第32話 僕のすべてを注いだ歌は、君のためだけの光だった。ラジオ出演で一変した日常と、二人で踏み出す新しい朝
田中さんが、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「本当に素晴らしかったです。来週の放送、楽しみにしていてください」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた胸の奥が、ふっと緩んだ。
「ありがとうございました……」
声が少し震える。
通話が切れたあと、僕は椅子にもたれかかり、大きく息を吐いた。
「……終わった」
その直後、背後から温かな体温が伝わってくる。
「零くん!」
心音さんが、ぎゅっと僕を抱きしめてくれた。
安心した途端、堪えていた震えと涙が一気に溢れる。
「すごかったよ。本当に」
彼女の声も、少し震えていた。
「……ちゃんと歌えてた?」
不安を隠しきれずに聞くと、心音さんはすぐに頷く。
「うん。零くんの歌、すごくよかったよ。話し方も、真っ直ぐで……零くんらしかった」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……よかった」
僕も、そっと抱きしめ返した。
「怖かった。でも、心音さんがいてくれたから」
「うん」
短い言葉を確かめ合うように交わし、しばらくそのままでいた。
初めてのラジオ出演。
ずっと胸に抱えていた不安と期待。
それが、ようやく一つの形になった気がした。
「ね、お祝いしようよ」
心音さんが微笑む。
「ケーキ、買ってあるんだ」
「え?」
「零くん、頑張ったから」
冷蔵庫から出てきた小さなショートケーキを見て、喉の奥が熱くなる。
「……ありがとう」
「おめでとう、零くん」
一口食べると、甘さがゆっくり広がった。
幸せで、少しだけ切なくて、不思議と心に残る味だった。
「来週、放送されるんだよね」
「……うん」
期待と一緒に、不安も顔を出す。
「どんな反応、来るかな」
「きっと大丈夫」
心音さんは、まっすぐ僕を見た。
「零くんの声、好きになる人は絶対いるよ」
「……そうだといいな」
小さく笑って、そう答えた。
一週間後、金曜日の深夜。
僕と心音さんはベッドに並んで座り、スマホを覗き込んでいた。
午前零時。
『Midnight Voice』の放送が始まる。
田中さんの声に続いて、スピーカーから流れる自分の声。
「……こんばんは。Re:Voiceです」
恥ずかしさで胸が熱くなる。
でも、心音さんがそっと手を握ってくれた。
その温もりが、僕を落ち着かせてくれる。
放送は進み、僕の歌が流れる。
「温もりの在処」。
心音さんが、静かに涙を拭った。
「……やっぱり、いい歌」
「……ありがとう」
午前一時。
約一時間の放送が終わった。
スマホが震え続ける。
通知、コメント、フォロー。
Harmoniaのコメント欄は、想像以上の速さで流れていく。
『生歌すごかった』
『声が優しくて泣いた』
『また聴きたい』
『応援します』
フォロワー数が、一気に増えていく。
「……すごい」
言葉を失う僕の横で、心音さんが目を輝かせる。
「零くん、トレンド入ってるよ!」
画面には
#ReVoice
#MidnightVoice
の文字。
胸がいっぱいになり、視界が滲む。
「……届いてるんだ」
「うん。ちゃんと、届いてる」
心音さんが、強く僕を抱きしめた。
「すごいよ、零くん」
「……ありがとう」
嬉しくて、怖くて、それでも確かに幸せで。
僕は彼女の胸の中で、静かに泣いた。
「零くん」
「ん?」
「これからも、歌おうね」
「……うん」
僕は彼女を見つめる。
「心音さんがいてくれるなら」
「ずっと、そばにいるよ」
静かにキスを交わす。
窓の外は、冬の夜明け前の淡い光。
新しい朝。
新しい始まり。
僕の歌は、確かに誰かの心へと広がっていった。
この胸に灯った温もりと一緒に。
ラジオ出演から、数日が過ぎた。
