第31話 誰のものでもないこの声を、君だけが愛してくれた
夜。
部屋に戻った僕たちは、並んでソファに腰を下ろした。
窓の外では、冬の街に街灯が灯り始め、淡い光がカーテン越しに部屋を照らしている。
静かだ。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「もうすぐだね」
心音さんの声が、少しだけ震えた。
「……うん」
僕の手も、落ち着かない。
胸の奥に、言葉にならない不安が広がっていく。
「大丈夫」
心音さんが、僕の手をぎゅっと握った。
「私が、そばにいるから」
その温もりが、張りつめていた心に小さな灯をともした。
午後六時ちょうど。
スマホが震え、画面に名前が表示される。
――田中。
深く息を吸い、通話ボタンを押した。
スピーカーに切り替える。
「もしもし、Re:Voiceです」
『こんばんは。田中です。今、お時間大丈夫でしょうか』
「はい、大丈夫です」
落ち着いた、やさしい声だった。
『では、詳しくお話ししていきますね』
収録方法は、オンライン。
自宅からの参加になるという。
『慣れた場所のほうが、安心できますからね』
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
日程の話になる。
「来週……ですか」
思ったより早い。
不安が、胸の奥でざわつく。
でも、迷っても答えは変わらない。
「……来週で、大丈夫です」
『では、金曜日の夜で』
「わかりました」
声は少し震えていたけれど、はっきり答えた。
話は進み、内容の確認に入る。
「生歌……」
その言葉が、胸に重く響く。
怖い。
それでも、挑戦すると決めた。
『話したいことだけで大丈夫です。本名や年齢も伏せたままで構いません』
少しだけ、救われた気がした。
電話を切ったあと、部屋には静けさが戻った。
僕は大きく息を吐く。
「零くん、お疲れ様」
心音さんが、そっと抱きしめてくれる。
「来週、だって」
「うん。早いね」
「……怖い」
正直な気持ちが、口からこぼれた。
「でも、やるって決めた」
心音さんが、僕の顔を両手で包む。
「零くん、すごいよ」
その言葉に、胸が熱くなる。
「ありがとう……心音さん」
僕たちは、しばらく何も言わずに抱き合った。
「来週まで、練習しよう」
「うん」
「話すことも、歌も、一緒に」
「……当日も、そばにいてくれる?」
「もちろん。画面には映らないけど、隣にいるよ」
その一言で、胸が少し軽くなった。
一週間後。
初めてのラジオ出演。
怖い。
それでも、心音さんがいる。
――それだけで、前に進める気がした。
その夜、僕は声日記を録音した。
「来週、ラジオに出ることになった。
すごく怖いけど、挑戦してみる」
少し間を置いて、続ける。
「心音さんが、ずっとそばにいてくれる。
だから、大丈夫だと思う」
録音を止め、ベッドに横になる。
心音さんの温もりが、静かに寄り添う。
怖いけれど。
この先には、きっと何かがある。
そう信じながら、僕は目を閉じた。
一週間が、静かに過ぎていった。
その間、僕と心音さんは毎日、少しずつ準備を進めていた。
何を話すか。
どの歌を歌うか。
声の調子を整えること。
不安は消えなかったけれど、一人じゃないと思えるだけで、心は少し楽になった。
そして、金曜日の夜。
午後七時。
僕は震える指で、パソコンの前に座った。
画面には、通話アプリの待機画面。
窓の外は、冬の冷たい空気に包まれている。
心音さんが、そっと紅茶を差し出してくれた。
「零くん、飲む?」
「……うん」
湯気の立つ紅茶の香りが、張り詰めた胸を少しだけ緩めてくれる。
「大丈夫。ずっとそばにいるよ」
その言葉に、僕は小さく頷いた。
午後八時。
通話がつながる。
「こんばんは。Re:Voiceです」
声が震えるのが、自分でもわかった。
田中さんは穏やかな表情で、番組の流れを説明してくれる。
緊張で胸は苦しいままだけれど、その奥に、かすかな光があった。
自己紹介の時間になる。
