第10話 胸の奥のぬくもりは、伝えられない想いだった
その日、空は少し霞んでいた。
夏の熱は遠ざかり、風にはひんやりとした気配が混じりはじめている。
春野さんと並んで、カフェの窓際に座った。
通りを行き交う人々の姿は、ガラス越しに少しぼやけて見える。
カップから立ちのぼる紅茶の湯気は柑橘の香りを含み、胸を落ち着かせるように漂っていた。
「……零くん、また黙ってる」
ふいに春野さんが笑い、僕の顔を覗き込む。
「ごめん。考えごとをしてて」
スプーンでカップをかき混ぜると、彼女は首を小さく横に振った。
「そういう時間って大事だよ」
両手でカップを包む仕草はゆったりとしていて、見ているだけで安心する。
光に透けた紅茶が唇に触れ、その一瞬さえ胸を締めつけた。
「……落ち着くね」
思わず口にすると、彼女は小首をかしげる。
「なにが?」
「この時間。春野さんと、こうしてる時間」
言った直後に顔が熱くなる。
だが、彼女は驚いたあと、ふわりと微笑んだ。
「そう言ってもらえると、嬉しいな」
その笑顔に、心が小さく波打つ。
やさしいのに、なぜか胸の奥は痛んだ。
――あたたかさを受け取るたび、僕は自分の居場所を見失う。
帰り道、公園に立ち寄った。
青々とした木々を揺らす風には、乾いた気配が混じっている。
肩が触れるか触れないかの距離で、ベンチに並んで座る。
「今日は、少しだけ秋の匂いがするね」
春野さんの言葉に、僕は目を閉じた。
その“秋の匂い”という響きが、胸に静かに残った。
ふいに彼女が僕の手に触れる。
そっと重ねられる指先に、息が止まりそうになった。
「零くんの手、あったかいね」
その何気ない言葉が、僕の心をいちばん深い場所で揺らす。
言いたいことは山ほどあるのに、声にはならなかった。
――心ごと引き寄せられていく。
でも同時に、胸の奥で何かが崩れる。
『お前なんかが、愛を求める資格あると思ってるの?』
いつも心の闇で響く声。
義理の両親の冷たい視線。
クラスメイトの嘲笑。
存在そのものが重荷だと突きつけられた日々。
「……ごめんなさい」
思わず漏らした声に、彼女が小さく首を傾げる。
「え?」
「……なんでもない」
つないでしまった手。安心してしまったこと。
全部、僕には不釣り合いな願いだった。
「……よかったら、今日はうちに来る?」
駅までの道で、春野さんがそう言った。
「疲れてるし……ひとりでいるより、零くんがいてくれたら安心できる気がする」
その声は、ほんの少し弱かった。でも、自然で、素直だった。
彼女の“お願い”は、いつもこうやって、そっと差し出される。
僕は何も言えず、小さくうなずいた。
――彼女の部屋に入るのは、初めてだった。
玄関から漂うのは紅茶と洗剤のやさしい香り。
白とベージュでまとめられた部屋は、落ち着いた空気に満ちていた。
窓辺の観葉植物、本の並んだ棚、紅茶の缶やアロマの瓶。
どれも彼女らしくて、僕は少し戸惑いながら部屋の片隅に座った。
「緊張してる?」
「……少しだけ」
春野さんはくすっと笑って、「大丈夫だよ」と言った。
その声に、肩の力が抜けていく。
居心地は悪くなかった。むしろ――良すぎて怖かった。
この空間に長くいたくなる自分が、怖かった。
夜。
彼女はいつの間にか眠り、静かな寝息を立てていた。
隣で眠る姿を見つめると、胸がやさしく満たされるのに、同時に切なくなる。
ふと視線をやると、部屋の隅にギターが置かれていた。
抱くだけのつもりで手に取ったのに、指先は勝手に弦を鳴らしていた。
小さな音。
でもその音は、胸の奥からあふれる想いのかけらだった。
未完成な旋律。
それはたしかに――彼女のために浮かんだ音だった。
ギターを置き、眠る彼女の手にそっと触れる。
「……心音さん」
思わず、初めて下の名前で呼んでしまった。
彼女は眠ったまま変わらぬ呼吸を続ける。
それだけで十分だった。
名前を呼べただけで、僕の心の余白に、ほんの少し温度が灯った気がした。
朝。
彼女は眠たそうに目をこすりながら、紅茶を差し出してくれた。
僕はそのカップを受け取り、ぎこちなくも少し笑った。
春野さんは驚いたように目を見開き、それからふわりと笑った。
「今の、初めて見たかも」
「……そう、かもしれないね」
彼女は何も言わず、ただ微笑んでくれる。
その笑みが、僕の“余白”に静かに色を添えていくようだった。
――けれど、心の奥で思ってしまう。
こんなぬくもりが、ずっと続くなんて信じてはいけないのではないか、と。
やさしくされるたび、「そんな自分じゃない」と心が軋む。
少し笑えただけで、手を握れただけで、胸が苦しくなるのはどうしてなんだろう。
きっと僕はまだ、自分を、過去を、“生きていていい”と思えていない。
それでも――
彼女のぬくもりだけは、僕の中の空白をそっと照らしていた。
だから、今だけは。
この手を、離さないでいてほしかった。
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