部屋の照明は落とされ、カーテン越しに夜の街の灯りが滲んでいる。
窓辺に立って外を見下ろすと、冷たく澄んだ夜の空気が伝わってきた。
霜に覆われた舗道が、街灯を受けて淡く光っている。
その光を見ていると、寂しさが込み上げる。
フォロワーは三万人を超え、コメント欄は毎日、温かな言葉で溢れていた。
それでも、スマホの画面を閉じた部屋の静けさの中では、
数字の向こうにいる誰かの心までは、どうしても掴めない気がした。
本当に、この歌を出していいのだろうか。
ベッドの端に腰を下ろし、手の中のスマホを見つめる。
心音さんだけのために作った歌。
それを世界に晒すことに、胸の奥がざわついていた。
「……心音さん」
静まり返った部屋に、僕の声だけが小さく落ちる。
「ん? どうしたの?」
声が耳に届いた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛む。
彼女の声はいつも柔らかくて、でも僕には痛いほど強い光のように感じられる。
「……あの歌のこと」
少し躊躇い、唇を噛む。
心臓が跳ね、手のひらが汗ばんでいる。
あのクリスマスの夜、心音さんの笑顔だけを想って歌った歌。
――僕のすべてを注いだ歌。
それを、世界に出すなんて、僕にはまだ怖かった。
「『君がくれた光』。投稿しようか、迷ってて」
心音さんはソファに腰を下ろし、静かに僕の隣に座った。
部屋の中の淡い間接照明が、彼女の輪郭を柔らかく照らす。
「どうして迷ってるの?」
問いかけられると、心が痛む。
「だって……あれは、心音さんだけの歌だから」
俯き、指先で布団をもみながら、僕は小さな声で言った。
僕の歌は、誰にも触れてほしくなかった。
心音さんだけの特別なものだったから。
静かな沈黙が、部屋を満たす。
その間にも、心臓の鼓動は僕の耳を叩き、手のひらの汗は布団を濡らしていく。
心音さんがそっと、僕の手を包んだ。
その温もりに、→ 心の奥の氷が溶けていく。
「でもね、零くん」
彼女の声は、冬の夜に落ちる柔らかい雪のようだった。
「私、みんなに聴いてほしい」
「え……?」
小さな迷いが生まれる。
この歌は、僕たちだけのものじゃなかったのだろうか。
でも、同時にその言葉が、心を少し解き放つようでもあった。
「『君がくれた光』は、確かに私の宝物。
でも、あの歌に込められているのは、“誰かに救われた喜び”と、“生きたいと思えた希望”でしょ?」
僕の視線が揺れる。
彼女の瞳に映るのは、僕たちだけではない。
孤独に震える誰か、助けを求める誰か。
その人たちに届く光――
僕は、そのことを考えたことがなかった。
「それは、私だけのものじゃない」
言葉は静かだけど、胸に深く刺さった。
「誰かにとっての光にも、なれるかもしれない」
涙が、無意識に滲む。
自分の小さな世界の中で守ろうとしていた歌が、誰かを支える光になれるかもしれない。
その可能性が、胸をぎゅっと締めつける。
「私たちの幸せを、分けたいの」
「……分けたい?」
「うん。独り占めじゃなくて、誰かの明日を照らす光にできたら……素敵じゃない?」
溢れる想いが、波のように押し寄せる。
幸せで、怖くて、でも愛しくて。
心音さんの存在が、僕の全てを包み込み、同時に遠くに放り出すような感覚。
「心音さん……ありがとう」
僕たちは並んでパソコンの前に座った。
クリスマスの夜に録った音源ファイルを、そっと開く。
タイトルは――
『君がくれた光』
指先が震える。
この歌が、彼女のためだけの祈りから、誰かの夜を照らす灯に変わる。
説明文を打つ。
『この歌は、大切な人へ贈った歌です。
孤独だった僕に、光をくれた人。
生きる意味を教えてくれた人。
同じように、誰かに救われた人へ。
これから、誰かと出会う人へ。
この歌が、あなたの希望になりますように』
投稿ボタンを押す。
画面の光が、部屋を淡く満たす。
――小さな祈りが、世界へ解き放たれた瞬間だった。




