第25話 誰にも祝われず孤独だった僕が、唯一「生まれてきてくれてありがとう」と抱きしめてくれた彼女の部屋で涙が止まらなくなった
夜。
窓の外では、粉雪が静かに舞っていた。
街灯の光に照らされて、降り積もる白がゆっくりと滲む。
僕は心音さんの部屋で、アコースティックギターを抱えていた。
指先が少し冷たい。
けれど、弦に触れるたび、音が部屋の中に柔らかく広がっていく。
「零くん、準備できた?」
「……うん」
マイクの位置を調整して、息を整える。
一曲目から一ヶ月。
ようやく形になった、二曲目。
テーマは「孤独」と「温もり」。
あの夜、凍えるような孤独の中で心音さんに触れた時の、あの灯りのようなぬくもり。
「いつでもいいよ」
心音さんが僕の隣に座る。
彼女の手が、僕の膝にそっと触れた。
その小さなぬくもりに、背中を押される。
深呼吸。
録音ボタンを押す。
指が、静かに弦を弾いた。
やわらかなアルペジオ。
冬の空気を震わせるような、透明な音。
そこに僕の声が、静かに重なる。
暗い夜の中で
ひとりきりの僕を
きみの声が
そっと包んでくれた
心音さんの息をのむ音が聞こえた。
それでも僕は、止まらずに歌う。
凍える手を
もう離さないで
きみがくれた
温もりの在処
ギターの音が、冬の部屋にゆっくりと溶けていく。
指先が痛いほど冷たいのに、胸の奥だけがあたたかかった。
最後のコードが消える。
静寂。
ストーブの小さな音だけが、かすかに響いている。
「……終わった」
僕は息を吐き、ギターを抱えたまま目を閉じた。
「零くん……」
心音さんの声が震えていた。
頬に光るものが見える。
「すごく、綺麗だった……零くんの声、ギターと一緒に心に染みたよ」
「……ありがとう」
彼女が僕を抱きしめる。
ギターの木の匂いと、心音さんの髪の香りがまざる。
胸の奥がじんわり熱くなる。
「タイトル、どうする?」
「……『温もりの在処』はどう?」
「うん、それがいい」
僕は編集を終えて、Harmoniaの投稿画面を開いた。
白い指先が少し震える。
でも、もう怖くない。
アーティスト名:Re:Voice
曲名:温もりの在処
投稿ボタンを押す。
「……投稿したよ」
「うん」
心音さんが僕の手を握る。
その手の温かさが、まだ弦の余韻みたいに残っていた。
画面に、再生数がゆっくりと増えていく。
3、15、28、47——。
コメントが流れる。
『ギターの音、涙出た』
『この声に救われました』
『Re:Voiceさん、歌ってくれてありがとう』
僕の目から、涙が零れた。
「心音さん……届いてる」
「うん。零くんの声、ちゃんと届いてる」
彼女が涙を拭ってくれる。
その指先が、弦の余韻よりもやさしかった。
外を見ると、雪が静かに降り続けている。
窓の外の白が、街を包んでいく。
「もう寝よう? 明日も早いし」
「……うん」
ギターをケースにしまい、灯りを落とす。
ベッドに入ると、彼女の体温がすぐ隣にあった。
外は雪。
でも部屋の中は、まだ歌の余韻であたたかかった。
その夜、僕は心音さんの腕の中で、静かに眠りに落ちた。
翌朝。
目が覚めた瞬間、静寂に包まれた空気の中で、微かに甘い香りがした。
ぼんやりとした意識のまま隣を見る。
けれど、心音さんの姿はなかった。
いつもなら、寝息が近くで聞こえるのに。
「……心音さん?」
名を呼びながら、僕はベッドから身を起こした。
外の光は淡く、カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の空気をやさしく照らしている。
息を吐くと、ほんのり白くなった。
暖房はまだ入っていないのだろう。
床の冷たさが、素足を少しだけ刺した。
パジャマのまま、リビングへ向かう。
ドアノブに手をかけると、ほんのりと甘く、温かい空気が漏れ出してくる。
ゆっくりと扉を開けた瞬間――
ふわりと、バニラと生クリームの匂いが広がった。
「え……」
テーブルの上には、小さな丸いケーキが置かれていた。
その真ん中に小さなろうそくが三本。
その隣には淡い色の包装紙で包まれた、リボン付きのプレゼントがそっと並んでいる。
「おはよう、零くん」
声のする方を振り向くと、キッチンの入り口に心音さんが立っていた。
手にはマグカップ。
湯気が立ちのぼっていて、彼女の頬も少し赤い。
「お誕生日、おめでとう」
――時が止まった。
「……え?」
言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
誕生日。
その響きが、胸の奥を小さく叩く。
頭の中でカレンダーをめくる。
12月3日。
そうだ――
今日が、僕の誕生日だった。
けれど、もう何年もその日を“特別”だと思ったことがなかった。
誰かに祝ってもらうこともなく、自分から思い出すことすら、やめていた。
「前に、誕生日聞いたの覚えてる?」
心音さんが、少し照れくさそうに笑う。
僕は小さく頷いた。
「……うん。覚えてる。あの、カフェで話した時」
「そう。その時、ちゃんと覚えておこうって思ったの」
胸の奥が熱くなった。
こんな些細な会話を、彼女は覚えてくれていた。
それだけで、涙がにじんだ。
「心音さん……」
声が震える。
「どうしたの?」
一歩、二歩。
僕は彼女の方へ近づく。
涙が視界を曇らせていく。
「ごめん……嬉しくて……」
言葉にならない嗚咽がこみ上げてきて、気づいたら泣いていた。
