第28話 匿名歌い手の僕が心音さんと迎えた初めての新年、フォロワーが急増して人生が変わり始めた
新年の朝。
目が覚めると、心音さんがまだ眠っていた。
窓の外から、初日の出の光が差し込んでいる。
新しい年。
僕にとって、初めて誰かと迎える新年だった。
「心音さん」
そっと名前を呼ぶと、彼女がゆっくりと目を開けた。
「ん……おはよう、零くん」
「おはよう。あけましておめでとう」
「あけましておめでとう」
心音さんが微笑んで、僕の頬にキスをしてくれた。
「今年もよろしくね」
「……こちらこそ」
僕たちはしばらくベッドの中で抱き合っていた。
温かい。
幸せ。
この瞬間が、永遠に続けばいいのにと思った。
「ねえ、零くん」
「ん?」
「初詣、行こう。一緒に、新年の願い事しよう」
「……うん」
昼過ぎ、僕たちは近くの神社に向かった。
冬の空は澄んで青く、冷たい風が頬を刺す。でも、心音さんと手を繋いでいると、寒さも気にならなかった。
「零くん、寒くない?」
「大丈夫。心音さんがいるから」
「もう、そういうこと言うんだから」
心音さんが照れながら笑う。
神社に着くと、たくさんの人で賑わっていた。
家族連れ、カップル、友達同士。
みんな、新年を祝いに来ている。
「……すごい人だね」
「初詣だからね」
僕たちは列に並んだ。
ゆっくりと進んでいく列。
心音さんが僕の腕に頭を預けてくる。
「零くん」
「ん?」
「去年の今頃、零くんに出会えるなんて思ってなかった」
「……僕も」
去年の今頃。
僕は一人で、ただ生きているだけだった。
希望もなく、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
でも、今は違う。
隣に心音さんがいる。
生きる理由がある。
「出会えてよかった」
心音さんが囁く。
「……僕も」
僕は心音さんの手を強く握った。
やがて、僕たちの番が来た。
賽銭を入れて、鈴を鳴らす。
二礼二拍手一礼。
目を閉じて、願い事をする。
――心音さんとずっと一緒にいられますように。
――心音さんが幸せでいられますように。
――もっと歌が上手くなって、誰かの支えになれますように。
心を込めて、何度も願った。
目を開けると、心音さんも願い事を終えたところだった。
「何をお願いしたの?」
心音さんが尋ねる。
「……秘密」
「えー、教えてよ」
「言ったら叶わなくなるかも」
僕が笑うと、心音さんも笑った。
「じゃあ、私も秘密」
僕たちは神社の境内を歩いた。
おみくじを引いたり、お守りを見たり。
「零くん、これ」
心音さんが二つのお守りを手に取った。
「縁結びのお守り。お揃いで持とう?」
「……うん」
僕たちはお揃いのお守りを買った。
小さな、赤いお守り。
「ずっと一緒にいられるように」
心音さんが嬉しそうに言う。
「……ずっと」
僕も繰り返した。
帰り道、僕たちは公園のベンチに座った。
冬の午後の日差しが、優しく降り注いでいる。
「零くん」
心音さんが少し真剣な顔で言った。
「将来のこと、考えてる?」
「将来……?」
突然の質問に、僕は戸惑った。
「うん。これから、どうしたいかとか。歌のこととか、生活のこととか」
心音さんが僕を見つめる。
僕は少し考えた。
正直、あまり考えたことがなかった。
今を生きるので精一杯で、先のことまで考える余裕がなかった。
「……わからない」
正直に答えた。
「ただ、心音さんと一緒にいたい」
「私も。零くんと一緒にいたい」
心音さんが微笑む。
「でも、それだけじゃなくて。零くん、歌をもっと広げたいって思わない?」
「……思うけど」
僕は俯いた。
「でも、怖い。顔を出すのも怖いし、もっと注目されるのも怖い」
「……うん」
心音さんが頷く。
「でも、零くんの歌、もっとたくさんの人に届けたい。私は、そう思うの」
「心音さん……」
「零くんの歌で救われる人、きっともっといる。だから、焦らなくていいけど……少しずつ、前に進んでいけたらいいなって」
心音さんが僕の手を握る。
「私、零くんを応援したい。零くんの夢を、一緒に叶えたい」
その言葉に、胸が熱くなった。
「……僕の夢」
夢。
そんなもの、考えたこともなかった。
ただ生きていくことで精一杯だった。
でも、今は違う。
歌いたい。
もっと、たくさんの人に届けたい。
同じように苦しんでいる人たちに、一人じゃないって伝えたい。
「……わからないけど」
僕はゆっくりと答えた。
「心音さんと一緒なら、どんな未来でも」
「零くん……」
「一人じゃ無理だけど、心音さんがいてくれるなら。少しずつ、前に進めるかもしれない」
心音さんが涙を浮かべて笑った。
「ありがとう。一緒に頑張ろうね」
「……うん」
僕たちは抱き合った。
冷たい風が吹いているけれど、二人でいれば温かかった。
「ねえ、零くん」
「ん?」
「今年も、いい年になるといいね」