「僕はRe:Voiceです。匿名で歌を投稿しています」
一度、息を整える。
「理由は……怖かったからです。顔を見られるのも、表に出るのも」
胸の奥が、ひんやりと冷える。
「でも、伝えたかった。孤独な人に、一人じゃないって」
心音さんが、そっと僕の手を握ってくれる。
「僕自身、ずっと孤独でした。愛されず、居場所がなくて……」
言葉にするたび、過去が胸を締めつける。
「でも、大切な人に出会いました。その人が、僕に居場所をくれたんです」
画面の向こうで、田中さんが静かに頷いている。
「だから、歌いたい。希望を届けたい」
小さく息を吸って、続けた。
「一人じゃない。前に進みたい」
少しの沈黙のあと、田中さんが言った。
『では最後に、一曲歌っていただけますか?』
「……はい」
心臓の音が、耳の奥で響く。
手のひらには汗がにじんでいた。
でも、隣の心音さんが小さく頷くのが見えた。
――大丈夫。
そう、自分に言い聞かせる。
「『温もりの在処』を歌います」
『お願いします』
目を閉じる。
深く息を吸う。
一人だった夜。
誰にも必要とされないと思っていた日々。
冷え切った部屋で、ただ時間が過ぎるのを待っていた頃。
でも――
心音さんと出会って、世界は変わった。
そのすべてを、声に乗せる。
最初の音。
「あ……」
震えている。
それでもいい。
これは、僕の本当の声だから。
静かな部屋に、低く柔らかな旋律が流れ出す。
男性とも女性とも言えない、中性的な響き。
弱々しいのに、芯のある声が、一音ずつ胸に届く。
孤独を歌うと、声は自然と深く沈んでいく。
暗い底へ潜っていくような感覚。
それでも濁らず、透明なまま、痛みだけが素直に声に滲んでいく。
――誰も見ていない部屋で
――息を潜めて生きていた
――声を出すことさえ怖くて
――ただ、静かに消えたかった
心音さんと一緒に作ったメロディーに、僕自身の言葉が溶けていく。
画面の向こうで、田中さんが目を閉じ、静かに耳を傾けている。
隣では、心音さんが涙を拭いながら、微笑んでいた。
サビに入る。
声は少しだけ高くなるが、無理に張らない。
透明な波のように、部屋の空気へと広がっていく。
――でも君が手を差し伸べてくれた
――暗闇の中に光を灯してくれた
――温もりの在処を教えてくれた
――ここにいていいと言ってくれた
声に感情がにじむ。
それは叫びではなく、吐息に近い祈りだった。
静かだけれど、確かに心へ届いていく。
この声は、かつて閉ざされていた僕自身。
傷つき、忘れかけていた存在が、もう一度、世界に戻ってきた証だった。
二番に入ると、声の色が少し変わる。
深く、温かさを帯びていく。
――君の隣で目を覚ます朝
――「おはよう」って言ってくれる声
――当たり前じゃないこの奇跡を
――僕は一生忘れない
心音さんと過ごす朝。
それは、僕にとって消えることのない光だ。
最後のサビ。
僕は目を開け、心音さんを見る。
彼女も、まっすぐ僕を見つめ返していた。
その瞳が、静かに揺れている。
――もう一人じゃない
――君がいてくれるから
――この温もりを胸に抱いて
――明日へと歩いていける
声は少しずつ高くなる。
それでも叫ばない。
深く、静かに、透明なまま。
最後の「ありがとう」。
声は震え、涙があふれる。
それでも、僕は歌い切った。
一音一音を、確かめるように。
最後の音が、ゆっくりと消えていく。
儚く、透明で、それでも壊れない強さを残して。
静寂が戻った。
けれど、さっきまでとは違う。
胸の奥に、確かな温度が残っている。
目を開けると、頬を涙が伝っていた。
心音さんも、同じように涙を拭っている。
画面の向こうで、田中さんは静かに目を閉じていた。
長い沈黙。
誰も、すぐには言葉を見つけられない。
やがて、田中さんが震える声で言った。
『……ありがとうございました。本当に、素晴らしかったです』
「……ありがとうございます」
小さく息を吐く。
すべてを出し切ったあとの、静かな呼吸。
これは終わりじゃない。
きっと、始まりの合図だ。