声をあげて、子どものように。
「誕生日なんて、もう誰も……祝ってくれないと思ってた」
「零くん……」
心音さんが僕の前に来て、そっと抱きしめてくれた。
彼女の胸のあたりから、柔らかい香りがした。
髪が頬に触れて、少しくすぐったい。
そのすべてが、現実とは思えないほど温かかった。
「どうして……心音さんは、僕のことを見ててくれるの」
掠れた声で問うと、心音さんは微笑んだ。
「零くんのことが、好きだから」
その瞬間、張りつめていた心の糸がぷつりと切れた。
声を殺すように泣いた。
頬を伝う涙の温度が、胸の奥を溶かしていく。
「……零くん、生まれてきてくれてありがとう」
その言葉に、全身が震えた。
“生まれてきてくれてありがとう”
誰にも言われたことがなかった言葉。
僕が存在していい理由を、ようやく誰かがくれた。
「心音さん……」
「零くんがいてくれて、私も幸せなの」
心音さんの声は、まるで冬の陽だまりのようだった。
僕は彼女の腕の中で、何度も小さく頷いた。
「ありがとう……ありがとう……」
その言葉しか出てこなかった。
やがて、少し落ち着いた頃。
二人でテーブルの前に座った。
「ろうそく、つけるね」
「……うん」
心音さんがマッチを擦る。
ぱちっと小さな音がして、火がともる。
淡い炎が、ゆらゆらと揺れて、僕たちの頬を照らした。
息を吹きかけると、小さな炎がふっと消えた。
「おめでとう、零くん」
ぱちぱちと、心音さんが小さく拍手する。
その笑顔が、ろうそくの余韻に照らされて、少しだけ滲んで見えた。
「プレゼントも、開けてみて?」
「いいの?」
「もちろん」
包装紙を破る指が少し震えていた。
中から現れたのは、マットな黒のヘッドホン。
イヤーパッドは柔らかく、しっとりとした手触り。
「零くんが音楽を聴くとき、もっと心地よく聴けたらいいな、って思って……」
「……ありがとう」
そっとヘッドホンを頭にかける。
耳を包む感触が、まるで心音さんに抱きしめられているみたいで、自然と笑みがこぼれた。
「似合ってる」
「本当?」
「うん。すごく」
心音さんの微笑みが、胸の奥に小さな灯をともす。
イヤホンから流れる音楽の静かな響きとともに、二人の時間が柔らかく、儚く、あたたかく重なっていった。
ケーキを切り分けると、白い皿の上に雪のようなクリームが広がった。
フォークを入れると、やわらかい感触。
口に運ぶと、甘さの奥に少しだけ塩味があった。
涙の味かもしれない。
「美味しい……」
「よかった。がんばって作ったんだ」
「心音さん……」
僕は改めて、彼女の瞳を見つめた。
あたたかい光が揺れている。
「僕、生きててよかった」
その言葉を口にした瞬間、胸が熱くなった。
「零くん……」
「心音さんに出会えて、本当によかった」
心音さんの目にも、静かに涙が溜まっていた。
「私も。零くんに出会えて、よかった」
二人で手を繋ぐ。
彼女の手は小さくて、あたたかくて。
指の間から、心がゆっくりとほどけていく気がした。
窓の外には、真っ白な世界が広がっていた。
冬の朝日が雪を照らし、淡い光がゆっくりと溶けていく。
静かな呼吸のように、街全体がしんと落ち着いている。
誕生日。
初めて、心から祝福された日。
あの日までの孤独が、少しずつ遠ざかっていく。
新しい歳。
新しい自分。
この手を離さずに、生きていこう。
僕は心音さんの手を強く握りしめた。
その温もりが、確かに――
生きている証のように感じられた。
(心音視点)
朝の光が、ゆっくりと部屋を包んでいく。
テーブルの上のケーキには、吹き消された一本のろうそく。
小さな炎が消えたあとも、あたたかな余韻だけが、そこに残っていた。
零くんの笑顔はまだ少し涙で揺れていて、見ているだけで胸の奥がぎゅっと痛んだ。
——生まれてきてくれて、ありがとう。
そう伝えた瞬間、零くんの瞳が壊れそうに震えた。
その涙の一粒一粒が、凍えた時間をとかすようで、
見ているだけで息が詰まりそうだった。
長い夜の孤独を抱えて、ずっと自分を責めていた彼がやっと自分を赦せた瞬間を見守る、
そんなあまりにも切なく、でも温かい時間。
「零くん、生きててよかった」
私の声は、冬の空気に溶けて、すぐに消えた。
でも、彼の心には届いた気がした。
窓の外、粉雪は音もなく降り積もり、
世界は静かに息をひそめている。
零くんの髪や肩にそっと光が落ち、
まるで冬の朝に生まれた小さな奇跡のように見えた。
——誰かに祝われることを諦めていた人が、
もう一度、生を信じるようになる瞬間を、私は見た。
ケーキを切り分けながら、
フォークを握る彼の手がまだ少し震えているのに気づく。
それでも、笑っていた。
まるで、世界をもう一度信じ直すように。
「僕、生きててよかった」
その言葉を聞いたとき、
心の奥で何かがほどけた。
ああ、やっと……
零くんが、自分を赦せたんだ。
涙がにじんで、ケーキの白が少し滲む。
彼の頬の涙と同じ色だった。
私はただ、静かに微笑んだ。
——彼が生きている。
それだけで、こんなにも世界があたたかい。
手を繋いだまま、窓の向こうの光を見つめる。
白い息、雪、淡い陽。
そのすべてが、彼の新しい一年を祝っているように見えた。
どうか、この朝が、彼の心に刻まれるように。
どうか、もう二度と「ひとり」と思わないように。
私は、彼の手を少し強く握った。
——零くん。
あなたが生まれたこの日が、
私にとっても、“特別な朝”になったんだよ。




