1~銀箱は笑う
洞窟の奥は、しんと静まり返っていた。湿気に濡れた石壁からは、ひんやりとした空気が肌を刺し、苔のような不気味な匂いが鼻をつく。洞窟の入り口には、冒険者協会による「踏破済み」の立て看板が掲げられている。
踏破済みのダンジョンは、冒険者が隅々まで確認し、ダンジョン内を制圧し、安全を確保したという証だ。通常はアイテム一つすら落ちていない。だが、エレアノーラ=リッチポンド(18才)は、その何もないはずの洞窟に自ら足を踏み入れた。
ノーラはバイトで雇った助手を伴い、しばし、まっすぐ続くだけの道を歩いていた。片手に古びたランタン、もう一方の手には、測量用の木の棒を握りしめていた。
そして歩みを止めた。目の前には、古びた空っぽの宝箱が落ちている。ノーラは静かにしゃがみ込み、両の手ほどのサイズの宝箱をそっと抱えた。
「地図にも載ってたけど……やっぱり予想通りね」
彼女の言葉に、横に立つ若き冒険者、ソルト=シオ(19歳)が懐疑的な声を上げた。
「空の宝箱ですよ、ノーラさん。まさか、これのために来たんですか?」
ソルトは考古学者を目指し、学費を稼ぐためにアルバイト感覚で冒険者稼業をしている。しかし、彼の知識をもってしても、目の前の空っぽの箱に、考古学的な価値や意味を見出すことはできなかった。
壁際にひっそりと置かれた、小さな銀色の宝箱。中は空っぽ。埃っぽい空気をまといながらも、どこか鈍く上品に光っていた。ノーラはその箱を軽く叩き、音を聞く。その音が、彼女の耳には、銀貨の響きのように心地よく聞こえた。
「そうよ……厚みは約3ミリ。音の響き方からして、銀合金以上。ガチの銀ね。含有量は80%以上ありそうだわ。バカねえ、誰も気づかないなんて」
ソルトは驚き、目を見開いた。
「えっ!? これ、銀なんですか!?」
「うん。たまにダンジョンに銀色の綺麗な宝箱があるでしょ。あれも銀が使われているわ。みんな、まさか銀だろうとは思わずに中身だけいただいて帰るけど、宝箱の方にも価値があるのよ。残り物には福があるってわけ。こっちの方には刻印があるから、同じ大きさならこっちの方が高くなるけどね」
ソルトは、宝箱の材質の価値に驚きつつも、考古学徒としての探求心から、古代の歴史に思いを馳せた。
「長い氷河期と飢えの時代があって、古代人は貴重品を保存するために洞窟やダンジョンに宝箱を隠したというのが考古学の定説です。僕は、古代人同士の間で争いがあって、ダンジョンの宝箱に保存しなければならなくなった出来事があると、考えているんですよ」
実に考古学者らしい考察だとノーラは思った。宝箱の表面を指でなぞる。だが、強欲の魔女、金の亡者と呼ばれるノーラにとっては、高く売れそうな目の前の銀箱の方が、古代の歴史よりも魅力的に思えた。
「それなら古代人に感謝しないとね。私が私のために銀箱を売ってお金にした方が、古代人も喜ぶでしょ」
ソルトは苦笑いを浮かべる。
「ノーラさん、強欲の魔女とか金の亡者とか呼ばれてますもんね」
ノーラはうんざりしたように、軽いため息をついた。
「センスなさすぎ。私の二つ名を呼ぶなら、夜帳の換金師とか銀刻の値踏姫、もしくは黄金秤の魔導商人とでも呼びなさいよ」
ソルトは反射的に……長いですってと言いそうになったが、間一髪で言葉を飲み込む。
「……僕、そういう呼ばれ方を聞いたことないですけど、誰がそう呼んでいるんです?」
「私が自分で名乗っているの。本名を隠して取引をする時とかにね。いい名前でしょ」
ソルトは困惑を隠せず、引きつった笑いを浮かべる。ノーラの自己プロデュース能力の高さに、彼は言葉を失った。これ以上ツッコまない方がいいと、口を真横に固く閉ざした。
ノーラは大して重くもない箱を軽々と持ち上げ、くるりと回して蓋を開閉してみる。軋む音が、彼女の耳には心地よいメロディーに聞こえた。「銀製の古物箱」――中身が空っぽだろうが、素材が銀なら価値は十分にある。飾りでも素材でも、売れる先はいくらでもある。
「ま、中身がないなら、箱ごと売るだけの話よね。当然でしょ」
ノーラの口元がにやりと笑った。
「ノーラさん。商魂たくましいですね」
「当然よ。財布の中身は膨れれば膨れるほど、気分も良くなるってものよ」ノーラは笑顔で答えた。
~数時間後、とある町の雑貨屋~
「これ? いらないなら捨てちゃうわよ? でもちょっと珍しいものでねぇ。銀っぽい質感、悪くないでしょ?」
カウンター越しに、ノーラは宝箱をそっと差し出した。雑貨屋の親父はそれを手に取り、しげしげと眺める。
「……なんか、ずいぶん古い物だな。お嬢さん、これ、どこで拾ったんだい?」
「ちょっとね、人気のないとこ」
ノーラはそれだけ言って、肩をすくめた。
「傷も少ないし、装飾も凝ってる。これは……うーん……20フロー(銀貨20枚)ってとこが相場かな」
「もう一声、30銀フロー(銀貨30枚)。悪くない値段でしょ? おじさん、値付けのセンスあるわよ。いい目してる」
「25」と店主が告げる。
「27」ノーラはすかさず掲示する。
「いいだろう。27フローだ」
ちょっとおだてれば、値段が跳ねる。ノーラはそれを熟知していた。
やがて商人が財布から銀貨を取り出すと、ノーラはにっこり笑って手を伸ばす。
「商談成立ね。また面白い物があったら持ってくるわ。……見つけた人の価値って、意外と高いのよ?」
ノーラが去った後、雑貨屋の親父はもう一度宝箱を手に取り、蓋の裏に刻まれた模様にふと目が留まった。
「ん……? この刻印、王都の王室工房……? まさか、本物の……?」
その瞬間、彼の焦りが手に伝わり、箱がツルリと滑り落ちる。
ガンッ!!
中身が空だったからよかったものの、銀の箱は重みのある音を立てて床に落ちた。
「こいつぁ……とんでもない掘り出し物を、笑顔で持ってきやがったな……!」
閲覧いただきありがとうございます。
ご意見、感想などありましたら喜びます。
一旦話の区切りがついたとこで、ストックが20万文字ほど話数にして今のとこ120話分~くらいあるので、それまで投稿が途切れることはないと思います。