ合うと、冷たい風の中でも不思議と寒さは感じなかった。


「ゆっくり考えよ」


「……うん」


その夜。

ベッドの中で、互いの体温を確かめながら眠りにつく。


「おやすみ、零くん」


「おやすみ、心音さん」


窓の外では、雪が静かに舞っていた。


答えは、まだ出ていない。

それでも今は、この温かい時間を大切にしたい。


儚くて、切なくて、

それでも確かな、二人だけの夜だった。




それから数日後、雪解けの始まった休日。

心音さんと公園を散歩し、残る雪を見つけては、少しだけ雪合戦をした。


「待って、心音さん。それ、ずるいよ」


「だって今、零くん隙だらけだったんだもん」


冷たい雪に頬を赤く染めながら、子供みたいに笑い合う。

僕はこの瞬間を、そっと胸に刻んだ。


「もう、子供みたい」


「心音さんだって、楽しそう」


特別な日ではない。

けれど、二人だけの世界は、宝石みたいに光っていた。



その夜。

ベッドで抱き合いながら、僕は静かに口を開いた。


「心音さん」


「ん?」


「……決めた」


心音さんが、少しだけ身を起こして僕を見る。


「プロになること?」


「……まだ、そこまではいってない」


一度、息を整えてから続けた。


「でも、まずは小さく始めてみたい」


「小さく?」


「うん。楽曲提供だけ、やってみようと思う」


言葉にした瞬間、胸の奥にあった不安が、少しだけ軽くなった。


「いきなり前に出るのは怖い。

でも、裏方として音楽に関わるなら……できる気がするんだ」


心音さんは、安心したように微笑んだ。


「いいと思う。零くんらしいよ」


「……ありがとう」


「一歩ずつ、だね」


心音さんの指先が、そっと僕の頬に触れる。

その温もりが、胸の奥まで染み込んでいった。


「焦らなくていいよ」


「うん」


僕はそのまま、心音さんを抱きしめた。


――明日、佐藤さんに連絡しよう。

そう、心に決めた。


翌日の夕方。

僕はパソコンの前で、ゆっくりとメールを打った。



佐藤様

お世話になっております。Re:Voiceです。

先日のお話、真剣に考えました。

まず、楽曲提供からやってみたいです。

デビューは、もう少し考えさせてください。

いきなり大きく始めるのではなく、小さく、自分のペースで進めたいと思っています。

それでもよろしければ、ご相談させてください。


Re:Voice



送信ボタンを押す。


「……送った」


隣で見ていた心音さんが、優しく笑う。


「うん。よく頑張ったね」


その直後、返信が届いた。


Re:Voice様

ご連絡ありがとうございます!

もちろん、問題ありません。

Re:Voiceさんのペースで、進めましょう。

実は、ちょうどいいタイミングで。

弊社所属の新人女性シンガー、白石美月のために

曲を探していたところなんです。

明日、お電話でお話ししませんか?


佐藤



「明日……」


画面を覗き込んだ心音さんが言う。


「早いね」


「うん……」


胸の奥で、また緊張が小さくうずいた。

それでも、もう逃げないと決めた。


「大丈夫。私がいるから」


心音さんが、ぎゅっと手を握ってくれる。


翌日の夕方。

約束の時間、僕と心音さんは並んでパソコンの前に座っていた。


佐藤さんからの着信。

深呼吸して、通話ボタンを押す。


「もしもし、Re:Voiceです」


『こんばんは! ご連絡ありがとうございます』


明るい声に、少しだけ肩の力が抜けた。


「こちらこそ……」


『楽曲提供から始めたいとのこと、素晴らしい判断だと思います』


『それで、白石美月について説明させてください』


「はい」


『彼女は20歳の新人シンガーです。

透明感のある声で、バラードが得意』


佐藤さんが熱を帯びて語る。


『実は、Re:Voiceさんの「温もりの在処」を聴いて、

彼女が「こういう曲を歌いたい」と言ってきたんです』


「そうなんですか……」


『はい。だから、Re:Voiceさんに曲を書いていただけたら、

きっと彼女にぴったりだと思って』


少し緊張して尋ねる。


「どんな曲がいいですか?」


『そうですね……』


佐藤さんが少し考える。


『テーマは「春の恋」。切なくて、でも温かい。そんな曲がいいです』


「春の恋……」


『期限は、2週間後でいかがですか?』


「2週間……」


短い。

でも、心の奥で小さな決意が火を灯す。


「……やります」


そう答えた瞬間、胸の奥に小さな火が灯る。


『ありがとうございます!』


『今回は新人アーティストのデビュー曲になりますので、

楽曲提供料として五十万円を予定しています』


「……五十万」


思わず声が裏返った。


『それと、ヒットした場合は印税も入ります』


頭が追いつかない。


『レコーディングにも、オンラインで立ち会っていただけますか?』


「……わかりました」


通話を終えたあと、しばらく言葉が出なかった。


「零くん、すごいよ!」


心音さんが、無邪気に目を輝かせる。


「本当に五十万円なんだね……!」


「……信じられない」


頭を抱える僕の手を、心音さんがそっと包む。


「でも、曲……ちゃんと作れるかな」


「大丈夫。零くんなら」


「……一緒に作ろう?」


「うん」


窓の外には、冬の終わりを告げる静かな夜。


心音さんと一緒に、新しい未来へ踏み出す。

この夜の決断を、僕はきっと忘れない。




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