「……うん」
僕は心音さんを見つめた。
「心音さんがいれば、きっといい年になる」
「私も。零くんがいれば、どんな年でも幸せ」
ふたりで手を繋ぐ。
ただ、心音さんの温もりだけを感じていた。
僕たちは立ち上がった。
「……帰ろうか」
「うん」
歩き始める。
新しい年。
どんな未来が待っているかわからない。
でも、怖くない。
心音さんがいてくれるから。
「心音さん」
「ん?」
「今年もよろしくね」
「こちらこそ。今年もずっと、一緒にいようね」
「……うん」
僕たちは並んで歩いた。
冬の午後の光の中を。
新しい年の始まり。
新しい未来への一歩。
まだ不安はたくさんある。
歌をどこまで広げられるか。
顔を出す日が来るのか。
でも、それでも。
心音さんがいる限り、僕は前に進める。
一歩ずつ。ゆっくりでいい。
二人で、一緒に。
部屋に戻ると、心音さんがお茶を淹れてくれた。
「疲れた?」
「ううん。楽しかった」
僕たちはソファに並んで座った。
「零くん、今年の目標とかある?」
「目標……」
少し考えて。
「新しい曲、作りたい」
「いいね」
「それと……」
僕は心音さんを見た。
「心音さんを、もっと幸せにしたい」
心音さんが顔を赤くする。
「もう、恥ずかしいこと言わないで」
「でも、本当だもん」
僕が笑うと、心音さんも笑った。
「じゃあ、私の目標は……」
心音さんが真剣な顔で言う。
「零くんを、もっともっと幸せにすること」
「……ありがとう」
僕は心音さんを抱きしめた。
この人と一緒なら、どんな未来でも大丈夫。そう信じながら。
窓の向こう側。
新年の空が静かに広がっていた。
新しい一年が、今始まる。
一月上旬。
冬の空気は澄み、冷たく、頬に触れると針のように痛い。
街路樹の枝には霜が光り、地面にはうっすら雪が残っている。
夜になると、空気はさらに鋭く冷え、吐く息が白く消えていく。
僕はいつものようにスマホでHarmoniaを開いた。
画面を開いた瞬間、視界がざわめくような感覚に襲われた。
Re:Voice
フォロワー:8,947
「え……?」
思わず息を漏らした。
数日前まで、確か3000人くらいだったはずなのに。
指先が震える。
胸の奥がきゅっと掴まれたみたいに、じんわり熱を帯びた。
心臓が早鐘のように打ち、呼吸が少し浅くなる。
「心音さん、見て……」
ソファで本を読んでいた心音さんが顔を上げる。
「どうしたの?」
「フォロワーが、急に増えてる……」
心音さんが隣に座り、画面を覗き込む。
「本当だ。すごい!」
僕は震える指で、再生数を確認した。
名前のない歌:15,234回
温もりの在処:22,567回
「何が……何が起きてるの?」
心音さんがスマホを取り出して、検索し始める。
「あ、これだ」
心音さんが画面を僕に見せる。
そこには音楽まとめサイトの記事。
『匿名の歌い手・Re:Voiceが話題に。透明感のある声と心に響く歌詞で注目集める』
記事には、僕の曲の紹介と、コメント欄の反応がまとめられていた。
『正体不明だけど、この声は天使』
『Re:Voiceの歌を聴くと泣いてしまう』
『誰なのか知りたい。でも、知らないままでもいい気がする』
僕は息が詰まるような感覚に襲われ、視界が少しぼやけた。
嬉しいというよりも、恐怖。
「零くん、大丈夫?」
心音さんが心配そうに僕の背中をさする。
「……怖い」
正直に答えた。
「こんなに注目されるなんて、思わなくて」
「でも、零くんの歌が届いてるってことだよ」
心音さんが優しく言う。
「ほら、コメント欄見て。みんな、零くんの歌に救われてる」
僕はコメント欄を開いた。
『Re:Voiceさんの歌で、生きる勇気をもらいました』
『この声、ずっと聴いていたい』
『匿名だからこそ、純粋に音楽を楽しめる』
僕の歌を聴いて、救われている人がいる。
それは、嬉しいことのはずなのに。
でも、怖い。
もっと注目されたら、どうなるんだろう。
いつか、正体がバレてしまうんじゃないか。
その日の夕方。
冬の夕暮れは、空を朱色と藍色に染める。
リビングの窓越しに見える街にも、ぽつぽつと灯りが入り始めていた。
暖房の低い音だけが部屋に満ち、外の寒さだけが強まっていく。
ソファに腰を下ろし、膝の上でスマホを眺めていたそのとき、
僕のメールボックスに、見慣れない送信者からのメールが届いた。
件名:【ラジオ出演のお誘い】Re:Voice様へ
件名を見た瞬間、指が止まった。
「……ラジオ? 僕が?」
喉がひくりと鳴る。
冗談だと思いたいのに、心の奥がざわついて落ち着かない。
「違う人へのメール、だよね……」
そう呟きながらも、削除することはできず、
僕は息を整えるように小さく深呼吸をした。
「……見てみるだけだから」
自分に言い聞かせるようにして、
震える指で画面をタップする。
僕は恐る恐るメールを開いた。




